ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める偉人伝をお届け!


特にミステリーファンでなくても、「アガサ・クリスティ」という名前は知っているはず。上質な作品を数多く執筆した名実ともに、「ミステリー界の女王」--彼女からこの座を奪い取る存在はそう簡単には現れないでしょう。

どの書店でも作品を探すことができる数少ない作家の一人であり、また作品の多くが映像化されています。

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映画『ナイル殺人事件』本予告【愛の数だけ、秘密がある編】2月25日(金)映画館で公開
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▲ 2022年2月25日に日本公開された映画『ナイル殺人事件』(2022年)は、アガサ・クリスティの名作『ナイルに死す』を映像化したもの。映画化は1978年に続き2度目。

多作の作家として知られ、複雑な人間関係やトリック、ユニークなキャラクターで彩られた作品は何度読み返しても飽きることがありません。

たくさんの事件とトリックを生み出した彼女ですが、実は彼女自身も作品さながらの「失踪事件」を起こしています。

そんな謎めいたエピソードを持つ作家アガサ・クリスティ(1890~1976年)。本稿では、これから彼女の作品に触れる人はもちろんのこと、すでにファンの人にとっても「知っておくとより作品を楽しめるポイント」を紹介します。

意外!? 初出版までの長い道のり

1890年9月15日、アガサ(誕生名は「アガサ・メアリー・クラリッサ・ミラー」)は“ジェントリ”と呼ばれる裕福な家庭の第三子(次女)としてイギリス南東部の海辺の町、トーキーで誕生しました。

短い期間学校に通ったことがあるものの、ほとんどの教育を自宅で受けた彼女。5歳で読み書きをおぼえ、読書が大好きな子どもでした。

15歳のときにピアニストになるためにパリの寄宿学校で学んだものの、恥ずかしがり屋な性格からピアニストになることを断念。イギリスに戻ります。

彼女が初めて短い物語を綴ったのは18歳のときでした。その後小説『Snow Upon the Desert』を執筆したアガサは、何とかこの作品を出版しようと試みます。6社に原稿を送りましたが一社からも採用されず。落胆した彼女でしたが、作家である知人の勧めもあり筆を折らずに済みました。

1912年10月、22歳のとき最初の夫となる陸軍航空隊員のアーチボルト(“アーチー”)・クリスティと出会いました。第一次世界大戦が勃発した1914年のクリスマスに二人は結婚。

アーチーはフランスに出征し、アガサは赤十字病院の救急看護奉仕隊に入隊。看護師および薬の調剤師として働きました。この調剤師としての経験は、アガサにとって薬(毒薬)の知識を得る貴重な機会となり、後に小説の「毒殺トリック」に活かされることになります。

アガサは第一次世界大戦中の1916年に探偵小説『スタイルズ荘の怪事件』を書きあげます。彼女の探偵小説のメインキャラクターの一人である「エルキュール・ポアロ」はこの小説で誕生しました。

しかしこの作品もなかなか出版できませんでした。数社から断られた後、4年後の1920年にやっと出版にこぎつけ、小説家デビューを飾ったのです。

彼女がミステリー作家としての道を歩み始めたのは、30歳。後に大作家になる彼女ですが、最初の出版までにはこんな長い道のりがありました。

謎の多い「11日間失踪事件」

第一次世界大戦が終わり1918年にアーチーがフランスから帰還。空軍を退役し、ロンドンの金融街で働き始めます。1919年に長女ロザリンドを出産し、アガサは幸せな家庭生活を数年送りました。

1922年に二冊目『秘密機関』、1923年に三冊目『ゴルフ場殺人事件』を出版し、安定した人気を獲得します。

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▲ 1922年、アガサとアーチーは大英博覧会の宣伝ツアーに参加し、10カ月間世界を旅しました。

しかし1925年ごろから、アガサとアーチーの関係に亀裂が出始めました。アーチーは夫婦共通の知り合いの女性、ナンシー・ニールと親密な関係に。1926年8月ごろ、アーチーはアガサに離婚を切り出しましたが、アガサは何とか離婚を避けたかったと言われています。

そんなある日、事件が起こりました。1926年12月3日(金)、二人は週末の過ごし方を巡って口論となりました。その晩、アガサはロザリンドをメイドに任せ、ロンドン郊外・サニングデールにある自宅から姿を消してしまったのです。

翌朝、自宅から数キロ先の場所に彼女の車が放置されていることが発覚。車の中には車の免許書と衣服数点が残されていました。

「事件?」「事故?」「自殺?」--警察が出動するとともに、マスコミは有名作家の蒸発を派手に書き立て、アガサ発見に懸賞金をかけた新聞社もありました。

時の内務大臣が警察にプレッシャーを掛け、また『シャーロック・ホームズ』シリーズの作者コナン・ドイルに至っては、失踪現場に残っていたアガサの手袋を使用して、霊媒師にアガサを探させたほどでした。

agatha in disguise
Hulton Archive//Getty Images
アガサの変装している予想写真を掲載した新聞。

アガサが発見されたのは11日後のことでした。彼女は自宅から約300キロも離れた北イングランドの町ハロゲートにあるスパホテル「スワン・ハイドロ・ホテル」に、「南アフリカ・ケープタウン出身のテレサ・ニール(※ニールはアーチーの愛人の姓)」として滞在していたのです。

わざわざ愛人の姓を使ってチェックインするのも奇妙な点の一つですが、「作家のアガサ・クリスティかも」と気づいたホテルスタッフが警察に通報したことで、発見に繋がりました。

