ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

現在放送中のNHK大河ドラマ『光る君へ』、好評ですね。私も毎週楽しく視聴しています。平安時代に生きた女性たちの「声」、特に生きづらさや息苦しさについて、登場人物たちが生きた言葉として発している点は、とても新しい試みだと思います。

心根を語る登場人物に共感したことをきっかけに、当時の時代背景や文化に興味を持った人も多いのではないでしょうか。

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主演は、紫式部(まひろ)に吉高由里子さん。藤原道長は柄本佑さんが演じています。

『光る君へ』で描かれているのは、平安中期の貴族、および宮廷社会です。

平安時代の初代天皇である桓武天皇(737~806年、在位:781~806年)は父系継承を強化し、またこの時代に一夫多妻制が定着しました。家父長制度や女性を“不浄”なものとする考え方がめばえ、次第に女性が政治の場からは消えていった過渡期ではあったものの、平安時代にはまだ「国母(天皇の母)」に権力がありました。

女性史の面では平安時代はその後の「男性社会」に舵を切る時代ともいえるものの、女性文学が花開き、また歴史に名を残す女性の活躍が見られた時代でもありました。

今回は平安の世に生まれ、才能をいかんなく発揮し、賢く、強く生き抜いた女性たちをピックアップ。彼女たちの功績について、豆知識と共に短くまとめました。

「何した人なの?」に即答できる知ったかぶり情報として役に立つだけでなく、さらなる深追いや推し活につながると嬉しいです。

紫式部(973年頃?~1016年頃?)

  • 作家・歌人・女房(女官)、代表作『源氏物語』

言わずと知れた、平安中期を代表する作家であり歌人です。全54帖からなる『源氏物語』以外にも『紫式部日記』を残し、彼女の和歌は『百人一首』『拾遺和歌集』にも選定されています。

下級貴族・藤原為時の娘(次女であるという説も)として誕生。父は歌人・漢詩人であり、紫式部は幼少期から漢詩を読みこなし、文学の才が際立っていたといわれています。

その才に白羽の矢がたち、一条天皇の中宮・彰子(藤原道長の長女)の女房(女官)および家庭教師として仕えた「働く女性」でした。後半で紹介する源倫子にも仕えた可能性もあります。

『源氏物語』を書いたのは、紫式部が夫・藤原宣孝と死別し、シングルマザー(一人娘の母)になった後です。1001年頃から執筆に着手し、宮仕えをする傍ら書き進め、9~10年ほどかかけて完成したと言われています。

『源氏物語』とは?

『源氏物語』は、3部54帖で構成され、光源氏の誕生から死後や孫世代まで、70年余りの年月を描いた長編小説です。

年上&年下との恋愛、不倫、裏切り、略奪、同性愛など、驚くほどさまざまな恋愛の形が描かれていることで知られていますが、『源氏物語』の魅力は「恋愛小説」の範疇にとどまるものではありません。後世まで読み継がれた理由は、紫式部の深い教養に裏打ちされた美しい文体と描写にあります。光源氏のモデルと言われている実在の人物は多数いますが、時の権力者である藤原道長も「モデル候補」の一人です。

清少納言(966年頃?~1025年頃?)

  • 作家・歌人・女房(女官)、代表作『枕草子』

下級貴族であり、著名な歌人である清原元輔の娘として誕生。生没年は紫式部同様不詳であるものの、おそらく清少納言の方が少しだけ年上であり、長生きしたという説が濃厚です。1001年頃に完成したとされる随筆『枕草子』以外にも、多くの和歌を残しています。

生涯で2度の結婚をしています。初婚の相手は981年に橘則光(藤原斉信の家司)で、翌年に第一子・橘則長(歌人)を出産するも離別。2度目は摂津守などの地方官を歴任した藤原棟世。年齢は20歳ほど離れていた可能性が高く、二人の間には一女・上東門院小馬命婦(歌人)が誕生しました。

993年頃からは、後に紹介する藤原定子に女房として仕え、1000年に定子が亡くなると職を辞します。その後の詳細は分かっていません。

大河ドラマでは、紫式部(まひろ)と清少納言(ききょう)が出会うシーンがあります。二人は同時代を生きましたが、実際に宮廷内で出会ったかどうかは定かではありません。しかし紫式部は『紫式部日記』の中で清少納言について「偉そうな人物」であると辛辣に批評しており、少なくとも紫式部は清少納言の存在は知っていました。

