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女性の地位向上の立役者!“世界初”の偉業を成し遂げた女性たち

過去から現在まで…前例が無かった時代に自由にたくましく生きた女性たち20人をご紹介!

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社会、世界、そして人々の生活が変化し現在に至るまでには、多くの女性たちの努力と行動の背景があります。今回は「女性史月間」にちなみ、“世界初”の偉業を成した女性たちを紹介します。
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社会、世界、そして人々の生活が変化し現在に至るまでには、多くの女性たちの努力と行動の背景があります。今回は「女性史月間」にちなみ、“世界初”の偉業を成した女性たちを紹介します。

※「世界初の女性」には「女性として初めて」の場合と「世界初の偉業をなしたのが女性だった」 の2つの意味があります。今回紹介する例のうちの多くの場合が前者です。

「女性史月間」特集ページ

ベティシア・ゴザディーニ(1209~1261)

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世界で最初に大学で教鞭をとった女性

1209年に北イタリアのボローニャで、貴族の家の娘として誕生したベティシア。彼女はボローニャ大学で哲学と法律を学び、1237年に卒業しました。

そして、1239年頃に法学者としてボローニャ大学で講義をするように頼まれます。彼女は最初は講義の依頼を断ったものの、最終的には引き受けたそう。このことから、諸説はあるものの「世界で最初に大学で教鞭をとった女性」と言われています。

ベティシアはよく男装をしていたようですが、これが社会の抑圧(男性社会の中に入っていくため)によるものなのか、本人の性表現や服に対する好みによるものかは不明です。また彼女は名演説家であったとの記録も残っています。

1261年11月2日、別荘滞在時に川の洪水に巻き込まれて死亡。彼女の死去に際し、ボローニャ市は学校を一時閉校にして喪に服しました。

エレナ・コルナロ・ピスコピア(1646~1684)

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DEA / ICAS94//Getty Images

博士号を取得した世界初の女性

1646年6月5日、エレナは、ヴェネツィア共和国(現イタリア・ヴェネツィア)のロレダン宮殿にて、貴族の娘として誕生しました。彼女は7歳からラテン語とギリシャ語等を学び、ヘブライ語、スペイン語、フランス語、アラビア語もマスターしていたと言われています。さらに、哲学・数学・天文学の分野でも才能を発揮し、1672年に名門パドヴァ大学に入学しました。

エレナは最初、神学の博士号取得を目指していました。しかし、パドヴァの司教であったグレゴリオ・バルバリゴ枢機卿は、エレナが女性であることを理由に学位授与を拒否します。その一方で、哲学の博士号を授与することには承諾しました。

学位授与式は1678年6月25日にパドヴァ大聖堂で行われ、これによって、エレナは女性で初めて博士号を取得した人物となりました。その後、彼女は学問と慈善活動に励みましたが、1684年に結核で亡くなりました。

エイダ・ラブレス(1815~1852)

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Hulton Archive//Getty Images

世界初のコンピュータープログラマー

著名な詩人ジョージ・ゴードン・バイロン(第6代バイロン男爵)とその妻アン・イザベラ・ミルバンクの娘として貴族の家に生まれたエイダ。しかし彼女が誕生した4カ月後、両親は離婚。バイロンはイギリスを去り、その後エイダと会うことはなかったそう(バイロン卿は1824年にギリシャで死去)。

教養のあった母は、エイダに数学や論理学を学ぶよう勧めました。その甲斐あって、やがて彼女は数学の才能を開花させます。そして1833年6月、エイダが17歳のとき、「コンピューターの父」と呼ばれるチャールズ・バベッジと知り合います。彼女は、バベッジが設計した解析機関(蒸気機関で動くことを想定した機械式汎用コンピューター。バベッジ生前には実現しませんでした)に特に興味をもっていたと言われています。

