「アンチエイジング」という言葉が持つ、なんとない違和感。

今回も、前回に引き続き『アデライン、100年目の恋』から始まりたいと思います。この映画は時々「アンチエイジング映画」と言われたりしますが、見たらシワが1本消えるとかそういう効果はまるでなく、主人公のアデラインが29歳から不老不死になったという設定からです。実のところアデラインはめちゃめちゃ年を取りたがっている「エイジングカモーン」な女子で、にもかかわらずこんな風にアピールされるのは「アンチエイジング」が女子の大きな関心事だから――なのですが、この言葉、なんとなーく悶々とさせられます。

話は変わりますが、小学校の頃の私は朝礼でふらっと倒れたりする虚弱児で、胃腸が弱くて食が細く、身体が小さくて貧血気味、太陽光が苦手で肌は生っ白く、生まれながらの股関節亜脱臼で、ひきつけ持ちでアトピー持ちでした(どんだけ)。

当然ながら医療機関の常連客で、特にひどかったアトピー性皮膚炎においては、20代までにそれはもう無数の皮膚科にかかり、結局は医者は根本解決はしてくれないと悟りました。「自分で解決するしかないのだわ」と考えた私は、様々な本を読み漁りアトピー仲間と情報交換をし、自分の身体で人体実験を重ね、己のアトピーの原因を突き止めて克服。おかげで30代になる頃には自他ともに認める健康オタクになり、その頃から日常的に健康をけっこう意識しています。

ところが。それによる様々なこと――オイルマッサージとか、血行促進のハーブやエッセンシャルオイル、玄米・野菜・豆・乾物を使った和食中心の食事とか、発酵食とか白砂糖抜きとか、ヨガとかストレッチとか――は、大人になってくると「アンチエイジングのため」と思われがちです。もちろん「健康のため」も回りまわって「アンチエイジング」と言えなくもないけれど、なんでしょう、この違和感。

でも「いやいや、これは20代から始めていることで……」とわざわざ説明するのもヘンかなとスルーしてしまうのですが、そうすると私は「エイジングOK派」なのに「オバちゃんにならないよう必死」で、自分や他人の「加齢をこの世の終わりみたい考えてる人」と思われているようで、なんだか悶々とします。

さすがキョンキョン!――と、喝采してはみたものの。

この「アンチエイジング」という言葉への違和感は、「美魔女」という人たちにも時々覚えてしまいます。世の中的には賛否両論の「美魔女」ですが、誰に迷惑をかけているわけでもなし、他人がとやかくいうのは大きなお世話だと私は思っています。でも、例えば「10代の輝きとは全く違う」とある美魔女の定義に、同時に「年齢を感じさせない外見美」という文言があったり、「知的美」が売りの美魔女のコンテストに「水着審査」があるとか聞くと、え?と思います。「美魔女」の美の基準って、若い女の子たちのミスコンと同じなの?と。

もちろん私は「若さ=美しさ」を全然否定しません。必ずしも造形的に美しいとは言えない10代の女の子が、それでも可愛く輝いて見える理由はそこにあると思うからです。でも「美魔女」が「美しさ=若さ」と考えて追求しているならば、それはなんだか拍子抜けというか、がっかりするというか、なんとも言えない悶々が残ります。

要するに「美」=「加齢に抗うこと(アンチエイジング)」という認識、そこにある「加齢」を貶めるようなニュアンスが、なんかイヤなのです。ちょっと前、小泉今日子さんの発言が話題になりましたが、あの時も「アンチエイジングが大嫌い」じゃなく「アンチエイジングっていう言葉が大嫌い」だったのは、小泉さんもこういう違和感を覚えていたからじゃないかなあ。

そういえば、その発言に「よくぞ言ってくれました」と喝采する女子たちがいた一方で、「キョンキョンさすが――とは、言うものの」みたいな人の言いっぷりにも悶々とさせられました。大まかにいうと、小泉さんは「キョンキョンだから」「美人だから」「生き方がカッコいいから」アンチエイジングしなくても「許される」という論調です。そしてそれは、「小泉さんが本当にやっていないワケがない」「サボっていいと言ってるワケじゃない」「一般人がマネしたらバカを見る」――と続きます。肯定しといて否定、ハシゴかけといて外す、ダブルスタンダード。どうせえ言うねん、まったく。

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