ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。

知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!

アンネ・フランクの短い人生

『アンネの日記』――この本の名前を聞いたことがない人はいないでしょう。

第二次世界大戦中ホロコースト(ユダヤ人迫害)が吹き荒れる中、オランダに暮らすアンネ・フランクという名のユダヤ人の少女が書いた日記です。戦後出版されたこの日記は70カ国以上で出版され、聖書に次ぐベストセラーとも言われています。ホロコーストを語るとき、真っ先に思い浮かぶのがこの本、という人も多いはず。

今回はアンネ・フランクの人生と日記の内容、そして一少女の日記が出版された経緯をひも解いてみたいと思います。

たくさんの言語に翻訳されている『アンネの日記』。
ullstein bild//Getty Images
たくさんの言語に翻訳されている『アンネの日記』。

生まれ育ったドイツを追われオランダへ

アンネ・フランクは銀行家(当時)の父・オットーと、裕福な家の娘である母・エーディトの次女として1929年6月12日、ドイツ・フランクフルトで誕生しました。姉・マルゴット(愛称:マルゴー)は3歳年上です。

ユダヤ人一家でしたが、あまり宗教熱心ではなかったと言われています。

アンネ・フランクの写真。撮影日不明
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1929年の世界恐慌以降、ドイツでは急速にナチス(国民社会主義ドイツ労働者党)が支持を伸ばします。1933年1月30日にヒトラーが首相に任命され、「反ユダヤ主義」を掲げたナチスドイツ(ナチス党政権下のドイツ)はユダヤ人迫害を開始しました。

フランク一家は迫害から逃れるためオランダへの移住を決意。まず父が先に移住し、アンネも1934年2月にアムステルダムに移りました。

1941年にアムステルダムで撮影されたフランク一家。ミープ・ヒースとヤン・ヒースの結婚式に向かう様子。
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1941年にアムステルダムで撮影されたフランク一家。ミープ・ヒースとヤン・ヒースの結婚式に向かう様子。

しばらくは安全で静かな日々を送った一家でしたが、幸せな生活は永遠ではありませんでした。1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻により第二次世界大戦が勃発。

当時オランダは中立の立場でしたが、1940年5月10日にドイツはオランダに侵攻し、5日後の5月15日にオランダはドイツ軍に降伏。外出時間の制限、映画館や公園への出入り禁止、買い物も自由にできない等、ユダヤ人が“普通の生活”を送ることは不可能になったのです。

1942年5月3日から、オランダに暮らす全ユダヤ人にこの「ダビデの星のバッジ」装着が義務付けられました。
Bob Chamberlin//Getty Images
1942年5月3日から、オランダに暮らす全ユダヤ人にこの「ダビデの星のバッジ」装着が義務付けられました。

厳しい状況の中、1942年6月12日、アンネは13歳の誕生日を迎えました。両親から誕生日プレゼントとしてもらったのは格子柄のサイン帳。このプレゼントをアンネはとても喜び、日記帳として使い始めます。

アムステルダムにある「アンネ・フランク・ハウス」で保存されているアンネの日記帳。
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アムステルダムにある「アンネ・フランク・ハウス」で保存されているアンネの日記帳。

「隠れ家」での生活

オランダでの「ユダヤ人狩り」が日毎に激しくなった1942年7月5日、姉のマルゴーにナチスからの出頭命令(労働キャンプへの召集令状)が届きました。「マルゴー一人を行かせるわけにはいかない」と考えたフランク夫妻はマルゴーを出頭させず、翌7月6日、すでに準備していた「隠れ家」にそっと移動しました。

「隠れ家」は父が経営するペクチンと香辛料の会社「オペクタ」の上階。本棚で隠れた「秘密のドア」の裏に階段があり、その向こう側に4部屋と屋根裏がありました。
Peter Dejong//Aflo
「隠れ家」は父が経営するペクチンと香辛料の会社「オペクタ」の上階。本棚で隠れた「秘密のドア」の裏に階段があり、その向こう側に4部屋と屋根裏がありました。