1842~ 1843年にかけてエイダはイタリアの数学者でありエンジニアでもあるルイジ・フェデリコ・メナブレアの論文を翻訳します。その注釈(「Notes」)には解析機関用プログラムのコードが書かれており、これによりエイダは「世界初のコンピュータープログラマー」と呼ばれるようになりました。

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ベルタ・フォン・ズットナー(1843~ 1914)

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ullstein bild Dtl.//Getty Images

女性初のノーベル平和賞受賞者

1843年、かつてオーストリア帝国の領土下だったプラハ(現チェコ共和国)で誕生。ベルタは陸軍元帥だった父が75歳のときに授かった子どもであり、父はベルタ誕生の年に死去しています。母方も祖父も騎兵大尉であり、軍人の家系でした。

幼少期に語学と音楽を学んだベルタは、30歳のときに貴族(スットナー家)の娘たちの住み込み家庭教師となりました。1876年、アルフレッド・ノーベルの秘書兼家政婦をごく短期間務めた後、スットナー家のアルトゥール・グンダッカール・フォン・スットナー男爵と結婚。

しかし、この結婚はスットナー家から大反対されたため、若き二人は国外へ転居し、語学や音楽を教えながら暮らすことにします。時が経ち1885年にオーストリアに戻った際には、男爵家に迎えられ、その後ベルタは精力的に執筆活動を行いました。

そして1889年に発表した書籍『武器を捨てよ!』が話題となり、平和運動をけん引する立場に。1891年に「オーストリア平和協会」を立ち上げ、長い間会長を務めました。こうした長年に渡る平和運動への貢献により、1905年に女性で初めてノーベル平和賞を受賞しました。

セルマ・ラーゲルレーヴ(1858~1940)

portrait of swedish novelist selma lagerlof
Bettmann//Getty Images

女性初のノーベル文学賞受賞者

1858年、スウェーデン・ヴェルムランド県・スンネ生まれのセルマ。父は退役軍人であり、大きな農場のある地所(モールバッカ)を所有していました。家庭教師から教育を受けた後、1882年にストックホルムの高等師範学校に入学。その後、スウェーデン南部の町ランズクルーナで、教師として働きながら作家活動を始めました。

セルマの作品は、故郷ヴェルムランド県の民話や伝説、物語に深く根ざしているのが特徴です。『イェスタ・ベルリング物語』が雑誌の懸賞に入選して1891年に出版され、続く第2作『見えざる絆』(1894年)がヒット。1895年から専業作家となりました。

1906年には、教員協会の依頼により「地理の読み物」として執筆した『ニルスのふしぎな旅』(第一部)を出版し、これが世界的ベストセラーに。1909年に女性として初めて、そしてスウェーデン人として初めてノーベル文学賞を受賞しました。セルマはこの賞金を使い、父の破産により売却されていた生まれ故郷の地所を購入し、生涯その地で暮らしました。

マリー・キューリー(1867~1934)

marie curie
Bettmann//Getty Images

世界で初めてノーベル賞を2回受賞した人物

1867年ポーランドの首都ワルシャワで、下級貴族の両親のもとに誕生したマリー。当時のポーランドでは女性が大学へ進学できなかったため、ギムナジウム(中等教育機関)卒業後は、家庭教師をしていました。しかし、24歳のときにチャンスを得てパリに留学。そこで物理学を学び、放射能を研究します。

マリー・キュリーがノーベル賞を受賞した女性であることはよく知られていることですが、彼女にはノーベル賞にまつわる2つの「世界初」のタイトルがあります。1つは“女性初”のノーベル賞受賞者であること。1903年、「ベクレルによって発見された放射現象に関する共同研究」の功績によって、マリー、夫のピエール、アンリ・ベクレルの3人(連名)にノーベル物理学賞が授与されました。

2つ目は、世界で初めてノーベル賞を“2回”受賞した人物となったことです。1911年、「ラジウムおよびポロニウムの発見と、ラジウムの性質およびその化合物の研究」でノーベル化学賞を授与されました。これは彼女の単独受賞です。現在に至るまで、ノーベル賞を2回受賞した人はたった4人しか存在していません。

