ロンドン在住ライター・宮田華子による新連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める、社会派の偉人伝をお届け!

コスモポリタンの読者の皆様も、子どものころに「エライ人の伝記シリーズ」を読んだりしたのかしらん? ワタクシはこの手のものを結構読んで育ちましたが、これって平たく言えば「子ども向け自己啓発本」なのだと思う。

カラフルなイラストは親しみやすいけど、今思えば「立派な大人を目指しなさい」という大人の企みが見えまくり。当時は気づかず読んでいたけど、「私も頑張って立身出世を目指してみるか!」とは、ただの1度も思わなかったな、そういえば。

そんな「子ども用伝記シリーズ」の定番登場人物であり、科学のことを何も知らない人でも、「名前だけなら知ってる」代表選手のような偉人の一人が、マリー・キュリー(1867~1934年)だと思います。



「ノーベル賞2回受賞」と「ラジウム発見」を分かりやすく

マリーが後世に名を残すに至った「偉人ポイント」は「ノーベル賞を2回も受賞した(物理学賞と化学賞)」ことと、「ラジウムを発見した」ことです。前者のすごさは誰でもわかるけど、後者の方はさっぱり…という人は多いはず。そこで彼女の功績を超ド文系のワタクシが、自分でもわかるように読み解いてみます!

1896年にアンリ・ベクレル(1852~1908年、フランス人)っていう物理学者が、ウランから自然発光している放射線を発見します。しかしベクレルは、この放射線に「ベクレル線」と名前をつけたものの、「光ってる理由はよくわかんない」と詳細解明を放置していました。

マリーは「でしたらアタクシが解明してみせる!」と、この放射線に注目。夫ピエールと共に研究に乗り出します。そして「これは放射能によるもの」と定義し、ポロニウムとラジウムという別の放射線元素を発見したのです。

つまり「放射能(Radioactive)」って言葉も、実はマリーが考案したもの!

curie, marie   wissenschaftlerin, polenfrankreich mit ehemann pierre bei der arbeit im labor
ullstein bild Dtl.//Getty Images
1896年頃、研究中のマリーと夫ピエール 。

1903年、「ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究」の功績により、マリー、夫ピエール、ベクレルの3人(連名)にノーベル物理学賞を授与されました。これが1回目のノーベル賞受賞です。

2度目のノーベル賞はマリーの単独受賞です。マリーのラジウム発見については、イギリスの物理学者ケルヴィン卿(ウィリアム・トムソン)から「ラジウムって元素じゃなくて化合物なんじゃないの?」という痛いツッコミが入っていました。

マリーは「いえ、ラジウムは元素だし!」と証明するため、4年掛けてウラン鉱石滓(かす)8トンを処理し(←ものすごい重労働)、1910年、純粋なラジウム0.1グラムを取り出すことに成功しました。

そして1911年、「ラジウムおよびポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究」に対し、ノーベル化学賞が授与されました。現在に至るまで、マリーは「2度ノーベル賞を受賞した唯一の女性」なのです。

※ちなみに、ノーベル賞の最多受賞は「国際赤十字」の3回。個人受賞では、マリーのほかに3人の男性が2回受賞しています。

「天才科学者・マリー誕生!」に貢献した2人の男性:ダメ男とオタク

マリー(誕生名は「マリア・スクロドフスカ」)はロシア占領下のポーランドで生まれたポーランド人ですが、科学者としての功績のほとんどはフランスでの研究によるもの。実はマリーがポーランドからフランスへ居を移した理由の1つは、「失恋」なのです。

18歳から家庭教師として働き、家族を支えていたマリー。裕福なゾラフスキ家の住み込み家庭教師としていたときに出会ったのが、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ。

知的な二人はすぐに意気投合。結婚を誓う仲なったものの、このカジュミェシュが優柔不断の超ダメ男! 「貧乏な家庭の娘と結婚なんて、ダメダメ!」と、両親からの反対の意見に押し切られ、マリーと別れてしまうのです。

しかしカジュミェシュは、美しく理知的な彼女に未練タラタラ。マリーも彼のことが好きだったようで、その後も数年に渡りダラダラ連絡を取り続け、24歳の夏(1891年)に二人で旅行にも行っています。

しかしそれでも、ダメ男は家族の反対を押し切れずウダウダ。結局は親と出世の道を選んだのです。ね、ダメ男でしょ? この旅行の後(1891年秋)、マリーはダメ男ときっぱり決別。姉が留学中のパリに拠点を移すのです。

マリーほどの人物が「失恋が原因でパリ移住」とは意外ですが、この判断は大正解。パリで出会い、その後夫となるピエール・キュリーは「超・研究オタク」。研究だけしていれば幸せなタイプだったので、30半ばでも実家暮らし。

そんな彼の前にマリーが現れ、ピエールは「この人しかいない!」と確信し猛烈アタック。「ポーランドで就職しようかな」と就活中だったマリーを説得し、二人は結婚します。ピエールの親も「研究オタクの息子が結婚するっ!」と結婚を大喜び。二人を支援し続けました。

