ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。

名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

現在放送中のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』、大変好評ですね。脚本の巧みさ、豪華キャストなど見どころ多々あり、小栗旬さん演じる主人公・北条義時をはじめとした各登場人物に改めて興味を持った人も多いはずです。

小池栄子さん演じる「政子」も、注目されている人物の一人ですね。凛とした佇まい、艶やかな表情、そして時には鬼となる強さ。魅力的な人物として描かれています。

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しかし政子と言えば、これまで日野富子(足利義政の正室)、淀殿(豊臣秀吉の側室)と共に、「日本三大悪女」の一人として有名でした。今回の大河ドラマの影響でややイメージが変わってきているかもしれませんが、彼女の人生はあまりにも壮絶。「悪女的エピソード」がたくさんあるのも事実です。

北条政子とは?

将軍の妻・母、そして「尼将軍」となるまで。

北条政子(1157~1225年、以下「政子」と表記)は、伊豆国の豪族、北条時政(1138~1215年)の娘として誕生しました。時政には多くの子どもがいましたが、後に鎌倉幕府の第2代執権となる北条義時(1163~1124年)は6歳下の弟です。

 
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静岡県伊豆の国市にある「北条政子産湯の井戸」。産湯の水をとったのが、この井戸と伝えられています。

後に夫となる源頼朝(1147~1199年)とは、頼朝が流人時代に出会いました。平治の乱(1160年)に敗れた源義朝の三男である頼朝は、伊豆国に流されました。政子の父・時政が頼朝の監視役を務めていましたが、近くにいた政子と頼朝は恋仲になります。

時政はこの結婚に大反対だったものの、2人は1177年頃(諸説あり)結婚。この結婚には「駆け落ち」を含めた様々な逸話が残されていることからも、家同士の縁談というよりも情熱的な愛の物語が背景にあるようです。

 
Photo 12//Getty Images
源頼朝(1147~1199年)の肖像。

1192年、源頼朝が鎌倉幕府の将軍になり武家社会が到来します。政子は頼朝との間に4人の子どもをもうけたものの、1199年に頼朝が急死し、子どもたちも次々に亡くなります。

頼朝直系の子どもがいなくなったものの、政子は鎌倉幕府と武家社会の存続のため、源氏と遠縁にあたる藤原頼経(1218~1256年、鎌倉入りしたときはまだ2歳)を京都から呼び寄せます。政子は1226年に4代将軍となった頼経の後見人となり、北条義時と共に鎌倉幕府の事実上トップとして実権を握ります。頼朝の死後、政子は出家していたことから、「尼将軍」と呼ばれました。

妾の家を打ち壊した
「後妻(うわなり)打ち」

さらりと政子の人生をなぞると「情熱的で聡明な女性」ですが、「悪女」と言われるようになったもっとも有名なエピソードの一つが「後妻打ち」です。

「妾(めかけ)」とは…正妻のほかに養って愛する女性のこと
「後妻打ち」…先妻が後妻の家を襲撃すること

政子が第2子(長男)・頼家(1182~1204年)の妊娠中に、頼朝は亀の前(かめのまえ)という妾のもとに通うようになりました。このことを義母(実父の後妻)・牧の方から聞いた政子は激怒します。頼朝は女好きで有名だったものの、当時は家系を絶やさぬため一夫多妻制は普通のこと。しかし政子にとっては「夫が他の女性の元に通う」など、許容できることではなかったのです。

牧の方がそそのかしたと言われていますが、政子は亀の前が住んでいた伏見広綱邸を打ち壊しました。この事件を聞いた頼朝は「いくらなんでもやりすぎだ」と怒り、「後妻打ち」に加担した牧の方の兄を処罰しました。しかし政子はそれでも怒りが収まらなかったようで、さらに伏見広綱を流刑にしています。

頼朝さえも恐れさせた
政子の「嫉妬」と「激高」

政子の嫉妬深さと“怒らせたら怖い”性分を、頼朝も周囲も気づいていた様子。『吾妻鏡』によると、頼朝は兄・源義平に先立たれた妻・祥寿姫を気に入り、自身の妻に迎え入れようとしていました。

しかし祥寿姫の父である新田義重が政子を恐れ、この縁談は破談になっています。また政子が第3子である三幡(1186~1199年)を妊娠中、頼朝は藤原時長の娘である大進局(だいしんのつぼね)の元に通っており、同年に頼朝の子、貞暁(男児、1186~1231年)を出産しています。妾の子とはいえ、貞暁は将軍の息子です。しかし政子の怒りを焚きつけぬよう、出産の儀式は省略され、大進局は貞暁を静かに育てました。

冷酷な政治家?
情に弱い尼?
いくつもの顔

頼朝亡き後、16歳で2代将軍となったのは長男の頼家ですが、北条氏とライバル関係にある比企氏(頼家の妻の実家)を何かと重用します。領地分割案を巡って北条家ともめた頼家は、北条氏討伐の兵をあげ、これに対し政子も兵をあげて比企氏を滅ぼし(このとき頼家の息子、つまり政子の孫である一幡も死亡)、頼家を修善寺(伊豆)に幽閉。

頼家の死に方には諸説ありますが、北条氏の刺客によって入浴中に暗殺されたと言われています。政子が直接息子を手にかけたわけではありませんが、息子殺害の道を作ったとは言えるでしょう。

またある時、実父・北条時政と牧の方が3代将軍・実朝(第3子・次男、1992~1219年)の暗殺を企てたことが発覚します。息子を殺されそうになったのですから当然ではありますが、政子は容赦なく父を失脚させています。

しかし、政子の人生をたどると、本当に「冷酷な悪女」だったのかは疑問です。政子の実子は全員早世しましたが、子どもたちの病の回復を熱心に神仏に祈り、また実朝が頼家の息子(公暁)に暗殺され実子が全員死去すると、悲しみのあまり「自ら命を断とうかと思った」(『承久記』より)と嘆き悲しみました。また源義経の愛妾・静御前の味方をするなど、情に厚い面もありました。

 
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静岡県伊豆の国市にある、源頼朝と政子夫妻の像(蛭ヶ小島の夫婦)。

この時代、家や地位を守るため、身内を殺し、親戚に兵をあげるのは日常茶飯事のこと。親兄弟、子どもであっても斬る―― あまりにも殺伐とした時代だったのです。公家社会から武家社会となったばかりの当時。政子は頼朝が開いた鎌倉幕府と北条氏、武家社会を守るため、必死に戦った人物にも思えます。

実は「悪女伝説」は
江戸時代に作られたもの

政治家としての政子の評価は、当時から高かったようです。にもかかわらず「三大悪女」と言われるようになったのは、実は江戸幕府が採用した儒学による影響です。

女性が前に立ち、「後妻打ち」をし、子どもたちが病死・暗殺されている政子を批判する論調となり、定説となりました。つまり「悪女伝説」は後付けだったのです。


政子の本当の性格を知る術はもはやないものの、彼女が優秀な政治家であったことは記録からも明らかです。世の評価は時代と共に変わるもの。今後「政子=悪女」の定説は覆されるかもしれませんね。

※本記事は、以下の参考文献をもとに執筆したものです。一部情報には諸説ある場合があります。

参考文献

  • 『悪人列伝(二)』(文藝春秋)海音寺潮五郎・著
  • 『北条政子』(角川書店)永井路子・著
  • 『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社)呉座勇一・著
  • 『北条政子:幕府を背負った尼御台』(人文書院)田端泰子・著
  • 『史伝 北条政子: 鎌倉幕府を導いた尼将軍』(NHK出版)山本みなみ・著
  • <NHK>
  • <コトバンク>他、多数。