ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

ナポレオンは、「英雄」や「皇帝」という言葉とセットで知られている偉人ですが、「フランスの皇帝」であることは知っていても、一体何をして英雄になった人物なのかは正直よく分からないという人もいるかもしれません。

また、近年ではナポレオンについての評価も割れています。英雄伝だけではなく“功罪”の部分も多く、一筋縄ではいかない人物なのです。英雄なのか? 冷酷な独裁者なのか――。この記事では、評価が分かれる「ナポレオン」について、抑えておきたいポイントを4つに絞って紹介します。

内気な少年から“戦争の天才”へ

1769年8月15日、フランス領コルシカ島で誕生したナポレオン・ボナパルト。

父カルロは法律家であり、当時ジェノバ領だったコルシカ島の独立戦争(1729年12月~1769年6月)では“独立側”の副官を務めていた人物でした。しかし最後の最後にカルロはフランス側に寝返り、戦争はフランス側が勝利しました。ナポレオンはそんな「フランス領になりたてのコルシカ島」で誕生したのです。

カルロの「フランス側への寝返り」が評価され、ボナパルト家はフランス貴族(下級貴族)に叙されました。これにより、ナポレオンと兄のジョセフはフランス本国で教育を受ける機会を与えられます。

1779年、10歳になったナポレオンは貴族の子弟が学ぶブリエンヌ陸軍幼年学校に入学。その後1784年に、パリにある陸軍士官学校の砲兵科に入学しました。

少年ナポレオンは内気で無口であり、貧しい田舎貴族出身であることを理由にいじめられた経験もあります。好きな科目は数学で、かなりの読書家。また、一般的には卒業まで4年ほどかかる陸軍士官学校をわずか11カ月ですべての試験に合格。陸軍士官学校を卒業した1785年、16歳のナポレオンは砲兵士官として軍人人生を歩み出しました。

時は、フランス革命前夜。ところがナポレオンは、当初まったく革命に興味を持たなかったそうです。懐かしき故郷・コルシカ島に長期帰省し、のんびり過ごしていました。

そんな中で事件が勃発。コルシカ島内部での対立から、ボナパルト家が島から追放されてしまったのです。仕方なく1793年に原隊に復帰しますが、この挫折の経験がナポレオンの野心と上昇志向に火をつけたとも言われています。

上官が「共和派(絶対王政反対派)」だったことからナポレオンも共和派としてフランス革命に参戦するのですが、ここで“戦争の天才”として頭角を現します。

フランス革命とは?

1789年にフランスで起った市民革命。ブルボン王朝による絶対王政によって一般市民が苦しむ中、民衆が蜂起した。これにより1792年に王制が廃止され、ルイ16世は処刑に。1792年に共和制が実現した。王制支持派を「王党派」、専制君主がいない共和制による政治体制支持派を「共和派」と言う。
マリー・アントワネットとルイ16世。共にパリのコンコルド広場で処刑されました。
Getty Images
マリー・アントワネットとルイ16世。共にパリのコンコルド広場で、ギロチンによって処刑されました。

30歳、若き独裁者の誕生

革命初期のトゥーロン攻囲戦の勝利で名をあげ、“貴族出身”という肩書きも功を奏してどんどん出世していったナポレオン。

王制が倒れ共和制になった後には、オーストリア帝国および欧州各国が革命に干渉したことから「フランス革命戦争」が起こりました。ナポレオンは1796年4月~10月までのイタリア遠征に司令官として抜擢されます。イタリア側からオーストリア軍を攻撃し、連戦連勝。“戦争の天才”ぶりをいかんなく発揮しました。

この戦いから帰還すると、ナポレオンは「英雄」として迎えられました。そして、1798年のエジプト遠征(イギリスとの戦い)も成功させた後、勝負に出ました。

総裁政府(共和制後半期)が弱体化していたため、1799年11月にクーデター(ブリュメール18日のクーデター)を起こし権力を掌握。同年12月24日に統領政府の発足を宣言し、自ら第一統領に就任。30歳にして、フランス政府のトップの座についたのです。

当時のフランスはイギリスを中心とする欧州各国に包囲された状態でしたが、ナポレオンは領土の奪還やイギリスとの講和を実現させます。1802年に自身を「終身統領」とする憲法を発令。1804年5月18日には元老院決議により「ナポレオン1世」として「皇帝」の座につきました。34歳のときでした。

