アート、歴史、英国&欧州カルチャーのライター宮田華子による、連載企画「日本の女性アクティビスト列伝」。かつて人権獲得や平等な社会を目指して闘った女性活動家たちを特集します。彼女たちが闘ってなお未解決の問題は、皆さんへの「バトン」です! 平等な社会を作るための「次の一歩」を、一緒に考えてみませんか?

第二弾として取り上げるのは、女性参政権の実現のために尽力した市川房枝。3つの時代を生き、人々に愛された活動家・政治家として歴史に名を刻んだ女性です。


【INDEX】


女性が参政権を手に入れるまで

皆さん、投票はしていますか? 

2016年に「18歳以上」に改定された選挙権。自分の声を直接政治の場に届けられる数少ない機会であると同時に、大切な国民の権利です。しかし、日本の選挙の投票率は低いのが事実。総務庁のデータによると、2017年の選挙の投票率は53.68%、2019年の参議院選挙は48.80%と、選挙権を持つ人の約半分が大事な権利を無駄にしているのです。

選挙権は今でこそ「当たり前の権利」ですが、この「当たり前」を獲得するまでに恐ろしく長い時間がかかっています。

  • 1890年:第1回衆議院議員選挙(選挙権があったのは国民の1%の富裕層のみ)
  • 1925年:男子普通選挙法成立(25歳以上の男性のみ)
  • 1945年:衆議院議員選挙法改正(成人男女による普通選挙)
  • 1946年:戦後初の衆議院選挙(女性が投票できた初の国政選挙)
election de l'assemblée de la métropole de tokyo
YOSHIKAZU TSUNO//Getty Images

女性が参政権を手にしたのは、なんと日本初の選挙から55年後。男子普通選挙法の成立から20年も後であり、戦後になってやっと実現したのです。

「どうして男女は平等でないのだろう?」

この疑問を追い続け、女性参政権の実現のために尽力したのが市川房枝(1893~1981年)です。

DV家庭で育った少女時代が原点

1893年、市川房枝は愛知県の農家の7人きょうだいの第四子(三女)として誕生しました。父親は教育には熱心であったものの、今でいうDV(家庭内暴力)の加害者。日常的に母にひどい暴力を振るい、子どもたちにも手を挙げ、暴言三昧でした。

しかし母は「女に生まれたのが因果だ」と語り、子どもたちのために必死に耐え忍んでいたそうです。

「私のそれからの長い人生は、母の嘆きを出発点に選んでしまったようである」(『市川房枝自伝』より

当時、女性には人権がないも同然の状況。明治政府は軍国主義へ突き進み、女性蔑視的法律をどしどし作りました。女性には選挙権がなく、政治・集会参加も禁止。「良妻賢母」が推奨されるも、既婚女性は法的能力がなく、何をするにも夫の許可が必要でした。

な、なんでこんなに理不尽なの!」と思いますよね。房枝もそう思ったのです。

記録によると、愛知県立女子師範学校在学中に良妻賢母教育に反発し、ストライキを起こしています。10代のときから男尊女卑思想に納得できずにいた房枝にとって、当時の社会は理不尽極まりないものでした。

1913年、20歳で小学校の教員になった後、1917年、名古屋新聞(現中日新聞)に女性記者第一号として就職。その翌年に上京し、「女性活動家の元祖」である平塚らいてうと出会います。

「空気読まない」を武器に!平塚らいてうのジェンダー平等への挑戦

突っ走りすぎて「仲たがい」した黎明期

すでに女性解放運動のスターだった平塚らいてう(1886~1971年)と意気投合した房枝は、1919年に日本初の女性団体「新婦人協会」を結成。26歳で活動家としてのデビューを飾りました。

彼女たちの運動は、男性からは白い目で見られ、政府からは「要注意人物」の扱いを受けましたが、「元祖 #わきまえない女 」のらいてうと、デビュー直後でやる気満々の房枝は気にすることなく邁進します。

しかし、房枝はあまりに運動にのめり込んだため、活動スタイルの違いから、あっという間にらいてうと仲たがいしてしまいました。

 
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(写真前列左)市川房枝。撮影日時不明。

2年半のアメリカ生活、アリス・ポールとの出会い

「女性運動界のスター」との手痛い決裂後、協会を同志に託して退会した房枝が向かった先はなんと、アメリカ! 失意の中にも海外へ行こうと思えるところに、房枝のすごさが伺えます。

1921年、アメリカの女性の立場や労働問題を視察するため海を渡ることに。大正時代に海外に行くこと自体大変なのに、現地でハウスキーパーなどをして働きながら、シアトル、シカゴ、ニューヨークを巡ったタフさに、彼女の本気度がわかります。

そのとき出会ったのが、全国女性党の実質的なリーダー、アリス・ポール。彼女に「女性参政権運動をしなさい」「色々なことを同時にしてはいけない」、つまり「女性参政権運動1本に絞って頑張れ!」と説得されたことで、房枝は腹を決めました。

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Universal History Archive//Getty Images
アメリカ女性運動の指導者、アリス・ポール(1885~1977年)。

「帰国して婦人参政権運動(※)を本気でやろう」 ――そう決意して、2年半ぶりに日本に帰国するのです。

※当時は「女性参政権」ではなく「婦人参政権」と言うのが一般的でした。下記、「女性」と「婦人」を文脈に応じて記しています。

戦争の時代へ。苦い経験

1924年にアメリカから帰国。このとき、まだ日本は男子普通選挙法(1925年)の制定前。大正デモクラシーの自由な気運はあったものの、「女性参政権も!」という声はなかなか届きませんでした。

