ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

【INDEX】


「ノーベル」と聞いたとき、多くの人の頭にまず浮かぶのは「ノーベル賞」でしょう。

ノーベル賞は言わずと知れた、「人類に最大の貢献をもたらした人々」に贈られる世界的な賞です。1895年に賞が創設され、1901年に初の授賞式が行われました。創設当時から物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞、平和賞の5部門があり、のちに経済学賞も設けられました。

この賞の名前は、19世紀に活躍したスウェーデン人化学者&発明家であるアルフレッド・ノーベル(1833~1896年、以下「ノーベル」)から命名されています。ノーベルはたくさんの発明をし、生涯で355もの特許を取得しましたが、もっとも有名な発明品はダイナマイトです。

富豪となった彼が賞の創設を遺言に残したことで、ノーベル賞が誕生しました。今年の受賞者は、10月2日の生理・医学賞を皮切りに、順次発表されます。

mother teresa receiving nobel peace prize
Bettmann//Getty Images
1979年、マザー・テレサがノーベル平和賞を受賞した際の写真。

毎年、受賞者のニュースが大きな話題となりますが、「ノーベル賞月間」を前にアルフレッド・ノーベルについて分かりやすく解説します。ノーベルについて知ることで、ノーベル賞の意味をこれまでとは異なる視点で考えられるはずです。

※経済学賞の正式名称は「アルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン銀行賞」であり、厳密な意味においてノーベル賞ではないとする見方もあります。

スウェーデン生まれ、ロシア育ちの発明家

ノーベルは1833年10月21日に父・イマヌエルと母カロリナの第1子(所説あり)としてスウェーデンの首都ストックホルムで誕生しました。発明家であった父はノーベル幼少期に事業に失敗し、単身でロシア・サンクトペテルブルグに移住しました。数年後にロシアでの事業が成功したため、1842年、家族全員をサンクトペテルブルグに呼び寄せました。

ノーベルはスウェーデンの小学校に1年半ほど通いましたが、彼が受けたいわゆる「学校教育」はこの期間だけであり、大学教育も受けていません。ロシア移住後は家庭教師から学び、特に化学と語学に秀で、6カ国語が堪能だったと言われています。

1850年、17歳のときにロシアを出てパリで1年間有名な化学者ジュール・ペルーズのもとで学びました。この研究室で、ノーベルは1847年にニトログリセリン(※ダイナマイトの主成分)を発明した若き化学者アスカニオ・ソブレロにも出会っています。

alfred nobel 18331896, aged 20 artist anonymous
Heritage Images//Getty Images
20歳頃だと推定されるアルフレッド・ノーベルの肖像。

パリで学んだ後、1851年に渡米。1年ほど発明家兼エンジニアのジョン・エリクソンの元で最新鋭の機械工学を学び、1852年にロシアに戻りました。そして父の工場で働き始めます。

父・イマヌエルの会社は機械工学会社でしたが、ロシア軍の武器、そして機雷や地雷等の爆発物も製造していました。クリミア戦争(1853~1856年)で父の会社は莫大な利益をあげましたが、戦争が終結すると経営が悪化。1859年に破産してしまいます。父は事業を息子であるロバートとルートヴィヒ(=共にノーベルの兄)に託し、父、母、ノーベルはスウェーデンに帰国しました。

「爆発王」として巨万の富を築く

スウェーデンに戻ったノーベルは「爆薬」としてのニトログリセリンの研究に没頭しました。この物質が持つ強力な爆発力にしたものの、問題点が2つありました。

一つ目は小さな摩擦や衝撃を受けただけでも爆発する、とてもコントロールが難しい物質であること。二つ目は、狙ったとおりに爆発させことが困難なことです。ノーベルは何とか安全・安定した製造方法および使用法を探し出そうと研究に打ち込みます。

laboratorium of alfred nobel at his villa in sanremo, 1890s
Heritage Images//Getty Images
1890年代に撮影されたとされるノーベルのラボ。

1862年には爆発実験に成功したものの、1864年に起こった爆発事故により弟のエミールと4人の助手が死亡。この他にも数回の事故が起こっています。ストックホルムでの研究開発は禁止されたものの、ノーベルは諦めず拠点を移して研究を続け、1864年(弟が死亡した年)にニトログリセリンの大量生産を開始しています。

