アート、歴史、英国&欧州カルチャーのライター宮田華子による、連載企画「日本の女性アクティビスト列伝」。かつて人権獲得や平等な社会を目指して闘った女性活動家たちを特集するシリーズもいよいよ最終章。彼女たちが闘ってなお未解決の問題は、皆さんへの「バトン」です! 平等な社会を作るための「次の一歩」を、一緒に考えてみませんか?


何か物事を変えたいと思うとき、大きく分けて2つの方法があります。1つは「状況に合わせつつ、実現可能な目標を設定する」方法。もう1つは「理想を見据え、ちょっと厳しめな目標設定をする」方法。

100年前、「女性の労働と子育て」について、女性論客たちが本気で熱いバトルを戦わせたことがありました。その議論に参戦した一人が与謝野晶子。代表作『みだれ髪』などで知られる当時のスター歌人です。彼女は女性をとりまく状況を何とか変えるため「厳しめ目標設定」で叱咤激励、女性たちに自立を促しました。

彼女が見据えた未来の女性像を知ると、100年たっても解決できない「積み残された課題」の大きさに驚きます。と同時に、今を生きる私たちに「託されたもの」を突きつけられていると感じるのです。

大胆すぎる官能歌に世は仰天!スター誕生

与謝野晶子(誕生名:鳳志やう(ほう・しよう))は1878年(明治11年)12月7日、堺県和泉国(現・大阪府堺市)の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む両親元、第五子(8人きょうだいの三女)として誕生。誕生時には「また女か」と言われ、その後も女児であったことで疎まれて育ちました。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

▲千利休と与謝野晶子をテーマにしたミュージアム「さかい利晶の杜」内には、晶子の生家「駿河屋」を実物大で再現したコーナーがあります。

誕生時にすでに家業は傾いていたものの、晶子は9歳から漢学塾に通い、古典や小説、歴史の本を読みふける文学少女として成長。堺市立堺女学校卒業後、家業を手伝いながら16歳頃から文学雑誌に短歌や詩を投稿するようになります。

■与謝野鉄幹との出会い


後の夫となる与謝野鉄幹(本名:與謝野寛)との縁も短歌がきっかけでした。すでに有名歌人だった鉄幹は、1900年(明治33年)に月刊文芸誌『明星』を創刊。ロマン主義文学の中心となったこの雑誌に投稿を始めた晶子は、同年8月に鉄幹と出会います。鉄幹は晶子の才能に気づきすぐに恋仲となりますが、鉄幹には内縁の妻(林滝野)と2児がいたのです。

晶子との不倫はゴシップとして話題となり、鉄幹を誹謗中傷する怪文書が出回る騒ぎに発展。しかし鉄幹は晶子の才能にほれ込み、彼女の処女歌集『みだれ髪』をプロデュースします。この一件で鉄幹に愛想をつかした滝野が別離を申し出たため、鉄幹と晶子は1901年(明治34年)10月に結婚しました。

 
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与謝野鉄幹・与謝野晶子夫妻 (1923年頃に撮影)。鉄幹50歳の誕生日記念。

■代表作『みだれ髪』と『君死にたまふことなかれ』


晶子の数ある作品でもっとも有名なのは、歌集『みだれ髪』(1901年)と詩『君死にたまふことなかれ』(1904年)の二作。どちらも晶子の長いキャリアの初期に発表されたものです。

 
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『みだれ髪』の表紙。ハート型の中に描かれた、女性が喘ぐようななまめかしい表情が印象的。

『みだれ髪』(全399首)は晶子の鉄幹との恋心と情事、そして湧き上がるエロス(性愛)を、大胆かつ繊細な表現で詠んだ歌が多く掲載された歌集です。

「やわ肌の あつき血汐に ふれも見で さびしからずや 道を説く君」

私の柔らかく、血潮がたぎる肌を見ても、触れようとしない。ただ人としても道理ばかりを説くあなた。それであなたは寂しくないのですか?
「みだれ髪を 京の島田に かへし朝 ふしてゐませの 君ゆりおこす」

共に一夜を過ごして乱れた髪を、島田に結いなおした京都の朝。「まだ寝ていて下さい」と言ったあなたをそっと揺り起こしてみるのです。

※歌集『みだれ髪』より引用。解説は筆者によるもの。

今読んでもかなり生々しい描写です。当時女性は貞操を守り、親や男性に従順であることが求められていました。しかし晶子は「一人の人間として、正直に愛を選びたい」と決意し、狂おしいほどの恋心と燃え上がる性愛を歌いあげたのです。女性の官能を女性“自身”が描いた本作は、文壇に論争を巻き起こしますが、同時に大きな共感も寄せられました。

そして『みだれ髪』から3年後の1904年(明治34年)9月、晶子は『明星』に長編詩『君死にたまふことなかれ』を発表します。同年2月に日露戦争が勃発し、出征していた末弟を思い「戦死しないで」と願った詩です。5節から成る詩ですが、以下、第一節のみ紹介します。

『君死にたまふことなかれ ―旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きてー』

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄(やいば)をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までを育てしや。

