ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

北川景子さん演じる「お市」に注目!

新しい年が始まり、新しいNHK大河ドラマもスタートしました。昨年の『鎌倉殿の13人』は大変好評でしたね。それだけに今年の大河ドラマ『どうする家康』も、松本潤さん(大河初出演!)が徳川家康をどんな風に演じるのか、期待が高まります。

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そこで今回と次回の当連載では、『どうする家康』に登場する注目の女性たちを紹介。今回は、北川景子さんが演じる「お市」を取り上げます。

知っておくと大河ドラマをより楽しめる「お市の基礎知識」を4つのポイントから解説します。

織田信長の実妹として生まれ…

お市(市/お市の方/於市/小谷の方/小谷殿などの呼び名もある)は尾張国(現在の愛知県)勝幡城主である織田信秀(1511年ごろ~1552年3月27日)と土田御前(生誕年不明~1594年2月26日)の娘として、1547年ごろ誕生したと言われています。

しかし、誕生時の記録がないため、本当に父が信秀だったのか? 母が土田御前だったのかについては諸説あります。

父・織田信秀は織田達勝の娘を正室とするも後に離縁。土田御前を継室に迎え、他にもたくさんの側室がいたそうです。合計20人以上の子供がいたそうですが、土田御前との子供は次の6人とする説が多く見られます。

  • 織田信長(1534年7月3日~1582年7月1日)
  • 織田信行(のぶゆき)
  • 織田秀孝(ひでたか)
  • 織田信包(のぶかね)
  • お市
  • お犬(於犬)

この説が正しければ、お市は織田信長の実妹であり、歳は13歳ほど離れていたようです。

お市が最初の結婚をするまでの記録は、ほぼ皆無。彼女がどんな風に育ったのかまったく分かりませんが、『祖父物語』には「大変な美人だった」と書かれています。

また兄・信長との仲がどうだったのかも不明ですが、お市の人生をたどると信長の天下統一の夢と「戦国の世」という時代に翻弄された人生だったことが分かります。

▲大河ドラマ『どうする家康』では、織田信長役を岡田准一さんが熱演。

最初の結婚・夫は浅井長政

お市は1567~1568年ごろ(婚姻年には諸説あり)、北近江(現在の滋賀県)の大名、浅井長政(あざいながまさ)と結婚します。当時お市は17~21歳だったと思われます。

長政は浅井氏の3代目にあたり、南近江を収める大名・六角氏の臣下でした。しかし1560年、野良田の戦いで六角承禎に勝利し、近江における地位を確立します。

1560年代当時、信長は美濃国(現在の岐阜県)の大名・斎藤氏と対立状態が続き、打破できずにいました。上洛(京都入り)を目指していた信長は、長政と同盟を組むことで一気に力をつけようと考えます。そこでまとまったのが、長政とお市との婚姻でした。

政略結婚であったものの、お市と長政は仲の良い夫婦だったと言われており、2人の間には3人の娘(茶々、初、江)が誕生しています。

しかし1570年、長政は信長との同盟を突然破棄します。このとき、信長は徳川家康と共に越前国(福井県)の大名・朝倉義景を攻めていました(金ヶ崎の戦い)。最初は信長軍が優勢でしたが、しかし信長の元に「長政が裏切り、朝倉氏側についた」という知らせが届きます。

信長は義弟の裏切りをすぐには信じなかったものの、情報が集まるにつれて確信。浅井軍と朝倉軍に挟み撃ちをされては勝てないと判断し、信長は撤退しました。

この長政の「突然の裏切りの理由」については諸説あり、真相は不明です。浅井氏と朝倉氏は古くから関わり合いがあったこと、元々信長が「朝倉氏とは戦わない」と誓っていたにも関わらず挙兵したからなどが挙げられるものの、いずれにしても長政は苦渋の決断を迫られた末、朝倉氏側につくことになったのでしょう。

このとき「長政が朝倉氏側についた」の情報がどこから漏れたのか? も、さまざまな見解があります。なかには「お市経由で…?」という説もあります。お市が両端を紐で結ばれた小豆袋を陣中見舞いとして信長に送り、信長が「袋の鼠である(=挟み撃ちされる)」ことを表現したとする逸話は有名です。

これは後年作られた話で事実ではないようですが、同盟目的の政略結婚の場合、輿入れ(嫁いだ)した妻は実家のスパイ的役割を担うこともあったのは確かです。

その後1570年8月「姉川の戦い」で、織田・徳川連合軍は浅井・朝倉連合軍に勝利。信長と一度は和解するも、浅井氏の味方であった比叡山延暦寺を信長は焼き討ちしました。

長政の終焉は、1573年に訪れます。「小谷城の戦い」(1573年8月8日~9月1日)で信長に追い詰められた長政は、まず息子・万福丸(お市の子供ではないとされています)を家臣に託して逃し(後に発見され、信長が磔にしています)、お市と三人の娘は織田軍に引き渡します。

そして父・浅井久政と長政は小谷城で自害し、浅井氏は滅亡しました。

2人の武将の妻として生きた「お市」ってどんな人?大河ドラマ『どうする家康』でも注目
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小谷城があった滋賀県の長浜市にある、浅井長政とお市の像

2度目の結婚・夫は柴田勝家

天下統一目前だった織田信長。しかし1582年6月21日、本能寺に滞在中、明智光秀が謀反を起こし自害に追い込まれたのは有名な話です(「本能寺の変」)。

その後1582年7月16日、信長亡き後の継嗣と領地分配を決める「清州会議」が織田家の家臣である柴田勝家(1522-30年頃~1583年6月14日)、丹羽長秀、羽柴秀吉(豊臣秀吉)、池田恒興によって開かれました。