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ヘレナ・ルビンスタイン(1872~1965)

helena rubinstein
Bettmann//Getty Images

世界初の美容サロンを開店

かつてヨーロッパに存在していたオーストリア=ハンガリー帝国のクラクフ(現ポーランド南部)のユダヤ人ゲットーで誕生したヘレナ。彼女は、18歳のときにオーストラリアに移住します。

1900年、ヘレナは自身が作り上げた美容クリーム「ヴァレーズ」の販売をはじめます。1902年に自身の美容ブランドを立ち上げ、メルボルンに世界初の美容サロンを開店。その後、ロンドンやパリにもサロンを開きます。

1914年にヘレナはアメリカ・ニューヨークに移住し、1915年には世界初となるブランド化粧品のデパート販売を開始。以後さまざまな“世界初”のメイクアイテムを生み出しました。彼女が立ち上げたブランド「ヘレナ・ルビンスタイン」は、現在も世界中の人たちから愛されています。

アリス・ギイ(1873~1968)

alice guy blache portrait
Donaldson Collection//Getty Images

世界初の女性映画監督

1873年にフランス・パリ郊外で誕生。一家はもともと南米チリに在住していたため、アリスの誕生後、両親はチリに帰国します。しばらくスイスの祖母に育てられた後に一度チリに帰国(3~4歳ごろ)。再びフランスに戻り(6歳ごろ)、寄宿学校で教育を受けました。

速記とタイピングを学んだアリスは、1894年、21歳のとき写真会社「コントワール・ジェネラル・ド・フォトグラフィー」に雇用され、社長代理のレオン・ゴーモンの秘書になりました。その後同社は映画会社(ゴーモン社)へと成長。アリスは、実写映画を製作していた会社に自らを売り込み、1896年に『キャベツ畑の妖精』を監督しました。この作品により「女性で初めて映画を監督した人物」となったのです。

その後はゴーモン社の製作責任者を務め、夫のハーバートと共に渡米。アメリカで映画製作会社「ソラックス」を設立しました。そこで数多くの作品を監督したことに加え、製作者や脚本家としても様々な作品を世に送り出しました。しかし、夫との不仲やスタジオの破産の背景もあり、1920年の『さまよえる魂』を最後に映画製作をやめてしまいました。

映画界を去ってからは、娘と共にフランス、スイス、ベルギー、アメリカと転居を繰り返し、戦争の時代を生き抜いたものの、彼女が映画界に戻ってくることはありませんでした。

リリアン・ブランド(1878~1971)

世界で初めて飛行機を設計・製作・飛行した人物

イギリス・ケント州生まれ。報道ジャーナリスト&カメラマンとして活動していたリリアンは、タバコを吸い、ズボンとダンガリーシャツを着用、自転車に乗り、柔術を教え、自動車販売店を経営するなど、当時としては珍しく、大変自由かつ開放的な生き方をしていた女性でした。

そんな彼女は、フランス製の初期の飛行機「ブレリオ XI」の絵ハガキを見たことで飛行に興味をもちます。そして1910年8月、リリアンは女性として初めて、また、おそらく世界で初めて、自分で飛行機を設計・製作し、北アイルランドの上空で飛ばした人物として歴史に名を残しました。

北アイルランド・アントリム州にあるシェーンズ城の敷地内を自作の飛行機「The Mayfly(カゲロウ)」で飛行し、初めての飛行の距離は約400メートルだったと言われています。

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エレノア・ルーズベルト(1884~1962)

eleanor roosevelt writing
Bettmann//Getty Images

国際連合人権委員会・初代委員長

父・エリオット(第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの実弟)と母・アナ・ホールのもと、名家の令嬢としてニューヨークで誕生したエレノア。しかし、両親は若くしてこの世を去り、エレノアは母方の祖母が暮らすイギリス・ロンドンに渡り教育を受けました。

