ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

今回取り上げるのは、児童用「偉人伝」シリーズの常連中の常連である「野口英世」。2004年から千円札の肖像になっているため、日本在住者なら彼の顔は「おなじみ」のはずです。

 
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野口英世/1876年(明治9年)11月9日生まれ、1928年(昭和3年)5月21日死去。

児童書に書かれている英世は、「苦労して立身出世した人物」。

英世(誕生名は「清作」)は貧しい家庭に生まれ、1歳のときに囲炉裏に落ちて大やけどを負いました。小学校に入学すると、やけどで左手の指がくっついていたことを理由にいじめの標的に。母・シカは「この手では農作業ができない。だから学問で身を立てなさい」と英世に説いたそうです。

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▲ 生家に今も残る囲炉裏。

左手の障がいを悲しく思っていた英世は、そのことを作文に綴りました。これにより英世の手術費用が募金であつめられ、1892年(明治25年)10月、アメリカ帰りの医師・渡部鼎(かなえ)により、左手の手術が行われました。すると手術は成功、左手は動くようになりました。感激した英世は医師を目指します。

上京し、医師・細菌学者となった英世はアメリカに渡ります。特に黄熱病の研究に取り組んだことで知られていますが、英領ゴールド・コースト(現・ガーナ)のアクラで自らも黄熱病にかかり亡くなりました。享年51歳でした。

※サル、ヒトおよび蚊を宿主とし、蚊によって媒介される疾患(国立感染症研究所HPより)。

…と、ここまでは有名なエピソードですが、今回は彼の人生のもう少し突っ込んだ部分について紹介します。

 
Science Source / Aflo

  1. 100年以上前とは思えない!世界中をかけめぐっていた
  2. とんでもない努力家--“眠らない人”
  3. お墓はニューヨークにある

100年以上前とは思えない!
世界中をかけめぐっていた

英世の経歴を見ていると、当時生きていた人とは思えないほど世界中を渡り歩き、海外渡航を繰り返しています。

“初海外”は1899年(明治32年)10月の清国(現・中国)。翌年1900年(明治33年)12月5日には横浜から船に乗り、アメリカを目指します。以後アメリカを拠点に細菌学の研究にいそしみましたが、1903年(明治36年)にはデンマークに留学。1913年(大正2年)には欧州各国での講演旅行もしています。

 
Photo 12//Getty Images
▲ 1900年当時の横浜の風景。

1918年(大正7年)6月、まだ特効薬がなかった黄熱病の研究のため、ロックフェラー財団から派遣されエクアドルへ。その後も黄熱病の病原体の発見や学術発表・会議出席のため、メキシコ、ペルー、ジャマイカ、セネガルなどに渡航しています。

現在であっても、これほど海外渡航をしている人は少ないでしょう。しかも時は明治・大正・昭和初期。現在とは事情が違います。情熱をもって仕事に取り組み、研究のためにはどこに行くのも辞さない―― そんな「研究者」としての一面はもちろんのこと、「国際人」として世界と渡り合える人物だったことが分かります。

とんでもない努力家
-- “眠らない人”

英世には放蕩者の一面もあったのですが、研究に対する姿勢は「猛烈」という言葉がぴったりなどひたむきでした。

試験管で培養した細菌でスライドを作り、一つひとつ顕微鏡で見てデータを収集する作業は地味で時間が掛かります。日々膨大な数の実験を繰り返す英世のことを、同僚たちは「実験マシーン」「日本人は睡眠をとらない」と表現したそうです。彼は生涯に200以上もの論文を発表しています。

▲ 英世の研究ノート。

終焉の地となったガーナでの滞在も、本来は3カ月だった予定を半年に延長し、実験を続けました。

これほどまでに彼が努力家だった背景には、彼が細菌学者としては「後発」だったこともあります。すでにパスツール、コッホ、北里柴三郎らによって主な病原菌は発見しつくされていました。国際的な名声をあげるためには、未解明かつ発見困難な病原菌を見つける必要があったのです。