王制廃止を掲げたフランス革命をきっかけに名を挙げたにもかかわらず、自ら「皇帝」となったナポレオン。「君主や皇帝のいない体制=共和制」支持派だったはずなのに、何だか…矛盾しています。しかも皇帝の座は世襲制であり、ナポレオンの子孫に継がせていくことになります。

皇帝即位後ではあるものの、1804年11月に皇帝即位の是非を問う国民投票が行われたこと、そして自らの功績で「皇帝」の座を手にしたことにわずかながら民主主義の香りは残すものの、実質は新たなる独裁者の誕生でした。

その後「全欧州を掌握する」という野心を掲げ、ナポレオン戦争を展開していきます。

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Heritage Images//Getty Images
皇帝就任前から「英雄感」を醸し出す肖像画を描かせていたナポレオン。作品名は『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』で、マルメゾン城美術館所蔵。

ナポレオンと二人の妻たち

ナポレオンは、その生涯で2度の結婚を経験しています。一人目は、パーティーで出会いナポレオンが一目惚れしたジョゼフィーヌ。そしてもう一人は、政略結婚のために妻として迎えられたマリー=ルイーズです。

恋多き女性ジョゼフィーヌ

  • 1763年6月23日生~1814年5月29日没

フランス領西インド諸島マルティニーク島の貧乏貴族の娘として生まれたジョゼフィーヌ。16歳でフランス本国に渡りボアルネ子爵と最初の結婚をし、一男一女をもうけるも離婚。元夫はフランス革命時に処刑されましたが、ジョゼフィーヌも一時投獄されていました。しかし獄中で将軍と恋仲になり、釈放後は総裁政府の重鎮であるポール・バラスの愛人に。

その後、1795年にパーティでナポレオンと出会います。ナポレオンは一目見たときからジョゼフィーヌに夢中。一方でジョゼフィーヌのほうは「別に」という感じだったようです。

ナポレオンの熱烈なアプローチに加え、出世していく彼の権威と財力が魅力だったのか、1796年にジョゼフィーヌはナポレオンのプロポーズを受け入れ結婚しました。一説には「愛人だったバラスがジョゼフィーヌに飽きたため、ナポレオンに押しつけた」とも言われています。

結婚2日後にイタリア遠征に旅立ったナポレオンは、ジョゼフィーヌにラブレターを送りつづけました。ところが彼女は、ろくに読みもしなかったようです。エジプト遠征中にはジョゼフィーヌが騎兵大尉イッポリト・シャルルと浮気をし、これが大ゴシップに発展。“浮気されたかわいそうな皇帝”として、赤っ恥をかく結果となりました。

この事件も影響し、1度は本気でジョゼフィーヌとの離婚を決意したナポレオンでしたが、このときは何とか思いとどまりました。というのも、ジョゼフィーヌは単なる悪妻ではなかったからです。彼女の社交術と広い人脈はナポレオンの役立っていました。

1804年にナポレオンが皇帝に即位した際には、ジョゼフィーヌにも「皇后」の称号を与えています。

france, paris, the coronation of empress josephine by napoleon i at notre dame
DEA / E. LESSING//Getty Images
ノートルダム大聖堂で行われた戴冠式の様子を描いた名画『ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョゼフィーヌの戴冠』。ルーヴル美術館所蔵。

皇帝・皇后に即位した二人は栄華の絶頂期を迎えますが、この頃から夫婦関係の形勢は逆転。ナポレオンの妻への愛は冷めていき、逆にジョゼフィーヌがナポレオンを「追う」ように。ナポレオンはこの時期、愛人との間に婚外子を少なくとも2人ももうけています。

最後は「ジョゼフィーヌとの間に子どもが生まれない」という理由から、1810年1月10日に離婚に至りました。13年間の結婚生活でした。

しかし離婚後もこの二人は「つかず離れず」の関係を続けました。離婚したのにジョゼフィーヌは生涯「皇后」の称号を持ち続け、マルメゾン城とたっぷりの年金を与えられました。また“話し相手”として交流を保ち、ナポレオンの次の妻が嫉妬するほどの仲だったと言われています。

生まれながらのお姫さまマリー=ルイーズ

  • 1791年12月12日生~1847年12月17日没

ナポレオンの2番目の妻は、神聖ローマ皇帝フランツ2世(後のオーストリア皇帝フランツ1世)の長女であり、欧州きっての名門ハプスブルグ家のお姫様であるマリー=ルイーズでした。