彼女は、1905年に父方の遠縁にあたるフランクリン・ルーズベルトと結婚し、6人の子供をもうけました。そして、夫の政界入りに伴い、エレノアも社会的活動を開始。1933年にフランクリンは第32代大統領に就任します。

1945年4月に夫が死去し、その後は静かに暮らすつもりだったと言われています。しかし、トルーマン大統領から国際連合の第1回総会代表団に指名され、1946年に設置された国連人権委員会・初代委員長に就任しました。彼女は人権擁護活動に熱心に取り組み、女性の権利獲得の推進にも貢献しました。

マーガレット・バーク=ホワイト(1904~1971)

portrait of margaret bourke white
Bettmann//Getty Images

<ライフ誌>の女性初の専属フォトグラファ―

マーガレットは、発明家でアマチュア写真家の父・ジョセフと自転車競技選手だった母・ミニーの娘として、1904年にアメリカ・ニューヨーク(ブロンクス)で誕生しました。彼女は幼少期から、父の影響で写真に興味をもっていました。

さまざまな大学を転々とした後、1927年にコーネル大学を卒業(文学士)。1928年にニューヨーク州からオハイオ州クリーブランドに転居し、建築物と工業写真を専門とする商業写真スタジオを立ち上げました。そこで徐々に名声を高め、1936年に<ライフ誌>の女性初の専属フォトグラファ―に抜擢されます。

そして第二次大戦が始まると、彼女は戦場カメラマンとして戦場に派遣されました。ドイツ軍のモスクワ侵攻を写真に収め、1942年には女性で初めて空軍の爆撃任務に同行するなど、スクープ写真を撮影しました。

終戦後もガンジーのインド独立への戦いや朝鮮戦争などを撮影するため世界中を渡り歩いてきました。しかしパーキンソン病を発症し、1971年8月27日にコネチカット州の自宅でこの世を去りました。

ジャクリーン・コクラン(1906~1980)

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Bettmann//Getty Images

超音波の壁を越えた世界初の女性

アメリカ・フロリダ州生まれ。1920年(13~14歳)に最初の結婚をしたものの、1925年、息子が5歳で死亡。夫と離婚しニューヨークに転居、美容サロンに勤務します。その後、ハリウッドの実業家の支援を受け、化粧品ビジネスを立ち上げて成功をおさめました。

そんなジャクリーンですが、1930年代に飛行機に魅せられ、飛行訓練を開始します。長距離航空レースに出場し、女性として初めて大西洋単独横断飛行を成功させたアメリア・イアハートと並んで、「飛行」を女性に向けて開放した人物の一人となりました。

彼女は企業家として成功していましたが、1948年9月、アメリカ空軍予備役に中佐として入隊。そして1953年5月、48歳のときにカリフォルニア州(ロジャース・ドライ・レイク)でF-86セイバー(戦闘機)を操縦し、時速1,050.15 キロの新記録を達成。女性で初めて「音速の壁」を破った人物となりました。

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アロハ・ワンダーウェル(1906~1996)

portrait of aloha wanderwell
Bettmann//Getty Images

世界で初めて車で世界旅行をした女性

彼女は1906年、イドリス・ガルシア・ウェリッシュ(誕生名)としてカナダ・マニトバ州ウィニペグで生まれました。そして軍人だった義父の仕事の関係で、少女時代の多くをヨーロッパで過ごしました。

1922年10月13日、イドリスは「頭脳と美貌とズボン:幸運な若い女性にワールドツアーのオファー」という募集広告に応募にします。これはフォード社製の自動車「フォード・モデルT」で世界を旅し、道中を撮影する企画でした。この広告を出したのはウォールター・ワンダーウェル(ニックネームは「キャプテン」)。イドリスはこれに合格し、「アロハ・ワンダーウェル」の名前で冒険旅行のチームに加わりました。