※『明星』(1904年・明治37年10月)より引用。一部筆者により旧仮名遣い・旧字体を変更加筆。全文は<青空文庫>から閲覧可能。

第二次世界大戦後は高く評価されているこの詩ですが、当時は戦争真っ只中。そんなときに反戦詩(注)を発表したのですから、当然ながら「非国民」と非難されることに。しかし…

「私の詩を危険思想とおっしゃっているけれど、現在のように『死になさい』とばかり言うこと、そして何につけても忠君愛国という言葉や教育勅語を引用して論じることが流行になっていることの方が危険ではありませんか?」
「歌人である私ですから、後の世の人に笑われないよう、本心を歌っておきたいのです」

※『ひらきぶみ』(『明星』1904年・明治37年11月)の一部を、筆者が解釈し現代語訳。

…と、まったくひるまぬ態度できっぱりと反論しています。

晶子は『みだれ髪』の作風から、「恋多き女」の印象を持たれがちです。しかし実際は「家制度や望まぬ結婚に縛られて生きるのは‟嫌”」、「戦争で家族を失うのは‟嫌”」と、言いにくい本音を恐れることなく公にできる、肝の据わった女性でした。

世を騒がせたこの二作により、晶子は一躍文学界のスターに躍り出ます。そして社会や政治への強い関心を背景に、1911年(明治44年)ごろからは精力的に社会・政治評論を執筆。女性解放や女性の自立について、鋭い切り口で論陣を張るようになっていきます。

(注)1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、晶子は戦争を擁護する内容の歌を詠んでおり、反戦家としての言動には一貫性に欠けるとの指摘がされています。

「母性保護論争」に見る、
晶子が目指した「ジェンダー平等」

第一次世界大戦(1914~1918年・大正3~7年)を境に、資本主義化が進んだ日本。貧富の差が拡大し、女性たちが働き手として外に出るも低賃金・長時間の劣悪な労働環境を強いられていました。健康を損ない、母親には子育ての時間もなく、放任された子どもたちへの影響も深刻化した時代です。

こうした状況を背景に、1918年(大正7年)、「母性保護論争」が日本の論壇を賑わせました。これは「働く女性と育児」「女性の地位向上」についての論争ですが、まずは平塚らいてうと与謝野晶子の議論から始まり、後に山田わか、山川菊栄が参戦。熱い論争が繰り広げられました。

らいてうは「妊娠・出産・育児期の女性は国家によって保護されるべき」「家事・育児は女性の義務」「それが国のため」と考える「母性中心主義」を主張。これに対し、晶子は「女性は母性の実現だけに生きるものではない」「経済的に自立できない状況下であるならば、女性は妊娠出産をすべきではない」と反論します。

ここだけ見ると「女性解放の旗振り役であるらいてうにしてはずいぶん保守的な発言」の印象を受け、また晶子については「『経済力がない女性は妊娠すべきではない』なんて、自分がセレブ作家だから言えること」「庶民のことが分かっていない」と思うかもしれません。

本稿では2人の意見の比較分析は割愛し、晶子の主張にじっくり目を向けてみます。

「女性の尊厳を維持しつつ、出来るだけ順当な母性の実現を期すためにも、私は女子の経済財的に独立することが必要であると述べているのです」

※『平塚さんと私の論争』(『太陽』1918年・大正7年6月)より引用。

晶子は「どうしたら女性は‟真の自立と解放”を成し遂げられるのか」を考え抜いた末、女性たちだけでなく社会が目指すべき方向性を示しているのです。

「平塚さんは、すべての母は国家に保護される権利を持っているから、必ずしも経済的に夫婦相互の独立を計る必要はない。妊娠、分娩、育児の期間は夫に妻子の扶養を要求し夫が無力であれば国家にそれを要求すれば好い。従って経済上の無力から生ずる不幸が十分に予見されていても構わず、恋愛さえ成立すれば結婚して、養育の見込みの立たない子女を続々と挙げるのが今後の世界に容認される夫婦生活の公準であると主張されるのでしょうか」

※上記と同引用。

明治以降、国は良妻賢母思想を推し進めていました。女性は家と男性に帰属し、「結婚をしたら経済的を夫が支え、女性は‟家”に入り家事と子育てに専念する」ことが良しとされてきたのです。しかしこれでは女性解放は実現せず、男女の主従関係は変わりません。また現状のままでは夫の経済活動が断たれた場合、家庭経済は簡単に破綻することに。晶子は自力で家庭を支えられない不幸な女性と子どもが増え続ける「負の連鎖」を危惧していたのです。

さらには「母となるだけが女性の幸せではない」と良妻賢母思想を否定。夫側の立場にも寄り添い、家計の担い手を夫(男性)のみに背負わせることにも疑問を呈しています。これは当時としてはかなり斬新な意見だったはずです。

今現在困窮にあえいでいる母子を国が助けることには賛成するものの、妊娠・出産・育児期の母子を恒久的・完全に国の保護下とするのは「女性=弱者」と位置づけるもの。社会を抜本的に変えるためには、まずは個人の意識改革を必要とし、個人が変われば社会が動くのだから、女性たちが各々の能力に従い自立できる未来を目指すべきと主張しました。

「女性が自立できる世の中は実現できる。女性たち、気づいて!」

と渾身のエールを送っているのです。

ここまで読んで皆さん、どう思われますか?

