アート、歴史、英国&欧州カルチャーのライター宮田華子による、連載企画「日本の女性アクティビスト列伝」。かつて人権獲得や平等な社会を目指して闘った女性活動家たちを特集します。彼女たちが闘ってなお未解決の問題は、皆さんへの「バトン」です! 平等な社会を作るための「次の一歩」を、一緒に考えてみませんか?

「好きな言葉は何?」と聞かれたら、迷わず「自由」と答えている私。平和も平等も、そして愛や友情も、それを選び取る「自由」があり、発言が許されるからこそ享受できるものだと思うからです。

そのことを思うとき、必ず思い出す人がいます。それが今回紹介する、伊藤野枝(1895~1923年)。大正時代に活動した女性解放運動家であり、「アナーキスト(無政府主義者)」として語られる女性です。

「どうして男女は平等ではないの?」「どうして不平等は存在するの?」――たくさんの「どうして?」と「なぜ?」を世に問い、筆一本を武器に自由と権利を求めて絶叫し続けた彼女。わずか28歳で「拷問の後、扼殺(やくさつ)」という、むごすぎる方法で亡くなっています。

彼女の生き様だけでなく「死に様」を思うとき、私は自由の尊さを感じずにはいられないのです。


【INDEX】


天性の「押しの強さ」で手に入れた教育と“離婚”

伊藤野枝(戸籍名「伊藤ノヱ」)は1895年1月21日、福岡県糸島郡今宿村(現・福岡市西区今宿)で、父・亀吉、母・ムメの第三子として誕生。父はほとんど働かず、母が塩田の手伝いなどをして一家を支えていました。

爪に火をともすような貧乏暮らし。野枝は「口減らし」のために二度も里子に出されました。

成績は優秀でしたが、貧しさのため進学を断念。高等小学校(現在の中学)を卒業後、地元の郵便局に就職します。

しかし14歳の野枝は、「本当はまだまだ勉強したいのに! 本が読みたいのに!」という気持ちを抑えきれません。焦り悩んだ末、かつての里親である代準介(だいじゅんすけ)・キチ(母ムメの実妹)夫妻に助けを求めます。裕福な実業家であり、当時東京に在住していた代に、3日にあけず、長文の手紙をガンガン送りつけました

ひとかどの人物となり必ず恩返しをするから、女学校に通わせてほしい

――そう頼み続ける野枝の情熱に負け、代は野枝を東京に呼び寄せます。野枝は猛勉強の末、上野高等女学校の編入試験に合格。再び学業の機会を得たのです。

このエピソードだけでも野枝の「押しの強さ」は明らかですが、ほどなくして彼女はさらにすごい事件を起こします。それは「婚家脱走事件」。女学校在学中に代は野枝の縁談をまとめ、休暇帰省中に結婚させました。相手は郷里の裕福な家の息子。野枝は嫌々ながらも、1912年、女学校卒業後、一度は郷里に帰ります。しかしその9日後、婚家から逃走(!)したのです。

東京に舞い戻った彼女が転がり込んだのは、何と女学校の男性教師の家! 後に野枝の2番目の夫となる英語教師の辻潤は、野枝の文才にいち早く気付いた人物であり、初恋の人。

野枝は辻とその家族(母と妹)が暮らす家で、そのまま同棲を始めます。

辻はこの事件により教師の職を失いました。野枝には周りを振りまわしてでも、ためらわずに「NOと言い切る」強さがあります。この性分があってこそ野枝の才能は花開き、しかし抹殺されることにもつながったのです。

タブー上等! 書いて書いて書きまくる!

辻の勧めで平塚らいてうに手紙を出した野枝。これをきっかけにらいてうが主宰する女性解放雑誌『青鞜』に参加し、文筆家への道をひらきます。

そして「貞操論争」「堕胎論争」「廃娼論争」など大胆に言論活動を展開。「本当に100年前に生きていた人?」と驚くほどのフリーダム精神で、世の不平等・不条理を切りまくります。

たとえば貞操論争。「男性は愛人を作れば『男の甲斐性』と言われるのに、女性だと責められるとは何と不平等!」と一刀両断。

「ああ、習俗打破! 習俗打破! それより他には私たちのすくわれる道はない。呪い封じ込まれたるいたましい婦人の生活よ! 私たちはいつまでもいつまでもじっと耐えてはいられない!」 ――『貞操に就いての雑感』(青鞜 第五巻第二号)1915年2月号。

と叫び、女性自らが行動を起こすよう鼓舞しました。

習俗打破」は彼女の人生に一貫して流れる主義のようなもの。まかり通っている慣習でも、「間違っている」ことであれば正されるべきと説き、「私の人生。好きなように生きて何が悪い!」という姿勢を貫きます。

20歳で『青鞜』の編集長に就任すると、「無主義、無規則、無方針」をモットーに、教育のある「お嬢様層」だけではなく、幅広い人たちに誌面を解放しました。

大杉栄との恋愛

夫である辻(1915年に結婚)は、野枝の知の扉を開いた人物。二人は2児をもうけたものの、ほとんど働かない辻との家庭生活は約4年で破綻します。1916年、野枝は辻の元を去り、当代きっての社会運動家&アナーキストである大杉栄との生活を始めました。