そして1922年12月、まだ16歳になったばかりの彼女は、ワンダーウェル冒険隊と共にフランス・ニースを出発。1927年までドライバー、通訳者、映像製作者として世界一周の自動車旅行をしました。彼女たちがこの旅で訪れた国の数は43カ国にのぼると言われています。

シリマヴォ・バンダラナイケ(1916~2000)

sirimavo ratwatte dias bandaranaike
Pictures from History//Getty Images

世界初の女性首相

1916年、セイロン(現スリランカ)の裕福な家庭に生まれたシリマヴォ。1940年に政治家のソロモン・バンダラナイケと結婚し、社会福祉に興味を持つようになります。

そんな中、当時首相を務めていた夫が、1959年に暗殺されます。シリマヴォは夫が立ち上げたスリランカ自由党(SLFP)に誘われ、党首に就任。1960年7月の総選挙で圧勝し、首相に就任しました。こうして世界初の女性首相が誕生したのです。

その後、野党に下落したり政治的権利をはく奪されたりした時期があったものの、合計で3期(1960年~1965年、1970年~1977年、1994年~2000年)首相を務めました。

ジェリー・モック(1925~2014)

aviatrix jerrie mock holding flowers
Bettmann//Getty Images

世界一周飛行を成功させた初めての女性

1925年、アメリカ・オハイオ州ニューアークでドイツ系の両親のもとに誕生しました。5歳(または7歳)のとき、父とフォード・トライモーター機のコックピットに入って飛行した経験から「飛行」に夢中に。そして、オハイオ州立大学で航空工学を勉強する最初の女性になりました(しかし結婚を機に中退)。

実際に彼女が飛行を始めたのは1958年、32歳のとき。夫と共にアメリカ国内を飛行していましたが、やがて「世界を見てみたい」と思うようになります。そして、地元新聞社から資金を得て世界一周単独飛行を計画。1964年3月19日、オハイオ州ポート・コロンバス空港を飛び立ち、4月17日に同空港に帰還しました。

29日間で全22,860マイル(約36.790キロ、21回の途中降機)、アメリカ領以外の11カ国を訪れる飛行に成功。女性で初めて世界一周飛行を成し遂げました。

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ヴィグディス・フィンボガドゥティル(1930~)

queen elizabeth ii visits iceland
John Shelley Collection/Avalon//Getty Images

世界初の民選による女性大統領

1930年、アイスランド王国(現アイスランド)の首都レイキャビクで誕生。グルノーブル大学、パリ第4大学、アイスランド大学で演劇と文学を学びました。1954年から演劇活動を開始し、1972年にレイキャビク劇団の芸術監督に就任(1980年まで)。1968年にフランス語を教えるテレビ番組への出演をきっかけに世間的に知られるようになりました。

その後、1980年にアイスランド大統領選の候補者に抜擢されました。アイスランドでは「大統領」には政治権力はなく、儀礼的な職務の位置づけです。しかし、当時盛り上がっていたアイスランドの女性運動を後押しするうえで、「女性大統領」の誕生は大きな意味があったと言われています。男性候補3人を破り、同年8月1日に大統領に就任。民選(国民による直接選挙)によって選ばれた初の女性大統領となりました。

以後3回再選を果たし、アイスランド史上もっとも長く大統領を務めた人物にもなりました。

ワレンチナ・テレシコワ(1937~)

valentina tereshkova
Evening Standard//Getty Images

世界初の女性宇宙飛行士

ソビエト連邦ヤロスラヴリ州マスレンニコフ(現ロシア西部)で誕生したワレンチナ。彼女は学業を終えた後、繊維工場に勤務し、アマチュアのスカイダイバーとしても活動していました。

その後、ソ連宇宙飛行士部隊の一員として空軍に入隊。1962年、女性宇宙飛行士候補(400人を超える候補の中から選抜された5人のうちの1人)となります。そして1963年6月16日、ボストーク6号に単独搭乗し、70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行いました。ワレンチナはこの飛行の成功により、世界初の女性宇宙飛行士となりました。