起爆装置と雷管(爆薬を装てんした火工品)開発の成功により“狙ったタイミング”で爆破させることが可能となった後、1867年、ニトログリセリンを珪藻土に浸み込ませることで安定して爆発する「ダイナマイト」が完成しました。

この「ダイナマイト」と言うネーミングは、ギリシャ語の「力(dynamis)」から来ています。ダイナマイトの流通により、岩盤工事やトンネル採掘等、多くの建設現場での作業が効率的に行えるようになりました。

the nobel's extradynamit artist historic object
Heritage Images//Getty Images

ダイナマイト製造工場は世界各国に次々作られ、ノーベルは巨万の富を築きました。彼はビジネスマンとしても大変優秀だったのです。

ダイナマイト開発の第一の目的は建設現場での利用だったと言われていますが、父が軍需産業に関わっていたノーベルが戦争利用を想定していなかったわけがありません。事実、発明から3年後に起こった普仏戦争(1870~1871年)で、ダイナマイトは「一瞬にして大量殺戮が可能な兵器」として、プロイセン軍とフランス軍、双方が使用しました。

1880年にノーベルはバリスタイト(無煙火薬)を開発しました。これはダイナマイト以上に直接的に軍事用途に使われました。この火薬をノーベルは世界に売り込み、その後も大砲や火薬など、さまざまな兵器技術を開発しました。現在も存在するボフォース社(スウェーデン)はもともと鉄工会社でしたが、1894年にノーベルが経営権を取得し、兵器メーカーに発展させたものです。

※経歴には諸説ありますが、<The Nobel Prize>の情報を基に執筆しています。

dynamite mixing, ardrossan, 1897
Heritage Images//Getty Images
1897年、スコットランドのダイナマイト工場の様子。


ノーベルが恋した3人の女性たち

生涯独身だったノーベルですが、彼が好意を寄せたと言われている3人の女性とのエピソードが残っています。

アレキサンドラ

ロシアで出会った女性ですが詳細は不明。ノーベルは彼女にプロポーズしたものの、断られてしまったと言われています。

ベルタ・フォン・ズットナー

研究とビジネスのために絶えず移動しつづけていたノーベルでしたが、43歳頃には「女性と身近で話したい」と考えるようになりました。当時パリに住んでいたノーベルは、新聞に「裕福で高い教育を受けた(若くない)紳士が、秘書兼家事管理者として語学堪能で成熟した年齢の女性求む」という求人広告を出しました。

そこに応募してきたのが、オーストリア人のベルタ・キンスキー(キンスキーは旧姓で当時は33歳前後)。彼女は後に有名な平和活動家兼作家となった人物です。

ノーベルはすぐに彼女に好意をもったようですが、彼女にはすでにアルトゥール・フォン・ズットナーと婚約していました。ベルタがノーベルの元で働いたのはごく短期間だったものの、その後生涯にわたって二人は友人であり続けました。

彼女の影響により、ノーベル賞に「平和賞」が設けられたと言われています(詳細は後述)。

bertha von suttner
brandstaetter images//Getty Images
1911年に撮影されたベルタ・フォン・ズットナー。

ソフィー・ヘス

オーストリア・ウィーン近郊に在住の女性ソフィー(当時18~20歳)とは、ベルタと出会った同じ年、1876年に出会ったと言われています。2人は15年に渡りは交際していましたが、1891年にソフィーが別の男性との子どもを妊娠。しかしその後も交流は続きました。

ソフィーはノーベルから経済的援助を受けていましたが、ノーベルの死後、ノーベルからの書簡221通をノーベル財団に売却。巨額のお金を手にしました。

諸説ある「ノーベル賞」の創設理由

ノーベルについて調べると、ノーベル賞創設にまつわる2つの“神話”に行きつきます。

“死の商人”の汚名返上説

1つ目は「誤報されたノーベル死去」にまつわるものです。

1888年、フランス・カンヌを訪問中だった兄ルドヴィクが現地で死去しました。このとき、フランスのある新聞が(兄ではなく)ノーベルが死去したと誤り、「死の商人が死去」と報道。記事には「アルフレッド・ノーベルは、より早く、より多くの人を殺す方法を見つけて金持ちになった」と書かれました。