当時のオーストリアはナポレオンに何度も攻められた国であり、彼女にとってナポレオンは“恐怖と嫌悪”の対象でした。しかし、ナポレオンはフランスとオーストリアの講和のため、そして自分の「箔付け」のため、良家の令嬢マリー=ルイーズと何としても縁組したかったのです。

marie louise
Getty Images

ジョゼフィーヌと離婚してわずか3カ月弱の1810年4月1日、当時18歳だったマリー=ルイーズは泣く泣くナポレオン(当時41歳)と政略結婚しました。

しかし結婚してみると、ナポレオンは意外にも“優しい夫”だったらしく、1811年3月20日2人の間に待望の男児(ナポレオン2世)が誕生しました。しかし、この頃からナポレオンの運気は下降していきます。

1814年3月29日、ロシア・プロイセン・オーストリア・スウェーデン同盟軍のパリ襲撃に備え、マリー=ルイーズと息子のナポレオン2世はパリを脱出。彼女はナポレオンと別れたくなかったものの、ナポレオンが退位するとウィーンに戻り離別しました。たった4年の結婚生活でした。

その後、彼女はパルマ公国の君主(パルマ公爵、1814~1847年)に即位。ナポレオンの死後2回結婚しています。

なぜ英雄に? ナポレオンの功績と功罪

ナポレオンが英雄視されてきた理由は、その絶頂期に欧州大陸の大部分(イギリス、ロシア、オスマン帝国、スウェーデンを除く)を勢力下においたからです。

フランス革命後に登場した“強き皇帝”であり、戦争を戦い抜き、領土拡大の野心に燃えた人物でした。短くもダイナミックな人生は分かりやすいヒーロー像であり、その印象が後世に伝えられました。

しかし同時に、“残忍な戦争屋”でもありました。ナポレオン戦争によって失われた命は300~500万人とも言われ、銃殺や惨殺を躊躇しない“悪魔の指揮官”とも言われています。

1808年のスペイン反乱での虐殺をはじめ、ナポレオン軍が各地で略奪や破壊行為を重ねたことでも知られていますが、同時に多くのフランス人も戦争で命を落としました。「欧州天下」の実現のため、泥沼の戦いを続けたナポレオン。ついていかねばならないフランス兵こそが、最大の犠牲者だったのかもしれません。

戦争以外でも、歴史に残るナポレオンの“悪行”の一つに「ハイチ独立の妨害」があります。

フランス領サン=ドマング(現ハイチ)は、フランス革命当時、独立の気運が高まっていました。1794年2月にフランス国民公会は植民地における黒人奴隷制廃止を決議し、1800年、黒人指導者のトゥーサン=ルヴェルチュールが独立を宣言しました。

しかし、ナポレオンが権力の座に就くと、トゥーサン=ルヴェルチュールを逮捕し、独立運動の弾圧に転じます。1802年に黒人奴隷制を復活させ奴隷貿易も再開したのです。

ナポレオン
Getty Images

もちろん、ナポレオンには多くの功績もあります。

近代法典の基礎となる「民法典(ナポレオン法典)」を編纂し、多くの国の民法に影響を与えました。中央銀行や教育制度の設立し、フランス革命の理念(自由、平等、友愛、人権)の拡散、私有財産の不可侵や信教の自由を保証する等、社会の根幹となる制度や概念を世界に広めた人物でもあります。

しかし民法典では家父長制を定め、「夫が妻の不貞行為に遭遇した場合、妻を殺害したとしても罪にならない」としたことでも有名です。この制度がフランス、そして世界の「男女平等」の実現を遅延させることになりました。

栄華の成れの果て、没落へ。

ナポレオンの絶頂期は、1805~1807年頃です。1805年12月、ナポレオンはアウステルリッツの戦いに勝利しました。

フランス、ロシア、オーストリアの3つの帝国の皇帝が1つの戦場で戦ったこの戦いに勝利し、悦に入ったナポレオンは凱旋門の建設を命じました。1807年の戦争では苦戦を強いられたこともあったものの、この年にプロイセンとロシアと講和し、ナポレオンの勢力が最大となりました。

現在ではパリの象徴であり観光名所の一つでもあるこの凱旋門ですが、実はナポレオン自身は完成(1830年)を見ることなく死んでいったのです。

凱旋門 パリ
Hulton Archive//Getty Images

ナポレオンの没落の大きなきっかけとなったのは、1812年のロシア遠征です。ロシア側の司令官の狡猾な策にはまり、無残な敗北に終わりました。

この敗北により、欧州各国は「反ナポレオン」の意向をはっきりと打ち出し始めます。対仏同盟(第6次)がフランスを攻める中、ロシア遠征で兵力を失っていたフランス軍は苦しみます。負け戦を重ね、1814年3月31日にはウェリントン公爵率いるイギリス軍によって首都パリが陥落。