歴史に「たられば」は不要ですが、もし「カジュミェシュがダメ男でなかったら」と思うと、運命って本当にわからないものですね。ちなみにダメ男はその後、大学の学長やワルシャワ教育庁長官などとエリート街道を進みますが、「ずっとマリーに未練があった」と言い伝えられています。

「ジェンダーの壁」と「女性初」がてんこ盛りの人生

マリーがフランスに転居したもう1つの理由は、「ジェンダーの壁」でした。子どもの頃から超優秀だったのに、当時ポーランドでは、女性は大学で学ぶことができなかったのです。

フランスに移住後、ものすごい苦学をして(※)無事パリ大学を卒業します。しかしポーランドに戻って大学に就職しようとしたものの、またしても「女性だから」と雇ってもらえなかったのです。

※子ども用の伝記では、この部分がやたらと強調されています。小さな部屋で暖房もなく、何枚も厚着して寝ていた、とか。分かりやすい貧乏苦学生だったようです。

その後パリに戻り、夫ピエールと結婚。パリで研究の道に進みます。1903年、パリ大学から博士号を授与され、同年、女性初のノーベル賞受賞者に。1906年、パリ大学初の女性講師になり、1908年、パリ大学初の女性教授に就任。

「ノーベル賞をもらう→講師就任」は順番がどこかおかしい(?)気がするけれど、ここまで読むと「ポーランドよりフランスの方が、まだ女性活躍の場があったのかもね」「キャリア順調♡」って思いますよね。でも実はそうでもなかったのです。

1911年1月、フランスの科学アカデミー会員に推薦されるも、当時アカデミーに女性会員はゼロ。ギラギラの男性社会でした。

「女性だから」に加え、「外国人だから」「敬虔なカトリック教徒ではないから(マリーは不可知論者)」など、国籍や宗教にも難癖をつけられ、結局会員には選出されなかったのです。話はそれで終わらず、「ザ・有名人」のマリーはゴシップの標的になってしまいます。

1906年の交通事故で、あっけなく夫・ピエールが死亡。大衆紙は亡夫の教え子とマリーの不倫疑惑を面白おかしく書きたてます。不倫相手とされたポール・ランジュバン(既婚だけど妻と別居中)には「男性のたしなみ」とばかりに、おとがめなしな一方で、「妻帯者と親密になった独身」のマリーは散弾銃を浴びまくり。

当時、フランスの法律も圧倒的に男女不平等。「女やもめ(夫を失った独身女性)」に人権がほぼなかったのは、フランスも同じだったようです(ため息)。

marie curie with daughters
Bettmann//Getty Images
マリーと2人の娘、イレーヌ(左)とエーブ(右)。イレーヌも後に物理学者となりノーベル賞を受賞。エーブは芸術家・作家となり、母マリーの伝記を書きました。

「同じ土俵に乗らない」けれど、キッチリ戦う

でも、泣き寝入りなんかしなかったのがマリーのすごいところ。売られたケンカや立ちはだかる壁には「自分の土俵(=研究)」からブレることなく、淡々と、でもキッチリカッコよく戦いました。

フランス科学アカデミー落選時には、「学会誌に論文を書かない」という方法で決別。残念がる周囲をよそに、「去る者追いません!」と本人はまったく落胆しなかったと言われています。

2度目のノーベル賞受賞のときは、あまりの誹謗中傷ぶりにノーベル賞側が恐れをなし「授与するの、やめる?」とチキンなことを言い出す始末。しかし「そんなのありえない!」とマリーは一人授賞式に赴きました。

夫とは共同研究の同志でしたが、夫と自分の仕事上の成果を明確に分け、その上で功績を認め合っていたのは、当時としてはものすごく新しかったはずです。

国際的名声があまりに高まると、フランス政府が慌てて勲章を用意しましたが、「何を今さら」「そんなん研究の足しにならないし!」ときっぱり辞退しています。

2度のアメリカへの旅(1921&1929年)で研究資金の獲得に成功した頃、マリーはあまりにも自分が有名人になりすぎたことを自覚します。研究者としては一線を退き、ラジウム研究所と、そこに集う研究者の育成に心血を注きました。この辺の姿勢もホントにクールです。

marie curie and president harding
Culture Club//Getty Images
1921年、アメリカ訪問中のマリー。横にいるのはハーディング米大統領。

放射線の研究者であるマリーは、実験を通じて常に被ばくし続けていました。流産も経験し、体調不良と共にあった人生でしたが、当時放射能の危険性はまだ知られていませんでした。1934年7月4日、再生不良貧血のため死亡。享年66歳。


マリーのような天才と私の人生は、比較しようがありません。でも「ケンカを売られても相手のペースに決して乗らない」「あくまで自分の土俵に引き入れて戦う」スマートな戦法は参考にしたいものです。

ジェンダー平等の論議が高まるなか、貧乏苦労話ばっかりじゃなくて、この辺の話ももっと注目されてほしいと願っています。

参考文献