宇宙飛行後は、政治の世界に身を置き、1974~1989年ソビエト連邦最高会議(立法・行政など幅広い権力を有するソ連の最高国家権力機関)のメンバーとなりました。さらに、1974~1989年にはソビエト連邦最高会議幹部会にも選出され、ソ連政治の中枢で活動を続けました。

比較的最近の話では、2011年のロシア下院選挙に出馬して当選。久々に政界に復帰したことで話題になりました。

田部井淳子(1939~2016)

junko tabei
Keystone//Getty Images

世界で初めてエベレスト登頂に成功した女性

1939年(昭和14年)、福島県田村郡三春町生まれ。小学正の時に茶臼岳(栃木県那須町)に登ったことがきっかけで、登山に夢中に。大学卒業後は日本物理学会にて学会誌の編集の仕事をし、山岳会に所属して登山活動をしていました。

1969年、「女子だけで海外遠征を」を合言葉に女子登攀(とうはん)クラブを設立。1975年には、エベレスト日本女子登山隊・副隊長兼登攀隊長として、 世界最高峰エベレスト(チョモランマ)の登頂に成功。これは女性として初の快挙でした。そして、1992年に女性初の7大陸最高峰登頂者となりました。

彼女は、エベレスト登頂後は、登山に際してスポンサーをつけなかったことでも知られています。生涯登山家として活動しつづけましたが、2016年に腹膜ガンのためこの世を去りました。

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ベーナズィール・ブットー(1953~ 2007)

benazir bhutto
Robert Nickelsberg//Getty Images

イスラム圏初の女性首相

政治家の父・ズルフィカール・アリー・ブットー(政治家、後に首相)とクルド人の血を引く裕福な家庭出身の母・ヌストラ・ブットーのもと、パキスタンの首都カラチで誕生。

ハーバード大学とオックスフォード大学で学んだ後、1977年にパキスタンに帰国。しかし、大統領と首相を歴任した父が1977年の軍部クーデターにより投獄、処刑され、その間自宅軟禁を強いられることになります。

その後、1984年に渡航許可がでたことでイギリスに亡命し、亡命先で父が立ち上げたパキスタン人民党 (PPP)の党首に就任しました。1988年の選挙でPPPが与党となり、1988年12月2日、イスラム国家における初女性首相、また最年少首相(35歳)として第12代パキスタン首相となりました。

しかし首相就任から2年弱、1990年8月に汚職告発をされ解任されてしまいます。1993年10月に再度首相に返り咲きましたが、1996年11月5日に解任。その後はしばらく、ドバイで子どもたちと暮らし(当時夫は投獄中)、世界中で講演活動を行いました。

政界へ戻るため2007年10月に帰国しましたが、イスラム原理主義者による自爆テロにより同年12月27日に暗殺されました。

ジャシンダ・アーダーン(1980~)

finland's pm marin meets nz's pm ardern
Dave Rowland//Getty Images

世界で初めて在任中に産休を取った首相

1980年、ニュージーランド・ハミルトン生まれ。10代から政治に関心をもち、労働党に入党。大学卒業後は政治家の事務所でインターンをした後、2006年にイギリス・ロンドンでトニー・ブレア首相(当時)下の内閣府に勤務します。

そして2008年のニュージーランド総選挙に立候補し、初当選を果たしました。2017年には労働党委員長に就任。同年9月の総選挙で労働党とニュージーランド・ファースト党との連立政権が発足し、ジャシンダはニュージーランド史上最年少の37歳3カ月で首相(女性としては3人目)に就任しました。

在任中の2018年1月に妊娠を発表し、同年6月に第一子を出産。世界で初めて産休(6週間)を取った首相としても話題になりました。しかし、今年1月に首相辞任を発表(国会議員は継続)。このニュースは世界中に衝撃を与えました。


「ジェンダー平等」と「多様性」が重要視される現在。ジェンダー格差がなくなり、“女性による初めての偉業”ということだけが強調されないような時代がくることを願っています。

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