4月にナポレオンの無条件退位が決まり、現在はイタリア領のエルバ島に追放されました。 一度は自死を図ったものの死にきれなかったナポレオン。しかし、ここからまた這い上がろうとしたところがナポレオンの凄いところです。

ナポレオンの後釜を上手く探せなかった各国首脳たち。仕方なく、フランス革命で排除したはずのブルボン家からルイ18世(処刑されたルイ16世の弟)を連れてきて王位に据えました(フランス復古王政)が、フランス市民には不評でした。

この事を知ったナポレオンは、1815年2月26日にエルバ島を脱出。王制に反対する農民や旧部下の支持を得て再度パリに戻り、なんと帝政を復活させ皇帝に復帰するのです。このパワーも、ナポレオンの英雄イメージの理由でしょう。

しかし、“ナポレオン・リターンズ”は長くは続きませんでした。

1815年6月18日、イギリス・プロイセン連合軍と戦ったワーテルローの戦いで完敗。「百日天下(実際には95日)」は終わりを告げました。ナポレオンはイギリス艦隊に投降。“にわか皇帝”は退位し、南太平洋に浮かぶイギリス領セントヘレナ島に幽閉されました。

セントヘレナ島の高温多湿な気候と劣悪な居住環境は、ナポレオンの体を蝕みました。6年間苦しんだ後の1821年5月5日、ナポレオンは死去しました。享年51歳。死因には毒殺説もあるものの、胃がんによるものという説が今でも有力です。

ナポレオン
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戦争まみれだった人生

地位、権力、家族などすべてを失った後、ナポレオンは幽閉先での厳しい生活の中で膨大な回顧録(口述筆記)『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編)を残しました。

そこには、こんな言葉があります。

「戦争はやがて時代錯誤になろうとしている」
「私が打ち倒されたことは文明が闘いに敗れたことである。私の言葉を信じ給え、文明は復讐をするであろう。二つのシステムがある、すなわち過去と未来とである。現在はつらい過渡期にすぎない」(『ナポレオン言行録』(岩波書店)オクターヴ・オブリ編/大塚幸男訳より抜粋)

もしかしてナポレオンは、最後まであきらめていなかったのかもしれません。もしくは文書を残すことで、自らの「英雄伝」だけは死守しようとしたのか――。

ナポレオンの人生を見ていくと、戦争だけをしていたわけではないものの、あまりに「戦争まみれ」であることが分かります。列強国による対仏同盟の存在があったこと、そして軍事に対する天賦の才があったとはいえ、後半生のほとんどを戦争に費やしています。

ナポレオン・ボナパルト
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彼の51年の短き人生を思うとき、執念という言葉が頭をよぎります。「やがて時代錯誤になる」と認識しつつも戦争を続けたナポレオン。その原動力が「独裁への執念」であったのか、「フランス」への思いだったのか、本当のところは誰も分かりません。

一方で、どんな状況であれ「正当化されてよい戦争」なんてあるのだろうか、と改めて思います。世界各地で起っている戦争を目の当たりにしている現在、「正義のための戦争」は一つも存在しないと強く思います。

すべての戦争は多くの人たちの命を犠牲の上にあるもの。それは18世紀でも現在でも、変わらないはずです。

おすすめ映画

2023年12月に日本公開された映画『ナポレオン』は、巨匠リドリー・スコット監督とオスカー俳優ホアキン・フェニックスがタックを組んだ158分に渡る超大作。この映画でもこの「英雄」に新解釈を加え、「人間ナポレオン」の部分にも光が当たっています。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
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【圧倒的スケール】ナポレオンの戦略をリドリー・スコット監督が解く特別映像解禁!映画『ナポレオン』12月1日(金)全国公開 thumnail
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参考文献:

  • 『ナポレオン言行録』(岩波書店)オクターヴ・オブリ編/大塚幸男訳
  • 『Napoleon: Path to Power 1769 – 1799』(Bloomsbury Publishing PLC)Philip Dwyer・著
  • 『Citizen Emperor: Napoleon in Power 1799-1815』(Bloomsbury Publishing PLC)Philip Dwyer・著
  • 『Napoleon: A Political Life』(Simon & Schuster Ltd)Steven Englund・著
  • 『ナポレオン』①②③(集英社)佐藤賢一・著
  • <Britannica>
  • <コトバンク>
  • 精選版 日本国語大辞典/改訂新版 世界大百科事典
  • その他多数。