「なんだよまた女かよ」で、こんな事態に

私は三人姉妹の末っ子に生まれたのですが、跡継ぎを求めていた父親は「なんだよまた女かよ」とかなり失望したらしく、「産まれたのが女だと知るやいなや顔も見ずに帰ってしまった」と幼いころからミミタコで聞かされてきました。ちなみに姉妹で私の名前だけ、センスの悪い父親がつけてくれなかったことは、勿怪の幸いとしか言いようがありません。

そんなわけで、そりゃあ悪うございましたと思うことしきりで育った私の周辺には、「期待していないんで好き勝手にどうぞ」な空気があふれており、結果として自分がこんなにも自由人になってしまった根っこにはそれがある気がします。つまり私が親に対して勝手に感じていた「どうせ期待してないんでしょ」的発想が少なからず人格形成に影響しているわけで、やっぱり親の呪縛ってすごいものだなあとつくづく思います。

さて前々回の『フランシス・ハ』では「"ちゃんとすること"を望まれて育っているから、だらしなくできない完璧女子」について書いたのですが、これもしかして完璧女子だけに限らないんでは?というのが今回のお話。ネタの映画ウディ・アレン監督の傑作『マッチ・ポイント』。英国貴族のお嬢様を相手に玉の輿を狙う二流のテニスプレイヤー、クリスが、そのお嬢様の兄の婚約者でこちらも玉の輿狙いの売れない女優ノラと関係を持ってしまい、のっぴきならない状況に追い込まれるというサスペンスです。

本質的には同じ「完璧女子」と「エロい女」

このノラ、誰が演じているかといえば、ハリウッドのセクシーの代名詞、スカーレット・ヨハンソンです。10年前の映画なので、スカヨハは半端ないムチムチプリンぶり、キャラクターも「こんな女が近くにいたら一巻の終わりや…」と男も女も思うようなセクシービッチです。「男はみんな私と寝たがる」と言ってはばからないノラは、男に求められることにすごく慣れています。思わせぶりな視線や言葉でそれに応じるのも、そうすると男が喜ぶのを知っているから。映画の舞台はロンドンなのですが、彼女だけがアメリカ人で、わかりやすいセクシー表現とかあけすけな物言いとかいかにもな「エロい女」です。

でもよく見ているうちに気付くのは、ノラが男との付き合いでいつも主導権をとれず、ここぞと言う時に相手の要求を飲んでしまうことです。初対面でやたら触ってくる男を拒否せず、恋人に「ここでやりたい」と言われればどこであれパンツを脱ぎ、危険日なのにコンドームなしで押し切られ、できた子供を「堕ろせ」と言われ2度も堕ろし、理不尽にも「わかってくれよ」と懇願されて引き下がります。

ノラのことを「だらしない」と嫌う女子は多いと思いますが、私が思うに、彼女はむしろ愚かで「男が自分に望むことを拒絶できない」だけ。「男の望みに応える女がモテる」「男に望まれる女になることが幸せだ」としか教えられていないからです。この構造は「本当に嫌なら拒めたはず」と責められるセクハラ被害者と、どこか似ている気がします。もちろんみんなが拒める女子になれたらそれが一番だとは思うけれど、そうできなかったとしても、蔑まれるべきは「堕す女」と「セクハラ被害者」じゃなく、「作っといて堕ろさせる男」と「セクハラ加害者」なんですから。

ふと、ふたつの言葉を思い出します。ひとつは、若い頃に母親によく言われたこと。「女の子は望まれてお嫁に行くのが一番」。ちなみに自分の望みのほうが多すぎる劣等生の私は、ぜんぜん守ることができませんでした。そしてもうひとつは、さも女性に理解がありそうに見えた大学時代の同級生(男)が言った理想の女性像。「女は求めず、されど拒まず」。ちなみに「ノラ」という名前は、ノルウェーの劇作家イプセンの「人形の家」から。自分が夫の人形でしかなかったと気づくヒロインの名前です。

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