「無理」と言われれば言われるほど、「やってみせる」と燃えるタイプ

ヘレン・ケラーと言うと、つい『ガラスの仮面』で天才女優・北島マヤが演じる、水道の蛇口に手を付けながら「ワーワ…ワーワ…!(ウォーター)」って場面が思い浮かんびます。ご存知の方も多いと思いますが、日本で言うところの“奇跡の人”。生まれて19カ月で視力と聴力を失いながら、7歳の時にアン・サリヴァンという教師と運命的に出会い、言葉を獲得していったすごい人です。ここまでは多くの人の知るところですが、この後彼女がどうなったか。なんと20歳で、当時のハーバード大学の女子部ラドクリフ校に入学しています。その時の理由が、はいこちら。

「ラドクリフ校は、最初私を入学させないといったものですから、私は生まれつき頑固なので(中略)かえってこちらはどうしても入って見せてやるという気になったのです」

がーんーこー。この連載に登場する女子、みんな頑固ですが、この人の強さったら尋常じゃありません。当然ながら「まあ障がい者だから“ゲタ”はかせてやろう」みたいなことは全然ありません。彼女はこの時分には、英語はもとより、ドイツ語、フランス語、ラテン語を理解するというありえない頭の良さでしたし、言葉を発することもある程度できるようになっているんですね。

ちなみに彼女は“三重苦”と誤解されていることも多いですが、目が見えず耳が聞こえないだけで、それゆえに発声する方法を知らなかっただけ。でも周囲の人たちの動く唇に触れて、「みんなは口を使って話してるらしい…」と知った彼女は、どうしてもこの力を獲得する! と決意し、自ら先生を見つけて発声法を習います。この過程がまたすごい。

耳も目も使えないわけですから、その方法は当然ながら“触れること”。先生と自分の、ノド、唇、そして舌を触り比べて「ほうほう、この文字を発するときはこの動き…」とやるのですが、この練習に根気よく付き合ったのも、もちろんサリヴァン先生です。

他人に舌を触らせるってすごいな…と思うんですが、さらには「あああ、わからない!」とイラついたヘレンが舌を強く押すために、先生が何度もゲエエと吐いた、という話も残っています。障害を克服せんとする二人の努力には、ある種の鬼気迫るものを感じずにはいられません。

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当時18歳のヘレン・ケラー(左)と、アン・サリヴァン先生(右)。

世の中は「見なくていいもの、聞かなくていいもの」だらけかも

さてそんな彼女が生きた時代(1880~1968)とは、どんなだったのか。女子的視点で見る時に欠かせないのは「女性参政権」ですが、アメリカでこれが全国的に導入されたのが1920年。つまりは社会は完全に男の都合で成り立っており、女子は「市民(公民)」として認められていなかったんですね。その無根拠な理由は、はい、こちら。

主要な教育者や医師たちが、高等教育によって若い女性のもろい身体を男性化してしまうし、子どもを産めなくするし、そうでなければ回復できないほど損なってしまう(中略)。これらの警告は、女性の身体自体が生まれつき弱いもの――女性の脳、精神的状態が弱く心もとないものという、証拠もなしに主張されたものであった。

そんな時代にあって、さらに盲目で聾であったヘレンが、周囲のあらゆる人々から「できるわけねーし!」と決めつけられたことは想像に難くありません。実際、ハーバード大学の教材は、ヘレンの障害に対して何ひとつ配慮してはくれない、健常者と全く同じものです。でもご存知のように、そう言われれば言われるほど燃えるのがヘレン&サリヴァン先生なんですね。教科書とか全部指文字(掌に文字を書く)で読むんですから、時間かかるなんてもんじゃないし、理解できなければ何度も読む、それを根性でやってのけます。さらに試験において学校側は、サリヴァン先生の介助を「答え教えてるんじゃね?」と疑い、時には点字や指文字を知らない監督官のサポートしか許さなかったりするわけですが、そういう事態にもヘレンはぜんぜん負けません。

「彼らが知らず知らずのうちに私の前に障害物を置いていたのかもしれません。それを克服できたと実感することを、私は自身の慰めにしていました」

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1950年代に撮影されたヘレン・ケラー。

大学卒業後の彼女が、世の中の差別と不平等を正すための、政治的、社会的活動へと傾倒していったのは自然な成り行きでしょう。1920年代には新設されたアメリカ盲人援護協会の“顔”として、目が見えない人の教育・福祉に関する募金活動の主体となってゆく――のですが、そこに至るまでのこの人の活動には「なんつうオモロイおばちゃんなんだ」と思わせるものが散見します。その最たるものが“女優業”です。

自伝『わたしの生涯』の中には、自分自身を演じた自伝映画の撮影がどんだけドタバタだったかを散々書き、「私の自尊心がそんなこと言うもんじゃないと言うけれど、告白すれば映画は大コケ」とまとめ、にもかかわらず「無理めのことやりたくなっちゃうのよ、人間って」と、寄席巡業への出演を告白します。「だって生活が苦しかったから。舞台に出ると効率的に稼げるし、観客も私も楽しいし、人生勉強にもなった」。今の私ですらビックリするんですから、その当時の人々が彼女の心の無邪気さと自由さに驚いたこと――そして「障がい者の売名行為」と嫌悪する人がいたことは、言うまでもありません。

もちろんヘレンは気にしない。その強さ、ブレなさ、純粋さ、直截さは、誤解を恐れずに言えば、視覚と聴覚からの情報が限られているがゆえなのかもしれません。簡単には存在しがたいその魅力は、寄付者たちをして「ヘレンが来たら逃げられない」と言わしめたほど。見える聞こえる私たちが、どれだけどうでもいいことに振り回されているか、考えずにはいられません。

「自分で“こんな人間だ”と思ってしまえば、それだけの人間にしかなれないのです」

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スウェーデンはストックホルムを訪れたヘレン・ケラー(1957年)。旅の間ずっとついてきたという白ハトを帽子に乗せて。

(参考文献)

『ヘレン・ケラーの急進的な生活』 キム・E・ニールセン

『ヘレン・ケラー自伝』 ヘレン・ケラー

『わたしの生涯』 ヘレン・ケラー

『ヘレン・ケラーはどう教育されたか サリバン先生の記録』 アン・サリバン

『愛と光への旅 ヘレン・ケラーとアン・サリヴァン』 ジョゼフ・P・ラッシュ

『ヘレン・ケラー』 村岡花子