珠玉の随筆集『枕草子』

学生時代に「春はあけぼの」から始まる章については勉強した記憶があるはすです。『枕草子』はエッセイ集であり、約300章で構成。内容は下記3種類に分類されます。

  1. 類聚(るいじゅう)章段:「ものづくし」とも言われ、同じ種類の事柄(=類聚)を集めて解説しています。有名な「うつくしきもの」(145段)はこの章段に分類されます。
  2. 随筆的章段:「春はあけぼの」(1段)を含む、自然や人についての随筆。
  3. 日記的章段:藤原定子の女房として見聞きしたことを書いた回想録。定子への敬愛の念が綴られています。

美しい文体と軽やかなタッチで綴られ、当時の宮廷文化が垣間見られる作品です。

藤原道綱母(936年頃~995年)

  • 作家・歌人、代表作『蜻蛉日記』

大河ドラマでは「藤原寧子」として登場している藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)は、地方官を務めた貴族・歌人である藤原倫寧(ともやす)の娘です。

954年に藤原兼家(藤原道長の父)の2番目の妻になり、二人の間には翌年に藤原道綱が誕生します。しかし、兼家は妻も妾も何人もいたことで知られる人物。道綱が誕生したのは995年9月ですが、同月に兼家は別の女性の元に通い始め、970年ごろには道綱母の元にほとんど姿を見せなくなりました。

藤原道綱母の代表作である『蜻蛉日記(かげろう日記)』は、954年秋の求婚・結婚時から始まり、すでに兼家が通って来なくなった974年の大みそかに筆を止めています。当時は「通い婚」が一般的でしたが、当時の生活、貴族社会における一夫多妻制がよく分かる内容であり、時系列なので読みやすい作品です。

藤原道綱母のもっとも有名な和歌

(なげ)きつつ ひとり寝(ぬ)る夜の 明くる間は
いかに久しき ものとかは知る

訳:嘆きながら一人で寝る夜。夜が明けるまでの時間をいかに長いと感じているか、知っていらっしゃるのでしょうか?(きっと分からないでしょう)

『蜻蛉日記』に掲載されているこの歌は、『百人一首』や『拾遺和歌集』にも選ばれ、とても有名な歌です。954年10月に読まれているのですが、これは道綱が誕生した翌月。その後日記は20年ほど続きますが、道綱母が妻として幸せだった時期は短かったことが分かります。

藤原定子(中宮定子)(977~1001年)

  • 一条天皇の中宮(皇后)、平安中期の「サロンの華」

藤原定子(ふじわらのていし)は、藤原道隆(道長の兄)の娘として誕生。990年(13歳頃)に入内(じゅだい:天皇の后になるために、天皇の居所である御殿「内裏」に入ること)して一条天皇の女御となり、その後「中宮(皇后の別称)」となりました。

この時代、「后位(皇后の地位)」をつけるのは「皇后(天皇の正妻)」「皇太后(天皇の母)」「太皇太后(天皇の祖母)」の3人(三后)と定められていました。

この3枠は、先代・先々代の皇后らですでに埋まっていたものの、道隆は何としても定子を皇后にすべく、本来皇后の別称であった「中宮」を一つの后位として作り、定子を皇后の一人に据えました。このいきさつから「中宮定子」とも呼ばれています。

宮中サロンの華から悲劇の后へ

定子は、母・貴子から教育を受けた聡明な女性でした。そんな彼女を慕う才能あふれる女性たちは多く、定子は「宮中サロン」を作り上げた人物でした。

彼女を慕った一人が、女房を務めた清少納言です。『枕草子』には定子についての記述が多く、主従関係にありながらも清少納言は定子を絶賛しています。

しかし、“華”の時代は長くはありませんでした。995年に父・道隆が死去すると、藤原道長と定子の兄である伊周(これちか)との間に権力争いが勃発。

定子は996年に一度出家しましたが、997年1月、第1子・脩子(しゅうし)内親王を出産し再び宮中へ戻ることに。出戻った定子への宮中内での待遇は悪かったものの、一条天皇の寵愛は続き、999年12月に第2子・敦康(あつやす)親王を出産。しかし1000年12月、第3子・媄子(びし)内親王を出産直後に死去。24年の短い人生でした。