この失踪劇は現在も多くの点が謎のままです。自宅近くの田舎道で車を乗り捨てた後、“どうにかして”ロンドン・キングスクロス駅に行き、そこから電車に乗ってハロゲートにたどり着いたことはわかっています。

しかし、「どうやってキングスクロス駅まで行ったのか?」は不明のまま。また発見された後、迎えにきたアーチーを見ても誰かわからず、自分が誰なのかもよくわからないそぶりを見せ、記憶喪失に陥っている症状がみられたとも言われています。

失踪が計画的にされたものなのか(夫に殺人の嫌疑をかけるため?)、何らかの理由で本当に前後不覚のまま電車に乗ったのかなど、様々な憶測がされたものの、アガサはこの失踪事件について家族や友人にさえ話すことはありませんでした。

この事件の後、アガサとアーチーはよりを戻すことなく、二人の離婚は1928年10月(アガサ38歳のとき)に成立。しかしアーチーと離婚後も、仕事上では“クリスティ”の名前を使い続けました。

「エルキュール・ポワロ」と「ミス・マープル」、2人の名探偵

アガサの作品には何人もの名探偵が登場します。職業探偵であったり素人であったりキャラクターは様々ですが、特に下記に紹介する二人の探偵が登場する作品は多く、また映像化されていることも手伝い、絶大な人気を誇っています。

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エルキュール・ポワロ

長編33作、短編には50作以上に登場する、アガサ作品を代表する名探偵です。

  • キャラクター設定
    身長約162センチ、頭は卵型。立派な口ひげをたくわえ、エレガントな服装が特徴。「小さな灰色の脳細胞(←ポワロの口癖)」を全活用して謎を解く優秀な探偵。第一次世界大戦中に難民としてイギリスにやってきたベルギー人。

名探偵ポワロの登場する作品の多くが映像化され、何人もの俳優がポワロを演じてきました。しかし「ポワロ」と聞いて多くの人が思い出すのは、24年に渡りテレビシリーズの主演を務めたイギリスの名優、デヴィッド・スーシェでしょう。彼が出演したテレビシリーズは日本でも何度も再放送され、今も衰えることなく人気です。

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号泣必至!放送25年に幕を下ろす名探偵ポワロの決断
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▲ 2013年、第13シリーズで完結したテレビドラマ版『名探偵ポワロ』。

また映画版では『オリエント急行殺人事件』(2017年)、『ナイル殺人事件』(2022年)の近作2作でポワロ役を務めたケネス・ブラナーも好評です。スーシェとは異なる新しいポワロ像がこれから定着していくかもしれません。

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映画『オリエント急行殺人事件』予告B
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▲ ケネス・ブラナーが初めてポワロ役を演じた『オリエント急行殺人事件』。豪華なセットや衣装も見ものです。

ミス・マープル

長編12作、短編には多数登場しているキャラクター。職業探偵ではなく素人ですが、難事件を次々に解決する「類まれなる洞察力を持つ老人女性」として描かれています。

  • キャラクター設定
    セント・メアリー・ミード村に住む、社交的でおしゃべり好きの聡明な老女。若いときに両親に結婚を反対されたことから、生涯独身を貫いています。前警視総監をはじめとする様々な人たちが集まり、昔の事件を推理する「火曜クラブ」に場所を提供したことから、推理の才能を開花させました。
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▲ BBCで1984~1992年に放送された『ミス・マープル』シリーズに主演したジョーン・ヒクソン。イギリスでは「ミス・マープル」というと、彼女のイメージが一番強いです。
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▲ イギリス民放テレビ局最大手のITVが2004~2013年まで、7シーズン制作。1~3シーズンまではミス・マープル役をジェラルディン・マクイーワン(左)が演じました。
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▲ ITV制作版の4~7シーズンでマープル役を務めたのは、ジュリア・マッケンジー(左)。

考古学者と2度目の結婚、旅と創作、そして晩年

アーチーとの離婚を決めた後、しばらくはふさぎこんでいたアガサ。しかし1928年秋、新しい人生のスタートを切るため、オリエント急行に乗りイスタンブールからバグダッドまで旅をしました。

このときで出会ったある夫妻に誘われ、1930年、再びアガサは中近東を訪れます。この旅で二番目の夫となる考古学者、マックス・マローワンと出会いました。13歳年下のマックスとアガサはすぐに恋におち、同年9月にイギリス(エジンバラ)で結婚。以来、アガサとマックスはイギリスと中近東を行き来して過ごしました。

彼女の旅の経験は『オリエント急行殺人事件』や中近東三部作(『メソポタミヤの殺人』『ナイルに死す』『死の約束』)に活かされました。

50代以降は仕事のペースを緩めましたが、最晩年まで執筆を続けました。1971年ごろから体調を崩しがちとなり、1976年1月12日、85歳で死去しました。


これからも彼女の作品は世界中で読み継がれ、また映像作品も製作されるでしょう。本が先でも映像が先でも、一度彼女の世界に触れるとなぜアガサ作品がこんなにも愛されているのか、その魅力がわかるはず。

そして彼女の作品を知れば知るほど、たった一人でこれだけの作品を生み出した計り知れない才能に驚くでしょう。

参考文献・資料

  • 『Agatha Christie: A biography』 (HarperCollins) Janet Morgan (Author), Agatha Christie (Contributor)
  • 『An Autobiography』(HarperCollins) Agatha Christie
  • 『Agatha Christie: A Mysterious Life』(Headline Review)Laura Thompson
  • 『The Life and Crimes of Agatha Christie: A Biographical Companion to the Works of Agatha Christie』(HarperCollins)  Charles Osborne
  • Agatha Christie Limited>公式サイト
  • The Guardian>その他、多数。