「婦人参政権獲得期成同盟会」の書記長に就任し、話を聞いてくれる議員がいればどこにでも参上してロビー活動をする毎日。房枝は「婦選(=婦人参政権)」の代名詞的存在になりました。しかし、出る杭は打たれるのが常。「婦選の鬼」と揶揄されましたが、強い信念をもって運動を続けました。

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1920年代の房枝。

しかし時代は戦争へと向かいます。1931年頃を境に言論弾圧が厳しくなり、女性運動は事実上不可能な状態に。

ここで房枝はターニングポイントを迎えます。彼女は「反戦」の立場に立つ、根っからの平和主義者。しかし欧米で女性参政権が認められた背景には、第一次世界大戦中の女性の戦争への貢献があったことも知っていました。

苦しみつつも、兵士や遺族、一般市民のため、国家に協力する選択をします。そして戦争に協力的な評論家から成る「大日本言論報国会」の理事にも名を加えられました。

 
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女性団体の会議に議長として登壇する市川房枝(1929年2月20日)。

女性参政権を獲得するも…

1945年8月15日に終戦すると、房枝の動きはさらにスピードアップ! 終戦から10日後に「戦後対策婦人委員会」を組織し、女性参政権を国に要求。11月3日に戦後初の婦人団体「新日本婦人同盟」を結成し、会長に就任。そして12月17日には、衆議院議員選挙法改正により婦人参政権(男女普通選挙)が実現しました。

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PhotoQuest//Getty Images
1946年4月10日、戦後初の帝国議会(衆議院)議員の総選挙で投票する女性。

やった~~~!!

苦節26年、願いが叶ったのです。翌年行われた戦後初の衆議院選挙では、39名の女性議員が誕生しました。

しかし、ここからが本当のスタート。女性参政権を得たのですから、「直接政治に参加しよう」と決意した房枝。多くの人に背中を押され参議院選挙へ立候補の意を固めますが、その矢先である1947年、房枝は「公職追放」の知らせを受けるのです。理由は「大日本言論報国会」の理事だったこと。房枝は公職追放になった初の女性でした。

公職追放とは?

GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により、戦争に駆り立てた人物が責任を問われ、公職(政府や企業の要人)に就任すること禁止する指令。

政治家・房枝の誕生!誰からも愛される存在に

何の活動もできなくなり絶望した房枝は、田舎で隠遁生活を送っていました。しかし、かつて仲たがいした平塚らいてうを始め、たくさんの人たちが房枝の公職追放の解除に向けて行動。1950年10月にやっと解除されました。

ようやく房枝の戦後の活躍が始まりました。まず「日本婦人有権者同盟」の会長に就任。そして再び周りからの強い後押しがあり、1953年(昭和28年)の参議院選挙への出馬を決意します。

そのとき彼女がこだわったのは「理想選挙」。「選挙に出たい人ではなく、『出したい人』を推す」というものでした。

ラジオと立会演説会にしか出ず、拡声器も使わない。支援者たちの「それでは落選してしまう!」という心配をよそに、房枝は「だったら落選してもいい」と断言。結果は計5回当選し(1971年に1度落選)、87歳で出馬した1980年の選挙では、全国区でトップ当選を果たしています。

かつては激しい運動スタイルから、軋轢を生むことも多かった房枝。しかし60歳で参議院議員になってからの彼女は、「信念の人」として一目置かれる存在に。党派や支持層を越え、「市川さんなら信用できる」と言われるようになりました。そして、女性運動に加え、平和と護憲運動にも邁進したのです。

最後まで議員として、活動家として生き抜いた房枝。トップ当選の翌年、1981年1月16日に心筋梗塞発作を起こして入院し、2月11日に死去しました。享年87歳でした。

死去から2日後の2月13日に議員としての25年間の活動を称え、「永年在職議員」の表彰を受けました。


市川房枝といえば、細身の体にグレイヘアー。優しい微笑みを浮かべつつも、芯のある語り口で知られています。国民から尊敬され、愛された「レジェンド」として今後も語り継がれる人です。

晩年、「房枝さんならやってくれる」と誰もが思うほどの信頼を勝ち得えたのは、「やりすぎ」と言われた若い時代からの信念が、長い時間をかけて人々に伝わったから。

社会を変えるには時間がかかります。今でこそ、年齢に達すれば誰もができる「投票」は、房枝のような活動家による長く厳しい闘いの末に勝ち得た「権利」なのです。

そのことを忘れず、あなたの大切な一票をぜひ行使してください。ジェンダー平等、環境問題、LGBTQ+の権利など、若い世代が注目する社会問題はすべて政治とつながっています。あなたの一票が、社会を明るい方へ進めるのです。

【参考文献】

  • 『市川房枝 私の履歴書ほか』(日本図書センター)
  • 『市川房枝自伝 戦前編』(市川房枝・著)
  • 『ちくま評伝シリーズ〈ポルトレ〉市川房枝: 女性解放運動から社会変革へ』(筑摩書房編集部)
  • 『闘うフェミニスト政治家市川房枝』(進藤久美子・著)
  • 公益財団法人「市川房江記念会女性と政治センター」公式サイト
  • 『市川房枝 ~生涯を男女平等等の実現に賭けた婦選運動家・政治家~』(小笠原眞・著)
  • 『明治民法の「妻の無能力」条項と商業登記たる「妻登記」』(奥山恭子・著)
  • 『日本における女性の法的権利、地位の変遷に関する研究』 (沢津久司・著)