この記事を読んだノーベルは、自分が人々から“死の商人”と思われていたことにショックを受けました。そして自分の死後にも死の商人というイメージで語られ続けることを何とか避けたいと考えました。そこで汚名を返上するために遺産の大部分をノーベル賞の創設に使うことを決意した――というストーリーです。

良心の呵責に苛まれた説

もう一つ、よく聞く話があります。ノーベルはダイナマイトが「自らの意図に反して」武器利用されたことに良心の呵責を感じており、そこで未来への貢献となる「ノーベル賞」創設を思いつた――というものです。

ノーベルは1895年11月27日、パリのスウェーデン・ノルウェー・クラブで遺書に署名し、遺産のほとんどをノーベル賞創設資金として割り当てました。そしてその翌年、1896年12月10日にイタリアの自宅で63歳で死去しました。

ノーベル自身はノーベル賞の創設理由について生前に明確なコメントを残していないため、上記の神話の真相はもとより、賞創設の真意は闇の中です。

とはいえ“良心の呵責説”は、最晩年に武器開発と工場建設に熱心だったノーベルの行動を考えると大きく矛盾しています。ゆえに現在は「“死の商人”イメージを払拭したかった」説が有力となっています。

ノーベル賞に「平和賞」がある理由

ノーベルが遺書に指示した「ノーベル賞5部門」のうち、サイエンス3部門(物理学賞、化学賞、生理学・医学賞)の創設に加え、文学賞の創設は安易に理解できます。ノーベルは詩を愛し、自ら戯曲を執筆するほどの文学愛好家だったからです。

しかし、軍事事業で財をなしたノーベルがあえて「平和賞」を入れたことに矛盾を感じるかもしれません。ノーベルの平和への考えについては様々な文献が存在し多くの解釈があるものの、(上記した)ベルタ・フォン・ズットナーの影響が大きいと言われています。

ベルタが語ったことによると、ノーベルは1876年にパリで初めて会ったときから、「戦争の“抑止力”になるような壊滅的威力のある物質や機械を作りたい」と語っていたそうです。

「2つの軍が一瞬で互いを全滅させることができるようになれば、文明国は恐怖におののき、軍隊を解散させるに違いない」と考えたノーベル。しかし実際のところは、そうした武器がまったく抑止力にならなかったことは、歴史が証明しています。ダイナマイトは日露戦争や第一次世界大戦を始め、多くの戦争で使われました。

ベルタは長い年月をかけて、粘り強く平和活動の大切さをノーベルに伝えました。ノーベルは最後まで平和活動には懐疑的だったそうですが、ベルタが創立したオーストリア平和協会の会員となり、資金を援助するに至りました。

こうしたベルタとの交流が「国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体」に送る「平和賞」の創設に影響したと考えられています。ノーベルは生前「平和賞」創設の決意をベルタに伝えており、彼女はとても喜びました。そしてベルタ自身も、1905年にノーベル平和賞を受賞しています。


ノーベルの思惑どおり(?)、現在ノーベルの名はダイナマイト以上に「ノーベル賞」と共に語られています。一方で、なかなか終わらないロシアのウクライナ侵攻や、国家間の緊張関係が深刻な今だからこそ、ノーベルの人生にも注目する意味があると思うのです。

核や軍備増強による抑止力が話題ですが、ノーベルの足跡は様々なことを語ってくれます。ダイナマイトは戦争の抑止にならなかっただけでなく、戦争の形を変え、さらに強力な武器開発に繋がりました。現在、核兵器は地球上に推定12,520発も存在します。

様々な意見があるのは当然です。だからこそ、ノーベル賞月間を迎えるにあたり「アルフレッド・ノーベルについて」と“その後”についても思いを寄せていただけたら嬉しいです。

参考文献

  • 『Alfred Nobel: A Biography』(Arcade Publishing)Kenne Fant・著
  • 『A Nobel Affair: The Correspondence between Alfred Nobel and Sofie Hess』(University of Toronto Press)Erika Rummel編
  • <Britannica>
  • <BBC>
  • <The Nobel Prize>
  • <The Nobel Peace Prize>
  • <在ノルウェー日本国大使館> その他