和泉式部(978年頃?~没年不詳)

  • 作家・歌人・女房、代表作『和泉式部日記』

和泉式部(いずみしきぶ)は、後世に名を残した平安女性の中でも特に恋多き女性として知られ、また歌作りに関して「当代きっての名手」「天賦の才があった」と称えられる歌人です。2度の結婚以外にも、多くの男性と恋愛したと言われ、恋の歌も多数作りました。

999年頃までに和泉守・橘道貞と最初の結婚をし、第1子である小式部内侍(娘)が誕生しています。その後、貞との仲は破綻し(しかしすぐには離婚していません)、冷泉天皇の第3皇子である為尊(ためたか)親王との恋愛が噂されます。当時の和泉式部は既婚者でした。この身分違いの恋は和泉式部の親を激怒させ、実家から勘当されました(勘当時期は諸説あり)。

実家からの勘当は、大きな出来事だったはずです。しかし1002年、為尊親王が25歳(または24歳)で死去すると、すぐに為尊親王の同母弟である敦道(あつみち)親王から熱烈アプローチを受けました。和泉式部がどれほど魅力的な人物だったのかは分かりませんが、この“次々”ぶりは、当時において事件だったはずです。

共に既婚者だった和泉式部と敦道親王ですが、燃える思いは抑えられなかったようです。敦道親王は1004年頃に周囲の反対を押し切り、和泉式部を「召人」として自宅に住まわせ、正妻が屋敷を出ていく事態にまで発展。二人の間には石蔵宮永覚(和泉式部にとって第2子)が誕生しています。そうまでして貫こうとした愛でしたが、敦道親王は1007年に27歳で死去しました。

他にも、源雅通や源俊賢とも一時恋愛関係にあったとされています。

敦道親王が死去した翌年の1008年~1011年頃まで、和泉式部は一条天皇の中宮・藤原彰子(ふじわらのあきこ/しょうし:藤原道長の娘)の女房を務めており、この縁で、道長の家司(けいし:家政を取り仕切る役職)だった藤原保昌(958~1036年)と再婚しました。

また、実は和泉式部には「もう1人、子どもがいるかもしれない」とも言われています。『和泉式部集』に収録された歌に、そう読み取れるものがあるからです。この子は藤原保昌の子どもではない様子であり、敦道親王と交際する前、または敦道親王と結婚する前なのでは? と推測されています。

約10カ月の恋の記録『和泉式部日記』

彼女の代表作である『和泉式部日記』は、1003年4月~1004年1月までの敦道親王との恋愛初期の経緯を、歌を交えた物語として綴っているものです。成立時期は敦道の死後、1007年以降と言われています。

二人が出会い、関係が深まっていくさまを145首の贈答歌(二人の間でやりとりした歌)を中心に回想しています。彼女の文才については、紫式部も『紫式部日記』の中で評価していますが、あまりに恋愛沙汰が多かった素行については批判しています。

藤原詮子(962~1002年)

  • 一条天皇の皇太后、藤原道長の姉

藤原兼家の次女であり、藤原道長の姉である藤原詮子(ふじわらのせんし/あきこ)は、藤原家繁栄のキーパーソンといえる人物です。

一族の期待を背負い、978年(16歳頃)に円融天皇の女御として入内。980年に第1皇子懐仁親王(980~1011年、後の一条天皇)を出産しましたが、円融天皇の愛情は藤原頼忠の娘・藤原遵子(ふじわらじんし/のぶこ)に移ってしまいます。

しかし、息子が一条天皇として986年に即位すると一気に形勢は逆転し、皇太后に。「国母(天皇の母)」としての発言力を利用し、政治、特に朝廷の人事にも介入しました。

きょうだいの中では兄の藤原道隆よりも弟の藤原道長と仲が良かったと言われ、道長の出世の背景には詮子のはからいがあったようです。たとえば一条天皇の后としてすでに道隆の娘・定子がいたにもかかわらず、道長の娘・彰子(しょうし/あきこ、988~1074年)は12歳で入内し、後に中宮となりました。また、道隆が没すると跡取りであった藤原伊周ではなく、道長を出世させています。

病にみまわれ、991年に出家。そのとき、皇太后だった出家後の詮子の処遇が問題となりました。そこで太上天皇(譲位した天皇=院)に準ずる「女院」制度が作られ、その第一号として「東三条院」となりました。1002年に40歳で死去しました。

赤染衛門(956年頃?~1041年以降?)