一週間後の1942年7月13日にはファン・ペルス一家(夫妻と息子のペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも隠れ家に合流し、合計8人で息を潜めて暮らしました。

3世帯が狭いスペースで同居し、食料も足りず、トイレも好きな時間に行けない。空爆があっても外に逃げることもできません。隠れ家での生活は、大人にも子供にも辛いものでした。

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アンネの寝室はプフェファー(入居時53歳)と同室。そのこともティーンエイジャーの彼女には辛いことでした。

アンネと家族たちの最期

支援者の協力のもと何とか営んでいた隠れ家生活ですが、2年で終わりを告げます。

1944年8月4日、ナチスのSD(親衛隊保安部)によって隠れ家が発見され、8人は逮捕・連行されます。なぜ発見されたのか?について、真相は不明です。しかし密告があってのことだったと考えられています。

アンネたちは数カ所を経由した後、1944年9月3日にアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に到着しました。しばらくは女性棟で母と一緒に過ごせましたが、1944年11月頭にアンネとマルゴーはベルゲン・ベルセン強制収容所に移送。劣悪な環境かつ食事もほとんど与えられず、発疹チフスにかかっていた2人は衰弱しました。

1945年2月、まずマルゴーが息を引き取り、そしてアンネも姉を追うように亡くなりました。アンネ15歳、マルゴー19歳の短い生涯でした。

bergen belsen concentration camp liberation 70th anniversary nears
Sean Gallup//Getty Images
かつてベルゲン・ベルゼン強制収容所だった跡地には、2007年に「ベルゲン・ベルゼン・メモリアル」という記念館が立てられ、アンネとマーゴットの墓標も置かれています。

『アンネの日記』に書かれていること

アンネは隠れ家に移った後もずっと日記をつけ続けました。

最初は「自分のため」だけに書いていましたが、1944年3月末頃、アンネはラジオでイギリスに亡命中のオランダ教育大臣のある「呼びかけ」を耳にします。それは戦時下で綴られた日記や手紙を集めて公開するので、保存しておくようにという内容でした。

作家またはジャーナリスト志望だった彼女はこの呼びかけを受け、自分の日記を「後ろの家」というタイトルでまとめることにしました。公開されることを意識して内容を推敲し、登場人物の何人かについてはプライバシーを考え名前を変える等、自分なりに手を加えています。アンネは日記帳だけでなく、ルーズリーフにも大量の文章を残しました。

アンネはこの日記を「キティ」という空想の友人への手紙の形で書いていました。

内容は多岐に及び、隠れ家での苦しい生活やいわゆる少女らしい純粋な部分についてだけ書かれていたわけではありません。母親に対する反発や衝突、同室のプフェファー(日記での記載名はアルベルト・デュッセル)やファン・ペルス夫妻(ファン・ダーン夫妻)との軋轢など、狭い空間での濃密な人間関係と、嫌悪感を赤裸々に吐露しています。

そして13歳から15歳となる思春期の心の揺れ、体の変化や性の目覚め、夢や希望についても正直かつ豊かな表現で書いています。

生理、そして性のめざめ

アンネは“隠れ家”で初潮を迎えました。両親から子ども扱いをされていることに不満をいだいていたアンネは「早く大人になりたい」と思い、生理が来るのを心待ちにし、何度もそのことについて記述しています。

  • 1942年10月3日(土)
「ああ、生理が来るのが待ち遠しい― 生理が来れば大人になれるんですもの!」
  • 1944年1月6日(木)
「私に起きていることはとても素晴らしいことだと思うし、それは体の外側で起きている変化だけでなく、内側で起きている変化も含めてなの。(中略)生理が来るたびに(まだ3回しか来ていないけど)、痛みや不快感や混乱にもかかわらず、私は甘い秘密を抱えているような気がするの。面倒なことではあるけれど、その秘密を自分の中に感じるときを、いつも心待ちにしているわ」

ただ「大人になりたい」と焦るだけではなく、体の変化と心の変化を客観的に見つめ“甘い秘密”という詩的な表現をしたアンネ。こうした表現1つ1つが、この日記をより魅力的にしています。