しかしこんなに仕事をしていたのに英世は「仕事だけ」の人ではなかったそう。彼は多趣味な人物としても知られ、休日は油絵を描いたり、囲碁・将棋もたしなんだそうです。

野口英世記念館では英世の愛用品も多数展示。これは将棋の駒。

お墓はニューヨークに

日本を代表する「立身出世の人」ですが、実はお墓はアメリカ・ニューヨーク市にあります。アメリカに渡ってから約10年後、1911年(明治44年)2月にアメリカ人女性メリー・ダージスと結婚。渡米以来、彼の生活の場はアメリカでした。

1912年(明治45年)、母・シカが英世に「帰ってきて下さい」と書いた「シカの手紙」は有名ですが、英世が一時帰国を果たしたのはそれから3年後の1915年(大正4年)9月のことでした。

▲ 一時帰国中の英世と母・シカ(左から2番目)。

2カ月間の日本滞在の後、再びアメリカへ。その後、英世が日本に帰国することはありませんでした。ガーナで死去後、遺体はアメリカに運ばれ、ニューヨーク市のブロンクス区にあるウッドローン墓地に埋葬されました。現在も妻メアリーとこの地で眠っています。


研究者としての運と不運
--両方を持ち合わせた人物

彼の功績は「黄熱病の研究に尽力した」と語られることが多いのですが、実際に黄熱病の病原体の発見とワクチン開発を行ったのは英世ではありません。“細菌”学者であった英世は、黄熱病の病原体は「レプトスピラ・イクテロイデス」という“細菌”であると発表しました。

しかし、実際には黄熱病の病原体は(細菌ではなく)ウイルスであり、電子顕微鏡発明前の顕微鏡でどんなに覗いても見えないものでした。当時、彼が派遣されていたエクアドルでは黄熱病と症状が酷似しているワイル病も同時に流行しており、英世が実験していたのはワイル病の検体だったのです。

エクアドルで黄熱病が終息に向かった時期は、英世の“発見”報告に基づいて作られたワクチンの集団接種と同時期だったと言われています。人々は英世のワクチンの有効性を信じ、一気に彼を英雄に押し上げました。

しかし、もちろんこのワクチンは黄熱病には効かず、1920年代になると英世の「細菌説」に疑問が唱えられるようになりました。その検証のために赴いた地がガーナだったのです。

天賦の才能に恵まれただけではなく、研究者としての地位は努力して勝ち取ったものです。ノーベル賞候補に3度もなりました。しかし彼の研究の多くが、後に否定されていることはあまり知られていないでしょう。

▲ 1915年(大正4年)、15年ぶりに帰国。故郷猪苗代訪問時の写真。最寄りの翁島駅にはアーチが建てられたほどの歓迎ぶりでした。

彼の人生を見ていると、強運でもありつつも、同時に不運も持ち合わせた人物であることが分かります。学者を志した時期、「まだ出してはいけないのに」と思う論文の発表を研究所に急かされてしまう等、研究者ならではの苦悩も抱えていました。

「立身出世」「美談」の部分だけでなく、彼の人となり、当時の状況、そして研究者としての葛藤の部分を見てこそ、彼の豪快さと真摯な一面、そして51年の短い人生をパワフルに生きた姿が見えてくるように思うのです。

参考文献

  • 『野口英世』(朝日新聞社)中山茂・著
  • 『野口英世』(星和書店)イザベル・R・プレセット・著, 中井 久夫/枡矢 好弘・翻訳
  • 『黎明期のウイルス研究:野口英世と同時代の研究者たちの苦闘』鳥山重光・著
  • <Britannica>
  • <神奈川県衛生研究所> 公式サイト
  • <公益財団法人 野口英世記念会> 公式サイト
  • <医学書院> 公式サイト
  • <日本BD> 公式サイト
  • <NHK> 公式サイト、他多数。