 
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大杉栄(1885~1923年)は「自由恋愛論者」であり、大変なモテ男。野枝と付き合い始めた当時は、「妻&愛人&野枝」との4角関係を実践中でした。しかし愛人に刺された事件(日蔭茶屋事件)の後、妻とも離婚。野枝とのみ交際するように。

世間は二人を…というより、特に野枝を大バッシングするも、「正直に生きて、何が悪い!」と、モラル度外視で突き進む野枝。「わがまま」「身勝手」の烙印を押され、らいてうをはじめとする仲間も次第に去っていきました。

しかし野枝は幸せでした。大杉との間に5人の子ども、魔子(後に眞子と改名)、エマ(幸子、誕生後大杉の妹の養子に)、エマ(笑子)、ルイズ(ルイ)、ネストルをもうけ、二人は平等で公正な社会を目指し、運動に邁進します。

「大正デモクラシー」と言われ、市民が民主主義に目覚めた時代であったものの、それゆえ大杉の運動は常に弾圧の対象でした。新聞を出せばすぐに発売禁止となり、何度も何度も逮捕され、24時間警察の尾行つき。二人はいつも貧乏で、家賃滞納から引っ越しを繰り返し、方々に借金をしまくって活動資金を捻出。着の身着のままで言論・運動を続けたのです。

 
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1921年(大正10年)に創設された日本初の女性社会主義団体「赤瀾会」の仲間と。右から堺真柄(社会主義者・堺利彦の娘)、野枝、山川菊栄(評論家・婦人問題研究家)。

暴行のうえ、扼殺された「甘粕事件」

そんな二人に、終わりはあっけなくやってきました

1923年9月1日、関東大震災が発生。倒壊や火災によりたくさんの死傷者が出て首都機能が停止状態になり、加えて、朝鮮人や社会主義者たちについて「略奪や放火」「井戸に毒を入れている」などの事実無根の流言が拡散していました。

約2週間後の9月16日。当時東京府淀橋町柏木(現・東京都新宿区)に暮らしていた大杉と野枝は、川崎市に甥の橘宗一(むねかず、6歳。大杉の末妹の息子)を迎えにいきました。その帰り道、家の近所で陸軍・憲兵隊司令部の甘粕正彦大尉らに連行されました。

 
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甘粕正彦(1891~1945年)。甘粕事件の後満州へ渡り、満洲映画協会理事長を務めた。終戦直後、服毒自殺。

そして三人は、その日の内に憲兵隊構内で殺害されたのです(甘粕事件)。伊藤野枝、享年28歳。大杉栄、享年38歳。

三人の遺体は畳表で巻かれ、古井戸に投げ捨てられました。甘粕らは裁判で「(三人は)苦しまずに逝った」と語ったものの、1976年に発見された三人の死因鑑定書によると、野枝と大杉にはいくつもの骨折があり、激しく暴行された形跡があったそうです。


野枝が残した有名な言葉が2つあります。1つは『青鞜』に記した言葉。

「吹けよあれよ風よあらしよ」

もう1つは、野枝が母に語ったと言われる言葉です。

「かかしゃん、うちは……うちらはね。どうせ、畳の上では死なれんとよ」―― 『風よ あらしよ』(集英社 村山由佳・著)より引用

1つ目は、吹き荒れる嵐のように生き抜いた野枝の激しい人生をそのまま表したような言葉であり、2つ目は、安らかには死ねないだろうと悟りつつも、少しだけ運命を恨めしく思う、痛みを感じる言葉です。

17歳でデビューし28歳で亡くなるまで、筆を止めることなく執筆に励んだ野枝。彼女が激しくもひたすら求めたのは、「皆が自由に生きられる世の中」。それだけです。

 
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洋装姿で愛児と笑う野枝。

しかし彼女の思想は当時の日本にとって都合の悪いものだったため、国に、政府に、惨殺されました。

これはxの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

▲野枝と大杉の四女・ルイズ(後年「ルイ」に改名)。彼女の半生を描いたドキュメンタリー映画『ルイズその旅立ち』(1997年)は今も日本各地で上映されています。

「自由」は当たり前のことではありません。歴史を見てください。そして世界を、世の中を少し見回してみてください。大きな力が動けば、個人の自由を奪うのはいともたやすいことなのです。

だからこそ「なぜ野枝が畳の上で死ねなかったのか?」を知り、考えることが大事だと思うのです。

【参考文献】

  • 『風よ あらしよ』(集英社)村山由佳
  • 『村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』(岩波書店)栗原康
  • 『美は乱調にあり』(文芸春秋)瀬戸内寂聴・原作 柴門ふみ・作
  • 『伊藤野枝集』(岩波文庫)森まゆみ・選
  • 『「青鞜」の「堕胎論争」から見た〈母性〉近刊叢書所収拙稿を中心に』(大原社会問題研究所雑誌 №649/2012.11)松尾純子・著
  • 『貞操に就いての雑感』(『青鞜 第五巻第二号』1915(大正4)年2月号/『定本 伊藤野枝全集』(學藝書林))伊藤野枝
  • 『S先生に』(青鞜 第四巻第六号」1914(大正3年)年6月号/『定本 伊藤野枝全集』(學藝書林))伊藤野枝
  • その他、伊藤野枝の著作多数