この会議で秀吉と申し合わせた上、勝家の意向によりお市との結婚が承認されました。同年8月20日に婚儀が行われ、このとき勝家は50~60歳、お市は35歳前後と考えられています。

…が、2人の結婚生活はあっという間に終わりを告げます。

信長の領地を分配され増強した大名たちは、お互い対立するようになります。なかでも、勝家と秀吉はライバルでした。

1583年4月に起った「賤ヶ岳の戦い」で、秀吉は勝家に勝利します。勝家は北ノ庄城に帰り着きましたが、秀吉軍に包囲され自害を決めました。その際、勝家はお市に「城から逃げ、生き延びてほしい」と説得したものの、お市は断じて首を縦に振りませんでした。3人の娘を秀吉のもとに送り、自分は勝家と自害することを決めたのです。

勝家とお市は城に残った家族や家臣と盛大な酒宴を催し、1583年4月24日、80名あまりの人々と共に自害。北ノ庄城に火を放ち、燃え落ちました。お市の享年は36歳前後。短くも激しい人生でした。

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福井市にある「柴田神社」にあるお市の像。このすぐそばに娘たちの像も。

お市の三人の娘たちの「その後」

お市は自害する前に、3人の娘たちの行く末を案じて秀吉に書状を送り「大切にしてほしい」とお願いしています。娘たちは戦国の世をそれぞれの方法で生きました。

長女・茶々(淀殿)(1569年頃~1615年6月4日)

秀吉の元に送られた後、1588年頃に秀吉の側室となりました。1589年に生まれた長男・鶴丸は1591年に夭折しますが、1593年に次男・豊臣秀頼は成長。1598年9月18日に秀吉が死去後、茶々は秀頼の後見人として政治にも介入しました。しかし関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康(1543年2月10日~1616年6月1日)と対立し、大阪冬の陣・夏の陣で敗北。秀頼と共に自害しました。享年46歳(推定)。

次女・初(1570~1633年9月30日)

秀吉の計らいにより、1587年、若狭国の大名・京極高次と結婚しました。高次の母は浅井久正の娘・マリア(浅井長政の姉)であり、浅井氏の主筋です。高次本人も小谷城(浅井氏の居城)で誕生しています。また妹の竜子は秀吉の側室でした。

初と妹・竜子の後光により、夫・高次は順調に出世したそうです。

高次が1609年6月4日、47歳で死去すると、初は出家し「常高院」と名乗りました。豊臣家と徳川家の対立が激化すると、豊臣側として、徳川との仲介に奔走したそうです。1633年、京極家の江戸屋敷で死去しました。享年64歳(推定)。

三女・江(崇源院)(1573~1626年11月3日)

江は徳川幕府の2代将軍・秀忠の正室として知られていますが、実は3回結婚しています。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

▲ 2011年放送の大河ドラマ『江 ~姫たちの戦国~』の主人公。主演を務めたのは上野樹里さん。

  • 最初の夫:佐治一成(1569年頃?~1634年11月16日)
    佐治一成は織田信長の次男・織田信雄の家臣であり、江と一成はいとこ同士(母・お市の妹・お犬の息子)でした。婚姻時期は1584年初頭?と言われています。しかし同年3月の小牧・長久手の戦いで一成が家康の手助け的役割をしたため秀吉の怒りを買い、江と離縁に至ったと言われています(所説あり)。
  • 2人目の夫:豊臣秀勝(1569~1592年10月14日)
    豊臣秀勝は秀吉の甥であり養子です。2人の婚姻時期は1586~1592年前後では?と言われていますが定かではありません。二人の間には娘・完子(さだこ)が誕生しています。秀勝は朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に出征し、1592年に現地で病死。完子は茶々に引き取られました。
  • 三人目の夫:徳川秀忠(1579年5月2日~1632年3月14日)
    1594年、徳川家康の三男であり跡取りである秀忠と結婚(継室の節もあり)。2人の間には7人(2男5女)の子供が誕生し、第3代将軍となる徳川家光も江の息子です。江と「春日局(家光の乳母)」とのライバル関係は有名で、何度もドラマ化されています。

将軍の妻であり母となった江。彼女は江戸城にて53歳(推定)で亡くなりました。

お市と天皇家とのつながり

実は、お市の子孫は今も存続しています。完子(三女・江と豊臣秀勝の娘)は大正天皇の皇后の祖先にあたり、つまり現在の天皇家に繋がっています。

お市個人についての資料は少ないものの、彼女の家族や周りの人物を追うことで、お市の短くも激動の人生が浮かび上がってきます。そんな彼女が今回の大河ドラマでどんな風に描かれるのか? 楽しく注目したいと思います。

参考文献

  • 『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社)
  • 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』(小学館)
  • 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』(講談社)
  • 『デジタル大辞泉』(小学館)
  • 『織田信長総合事典』(雄山閣出版)岡田 正人・著
  • 『浅井長政のすべて』(新人物往来社)小和田哲男・編集
  • 『戦国三姉妹物語』(角川書店)小和田哲男・著
  • 『考証織田信長事典』(東京堂出版)西ヶ谷恭弘・著
  • 『誰も知らなかった江』(毎日コミュニケーションズ)宮本義己・著
  • 『江の生涯』(中央公論新社)福田千鶴・著
  • その他多数