同じ日(1944年1月6日)、アンネは「性への興味」についてもキティにだけ打ち明けています。

「美術史の本に載っているヴィーナスのような女性のヌードを見るたびに、私は恍惚としてしまうの。あまりの美しさに涙をこらえるのに苦労することもあるほど。ああ、私に恋人がいれば!」

恋愛

「成熟した大人になりたい」「恋人がほしい」と願っていたアンネでしたが、隠れ家で恋に落ちました。相手は同居していたファン・ペルス夫妻の息子ピーター(同居当時15歳、日記での記載名はピーター・ファン・ダーン)です。

同居開始直後こそアンネはピーターのことを「まぬけ」「怠け者」と綴り、興味を持たなかったようです。しかし2年ほどたった頃からピーターの優しさと誠実さに惹かれるようになり、恋心が芽生えます。屋根裏で話す時間を大切にする若い2人に、両親は気づき心配していました。

初めてピーターとキスをした日のことも、日記に綴っています。

  • 1944年4月16日(日)
    「親愛なるキティ、昨日の日付を、忘れないでいてね。私にとって幸せな日だったから。ファーストキスをした日は、すべての女の子にとって大切な日に決まっているわ。だから私にとっても重要な日なの。(中略)どうして突然、キスをすることになったのか、今からあなたに教えてあげるわ」

    そしてその日の夜8時から9時半まで、屋根裏でのデートの一部始終と、そのときのこの上ない幸せな気持ちを書き記しています。

    しかし意外なことに、このキスの後、アンネの気持ちは冷静になっていくのです。ファーストキスの興奮を描いた翌日に、すでに意外な言葉を残しています。

    • 1944年4月17日(月)
    「私を待っている人がいるということは、とても素晴らしいこと。でも…そこには『でも』があるんです」

    アンネは隠れ家生活によって自分について考える時間を長く与えられたことで、人より早く「独立した大人」になったと感じていました。アンネの愛情をまっすぐ求めるピーターに子どもっぽさを感じ、また心配する両親を裏切りたくないと強く思うようになります。

    • 1944年7月8日(土)
      「彼に近づくために私は親密さを利用し、そうすることで友情を排除してしまったのです。彼は愛されることを切望しており、日を追うごとに私を好きになっているのがわかります。一緒にいると、彼は満たされた気持ちになるでしょう。でも私はすべてを始めからやり直したくなるのです」

      「やり直したい」とは、ピーターに対してなかなか辛辣な言葉ですが、14歳の少女が自分の立ち位置を見つめ、必死に考え、そしてこの恋から一歩引こうとしている様子が伺えます。心地よい感情に流されることなく、自分が正しいと思うことを貫こうとする強さが感じられる箇所です。

      希望

      隠れ家にはイギリスからのBBC放送が聞けるラジオがあったため、アンネたちはリアルタイムで戦局を理解していました。また、支援者たちからの情報も入っていました。

      閉じ込められた息苦しい生活でしたが、アンネは何度も「希望」についても書き記しています。

      • 1944年6月6日(火)
      「希望のあるところには命があります。 それは私たちを新鮮な勇気で満たし、私たちを再び強くします」
      • 1944年7月8日(火)
      「あらゆることがあっても、私は今でも人間の心には善意があると信じています。 混乱、悲惨、そして死を基盤にして希望を築くことができません。世界が徐々に荒野に変わっていくのが見えます。私たちをいつか滅ぼすであろう、迫り来る雷鳴が聞こえます。何百万もの人々の苦しみを感じます。それでも、天を見上げればすべてうまくいくと思います。この残虐行為も終わり、再び平和と平穏が戻ってくるはずです」

      日記の最後の日付は1944年8月1日(火)。連行され、「死の旅」に向かうことになる3日前でした。

      アンネたちの暮らしを支えた人たち

      隠れ家の8人は一歩も外に出ることができません。つまり食料や生活必需品は「誰か」の手によって運ばれる必要があります。

      隠れ家はアンネの父オットーの会社「オクタペ」の上階だったため、主な支援者は「オクタペ」の社員4人とその家族でした。会社には不特定多数の人たちがやってきますが、隠れ家があることを誰にも知られてはなりません。