  • 歌人・作家・女房、代表作『栄花物語』

赤染衛門(あかぞめえもん)という変わった名前が印象的ですが、右衛門尉(右衛門府の役職の一つ)だった赤染時用(ときもち)の娘であったことからの名前です。学者・漢詩人であった大江匡衡(おおえのまさひら)と976~978年頃に結婚し、少なくとも2子を設けています。

藤原道長の妻である源倫子とその娘・藤原彰子に女房として仕え、紫式部、清少納言、和泉式部とも面識・交流がありました。

聡明な女性だったと言われ、子どもたちの出世のためにも奔走。歌作りの才能に関しては、和泉式部と同様に称えられています。紫式部も『紫式部日記』の中でその才を高く評価しています。

『栄花物語』の作者だった?

赤染衛門は平安時代に書かれた『栄花物語』の作者のひとりであると言われています。『栄花物語』は正編30巻、続編10巻からなる歴史物語であり、1092~1107年の間に成立したと言われています。

内容は、宇多天皇(在位:887~897年)から堀河天皇(在位1086~1107年)の時代を、藤原道長と道長の長男である頼道の栄華を中心に書かれたもの。赤染衛門が正編30巻の作者であった説が有力です。

源倫子(964~1053年)

  • 従一位・准三后、藤原道長の正妻

源倫子(みなものとのりんし/ともこ)は左大臣・源雅信と正妻であった藤原穆子(ふじわらのぼくし/あつこ)の娘として誕生。父は宇多天皇の孫であり、母も高い官位を持つ貴族の出身。貴族社会の中でも「トップクラスの良家の子女」であり、皇后になるべく育てられました。

しかし、倫子の年頃とタイミングにあった天皇がいなかったため、24歳のとき藤原道長(当時22歳)と結婚。6人の子どもを授かりました。

特筆すべきは、子どもたちの出世ぶりです。女児4人のうち、第1子(長女)彰子は一条天皇の中宮、第3子(次女)妍子は三条天皇の中宮、第5子(三女)威子は後一条天皇の中宮になり、第2子(長男)頼道と第4子(次男)教通も関白や摂政など高い地位につきました。

倫子の子どもたちが天皇に嫁ぎ、また孫たちも天皇に即位したため、夫・道長は摂政として事実上朝廷を掌握する存在となりました。倫子は義姉(道長の姉)とも仲が良かったとされ、倫子の存在が、道長の外戚政権(母方の外戚として天皇に近い存在となり、権力を握ること)を完成させました。

赤染衛門は倫子の女房を務め、また紫式部は倫子の長女・彰子の女房を務めました。才能のある女性たちに囲まれた倫子。中宮となった娘たちに助言をする存在だったと言われています。

当時の女性としては異例の「従一位」および准三后(太皇太后・皇太后・皇后の三后に准じた位)を叙されました。夫と子ども(妍子と威子)に先立たれた跡は出家し、90歳で死去しました。当時としては大変長寿の女性でした。


平安貴族社会は、母方の家柄が物を言う時代でした。当時の女性たちを見ていると「子どもを産む道具」「男性の出世のための存在」として扱われていたようにも見え、辛い気持ちになります。

しかし、上記した女性たちは、そんな世にありながら自分の才能を発揮し、存在感を際立たせ、たくましく生き抜きました。現在も彼女たちの作品が読み継がれ、また小説やドラマ、映画の題材に取り上げられているのは、彼女たちの魅力が今なお色あせることがないからでしょう。

参考文献

  • 『100分de名著ブックス 紫式部 源氏物語』(NHK出版)三田村雅子・著
  • 『和泉式部集全釈 続集篇』(笠間書院)小松 登美/村上 治/佐伯 梅友 (著)
  • 『平安朝の女性と政治文化』(明石書店)服藤早苗(編著)
  • 『紫式部と藤原道長』(講談社)倉本一宏(著)
  • <コトバンク>、その他多数。