「なんだかんだ言ったって、晶子はセレブ。高みから精神論を語っているだけ」と思ったかもしれません。私も最初はそう思いました。

しかしこの時期の晶子の内情はそこそこ悲惨だったのです。

■ダメ夫と11人の子どもを抱える貧乏生活

出会った頃はそこそこ有名歌人であった鉄幹。しかしキャリア初期に大ヒットを飛ばした晶子はあっという間にスーパースターに。文学界における鉄幹と晶子の地位は完全に逆転します。さらに結婚の4年後(1908年)、『明星』は廃刊。鉄幹は無職になってしまったのです。

しかし子どもは毎年のように生まれ、晶子は結婚の翌年から15年間で12回出産しています(第十一子は生後2日で死亡)。11人の子どもとまったく働かぬヒモ夫を抱え、家計は火の車。晶子はモーレツに働き、一家を支えました。

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Koichi Kamoshida//Getty Images
衆議院議員を10期務めた政治家、故・与謝野馨氏(1938~2017年)は、晶子・鉄幹夫婦の次男の息子であり、晶子の孫

そんな生活苦のただ中で、夫の起死回生策を講じたのも晶子でした。夫をパリに留学させて「箔づけ」をし、何とか第二のキャリアをスタートさせようとしたのです。留学費用の調達も晶子が担当。自作の短歌を散りばめた「晶子ブランド」の金屏風の製作販売までし、資金の捻出に奔走します。

苦労の甲斐あり、フランス帰りの鉄幹は1919年(大正8年)に大学教授の職を得ます。そこまでの11年間、与謝野家はかなり貧乏だったものの、晶子が「職業婦人」であったからこそ何とか路頭に迷わずに済んだのです。

遡れば実家の菓子屋の店先に立っていたときから、晶子はずっと働きづめ。良妻賢母思想推進に反対していたものの、彼女の生活には良妻賢母的側面もかなり見受けられます。つまり世の女性の苦労や現状をよく理解し、加え10年以上にわたる生活苦が「母性保護論争」における晶子の主張の根底にあるのです。経験を基に広く社会を見つめ、「女性の幸福」を真摯に願ったゆえの彼女の言葉には、説得力を感じます。

執筆・教育・婦人参政権運動~晩年まで

「母性保護論争」の後、晶子は精力的な執筆活動に加え、具体的な「行動」も開始します。日本初の男女共学校「文化学院」の創設に参画し、学監に就任。また『婦選の歌』を作詞し、女性の政治的権利獲得をめざす「婦人参政権運動」にも積極的に関わりました。

晩年の晶子の大仕事として知られているのは、『源氏物語』の現代語訳です。晶子は生涯で3度、『源氏物語』の現代語訳を行っています。1作目は森鴎外が校正を担当し、1912年(明治45年)~1913年(大正2年)に出版された抄訳版の『新訳源氏物語』(金尾文淵堂)。2作目は、1作目出版以前である1909年(明治42年)から着手していた全訳版です。14年掛けて訳し、「あと一章で完成」だった1923年(大正12年)9月、関東大震災が発生。なんと数千枚の原稿はすべて焼失してしまいます。

さすがの晶子も焼失時には「もう、ムリっ!」と思ったそうです。しかし9年後の1932年(昭和7年)、再び一からの執筆を決意。1935年(昭和10年)の夫・鉄幹の死去、自身の数度の入院を乗り越え、執筆をつづけました。そしていよいよ1938年(昭和13年)12月、『新新訳源氏物語』(金尾文淵堂)の第1巻が出版(1939年9月出版の第6巻で完結)。29年掛けての大事業をやりとげたのです。

 
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与謝野晶子(撮影日時不明)。

刊行の2年後、1940年(昭和15年)5月、脳溢血で倒れ半身不随に。その後は表にでることはなく、1942年(昭和17年)5月18日、息を引き取りました。享年63歳。



4回にわたってお届けしてきた「女性アクティビスト列伝」、今回の与謝野晶子が最終回です。

晶子は未来を見据え、当時としてはやや厳しめな目標を世に問いました。100年経った今、世の中はどのぐらい動いたのでしょうか?

女性の社会進出や結婚観、選択肢、家庭における役割などは大きく変化しました。また当時に存在しなかった概念や意識も誕生し、良い方向に向かっていることも。しかしあまり変わっていないこと、もしくは一度は動いたもののまた逆行していることもあると思うのです。

このシリーズで紹介した4人の女性に共通するのは「なぜ?」「そんなのおかしい!」を放置せず、発言・行動する勇気があったこと。

4人とも最初はたった一人の個人でした。彼女たちの物語は、世の中を変える第一歩は小さき個人の勇気とアクションだと、切々と私たちに語っています。

バトンを受け取った私たちにはできることはたくさんあるはずです。そのことをこれからもコスモ読者と一緒に考えていきたいです。

【参考文献】