      中でも、物資の調達を担っていたミープ・ヒース(1909~2010年、当時33歳)は、隠れ家に暮らす8人にとって大きな存在でした。

      miep gies holding her book
      Bettmann//Getty Images
      1987年に撮影されたミープ・ヒース。手には自身が執筆した『思い出のアンネ・フランク』が。

      戦争の激化によりどんどん食糧事情が悪くなる中、ミープは8人分の日々の食料を定期的に調達するため奔走します。一気に購入すると「誰かを匿っている」と悟られてしまうため、買い物の仕方も、隠れ家への搬入も細心の注意を払う必要がありました。匿っていることが分かれば、支援者も逮捕され強制収容所送りになります。

      この時代、多くの市民が危険を覚悟でユダヤ人を助けようと動きました。ミープの夫であるヤン・ヒース(1905~1993年)もレジスタンス活動に参加し、ユダヤ人の子どもたちを避難させる活動を秘密裏に行っていました。

      ミープはアンネにとって、恋愛やおしゃれ、また外の生活について話せる唯一の友人でもありました。『アンネの日記』の中にもミープは何度も登場し、その親しさが伺えます。

      隠れ家がナチスに発見され8人が連行されたとき、「オクタペ」の社員であるヨハンネス・クレイマンとヴィクトール・クーフレルの2人も逮捕され、強制収容所送りになりました(2人は後に無事生還)。

      ミープともう一人の社員ベップ・フォスキュイルは何とか逮捕を免れ、10人が連行された後に2人は急いで隠れ家に戻り、アンネの日記や文章を回収しました。そして文章を一切読むことなく、「アンネが帰ってくる日まで」ミープが大事に保管することにしました。

      ホロコーストを唯一生き延びた父オットーは、1945年6月3日にアムステルダムに戻りました。同年7月にベルゲン・ベルセン収容所にいた人から、アンネとマルゴーが助からなかったことを知ります。アンネの死を知り、ミープはアンネの日記をオットーに手渡しました。

      オットーとミープ夫妻の友情はその後も長く続き、帰還後7年間共に暮らしました。

      今だからこそ、『アンネの日記』を読む意味

      ミープからアンネの日記を手渡されたオットーは、アンネの夢をかなえようと日記の出版を決意します。1947年6月25日、『後ろの家』と言うタイトルでオランダのコンタクト社から出版(3000部)されました。これが現在読み継がれている『アンネの日記』の初版です。

      この初版は、家族や知人についての批判、性的な表現や描写、そして存命者のプライバシーを考慮した部分などを削除し編集されたものでした。その後の再編集により、削除部分も記載され、現在書店で販売されている『アンネの日記』は1988年に発見された日記5ページ分も追加された「増補新訂版」です。

      苦しい時代を生きつつも、最後まで希望を持ち続けた少女の言葉は、さまざまなことを私たちに教え、考えさせてくれます。

      ナチスドイツによるユダヤ人の迫害は、人類が決して忘れてはいけない歴史的事実です。しかし世界恐慌を境に急速にナチスドイツが人々に支持された「過去」と、世界中でポピュリズム政党の台頭が見られる「現在」はどこか似ています。

      また、ユダヤ人の歴史をひもとくとき、パレスチナの歴史も避けては通れません。さまざまな国の思惑が入り混じり、たくさんの悲劇が繰り返され、現在のイスラエル・ガザ戦争に繋がっています。

      『アンネの日記』を読むことは、過去と今がどうつながっているのかを考えるきっかけになるはずです。一体なぜ戦争や紛争が起こるのか? 差別が終わらないのか? 今の私たちにできることは? 希望はどこにあるのか? コスモポリタンの読者と一緒に考えていきたいテーマをアンネ・フランクが語りかけています。

      ※本文引用は英語版『The Diary of a Young Girl: The Definitive Edition』(Penguin Classics)を本稿筆者が日本語に訳したものです。括弧内は筆者による補足です。

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      参考文献: