ロンドン在住ライター・宮田華子による連載「知ったかぶりできる! コスモ・偉人伝」。
名前は聞いたことがあるけれど、「何した人だっけ?」的な偉人・有名人はたくさんいるもの。知ったかぶりできる程度に「スゴイ人」の偉業をピンポイントで紹介しつつ、ぐりぐりツッコミ&切り込みます。気軽にゆるく読める、社会派の偉人伝をお届け!
今回取り上げるのはマハトマ・ガンジー(1869~1948年)。歴史の教科書でおなじみの偉人です。
“インド”という国について問われたら、「カレーの国」「IT産業の国」「数学教育がスゴイ」「人口が多い」「ヒンドゥー教徒が多い」など、さまざまなイメージが沸くはずです。しかし「著名なインド人と言えば誰?」と聞かれた場合、即答できるのは“ガンジー”ただ一人、という人は多いかもしれません。
では「ガンジーって一体何をした人なの?」「何でこんなに有名なの?」について、インドの歩んだ道のりと共に、分かりやすく解説したいと思います。
インドを独立に導いた人
マハトマ・ガンジーという人物を端的に紹介すると、この一言に尽きるのです。
少しインドの歴史をひも解くと、19世紀中盤、イギリス東インド会社がインドを実質支配していました。これに反抗するインド人たちが「インド大反乱(1857~1859年)」を起こしたため、イギリスは東インド会社を解散。イギリス政府がインドを直接統治し、事実上の植民地としました。
この時代(1858~1947年)のインドは「インド帝国(Indian Empire)」または「イギリス領インド帝国」と呼ばれ、インド皇帝はイギリス君主が務めていました。
1914年、第一次大戦が開戦。イギリスは「戦争終結後、インドに自治権を与える」ことを約束し、インドに戦争協力を求めました。しかしイギリスは戦後、約束を果たさなかっただけでなく、厳しい治安維持法である「ローラット法」を制定し、インドにおける言論や政治活動の自由を奪いました。
この裏切りに、インド民衆は大激怒。抗議のために立ち上がります。この運動をリードしたのがガンジーです。
ガンジーはインドの代表的政党「国民会議」をまとめ、ジャワハルラール・ネルー(後のインド初代首相)らと独立運動をけん引します。このときガンジーが民衆に訴えたのが「非暴力、不服従」。
「非暴力、不服従」とは、イギリス軍や警察から殴られても、打たれても、銃撃されても、決して暴力で対抗しないという厳しい方法です。多くの人が血を流し、命を落とすことになる忍耐が問われる方法でした。
「糸車をまわす」写真の意味
しかし暴力で抵抗しないものの、インド民衆が何もしなかったのではありません。「不服従」という方法でイギリスに抵抗しました。
たとえば、ガンジーが紹介されるとき、以下の糸車の写真がよく使われます。
植民地時代以前、インドでは綿布の生産が盛んでした。綿花を育てて糸を紡ぎ、手織りした綿布をイギリスに輸出していたのです。
しかし植民地時代になると、インドは原料である綿花だけをイギリスに輸出し、イギリスの工場で作られた綿布を逆に輸入するようになります。産業革命によりイギリスの紡績産業が盛んになり、インドは安価な原料の仕入れ先になってしまったのです。
これによりインドの綿織物産業は衰退し、貧困化が進みました。
そこでガンジーは失われた綿織物産業をインドに取り戻すため、イギリス産綿布製品をボイコットし、インドの家内制手工業による綿織物を取り戻そうと呼びかけました。その象徴となるのが、この「糸車をまわすガンジーの写真」なのです。
この運動(第一次不服従運動、1919~1922年)により、ガンジーは何度も逮捕され、懲役刑も受けています。
1922年2月5日、チョウリ=チョウラ村で警官の発砲に激怒したインド民衆が、警官22名を焼死させる事件が勃発したため、第一次不服従運動は中止されます。しかし、1930年に運動は再開。この第二次不服従運動でもっとも有名なのは「塩の行進」と呼ばれるものです。
歩いて訴えた「塩の行進」
イギリスは、インド支配の大きな収入源である塩を専売制としていました。つまり生きるために必要な塩を、イギリスの許可なく生産販売すると罪になってしまうのです。ガンジーは専売制の改正・自由化を求めたものの、インド提督であるアーウィン卿エドワード・ウッドに無視されました。
そこでガンジーと78人の支持者たちは、「行進」で訴えることを決意。1930年3月12日、グジャラート州アフマダーバードを出発し、ダンディー海岸まで約386キロの道のりを23日間かけて歩きました。この模様はイギリスや国内外の記者たちによって、大きく報道されました。
4月6日の朝、ダンディー海岸に到着したガンジー。塩を含んだ泥の塊を握った手に掲げ、「これで、大英帝国の基礎を揺るがすのです!」と宣言し、海水を煮詰め始めました。(違法である)塩作りを自ら行い、人々にも同じようにするよう促したのです。
この塩の行進は民衆に大きく支持されました。ガンジーは1930年5月4日に逮捕されたものの(翌1931年1月26日に釈放)、インド独立へ向けて人々の心を掴んだ出来事でした。
ガンジーの原点とは?南アフリカ時代の経験
“マハトマ”・ガンジーと呼ばれるガンジーですが、“マハトマ”は彼の誕生名ではなく(誕生名は「モハンダス・カラムチャンド・ガンジー」)、「偉大な魂」という意味の言葉です。彼の行動を讃え、後年このように呼ばれるようになりました。
こんな“偉大な人”ガンジーですが、子ども時代や青年期は「割と普通」だったようです。ポルバンダル藩王国(藩王国=インド帝国内で自治権を認められた領地)首相の息子として生まれたのでそこそこお坊ちゃまではあったものの、特に優秀だったわけではなかったようです。大学を中退したガンジーに、一家の友人がロンドンで法律を学ぶことを勧めます。
すでに結婚し、父となっていたガンジー(後述参照)でしたが、家族をインドに残しロンドン行きを決意。1888年9月4日、18歳のガンジーはボンベイから船でイギリスに向かいました。
ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL、ロンドン大学構成カレッジの一つ)で法律を学び、1891年、イギリスの法廷弁護士の資格を取得しました。その後一度インドに帰国し、ボンベイで法律事務所開設しようとしましたが失敗(自分の依頼人に対しても公正な姿勢を貫いたため、証人への反対尋問が難しかったのが理由と言われています)。
いとこの誘いにより、1883年4月、イギリス領だった南アフリカに家族と共に移住。同地で21年弁護士として働きました。
南アフリカ時代の初期、ガンジーは「イギリス紳士」として振る舞おうと努めます。しかし有色人種であるガンジーは、アパルトヘイト下の南アフリカで差別を受けました。その一つ、1893年5月31日に起ったある事件は、繰り返し語られている有名な出来事です。
この日、ガンジーは列車で移動中でした。一等席の切符を持っていたにもかかわらず、肌の色を理由に車掌から三等席への移動を命じられます。ガンジーは毅然と拒否しますが、車掌は彼を列車から放りだしました。
こうした経験が積み重なり、ガンジーは「自分はインド人である」と強く自覚するように。そして南アフリカ時代に差別撤廃運動を始め、同国で初めての逮捕も経験。その後1915年にインドに帰国し、本格的に独立運動をけん引しました。
13歳で結婚。禁欲主義と「意外な噂」
ガンジーは、当時のインドにおける幼児婚の慣習により、13歳のときに妻カストゥルバ(1869~1944年)と結婚。16歳のとき第一子(数日で死亡)が誕生し、18歳でロンドンに留学する前にすでに二児の父でした。
16歳のときガンジーの父が死去しましたが、臨終時にガンジーは妻と性行為中であったため、死に目に会うことができず、この出来事は大きな後悔として心に残りました。また青年期に性欲や嫉妬心にさいなまれた経験から、36歳のときに禁欲主義を貫くこと(ブラフマチャリヤの実験)を決意。結婚生活を維持しながら、一切の性生活を放棄しました。
そんなガンジーですが…晩年に「女性たちとベッドを共にしていた」という噂があります。女性たちは裸の場合もあったと、弟子や当事者の本人(女性)が証言もしています。
この件は現代に至るまで批判的に受け取られることも多いですが、ガンジーがこの点を隠していたわけではありません。ガンジーの意外な一面ではありますが、彼なりの「ブラフマチャリヤの実験」の一つという分析もされています。
インドは独立したものの…暗殺まで。
1945年8月15日に第二次世界大戦が終結。インド独立の機運がさらに高まりましたが、インドが抱える「宗教間の対立」はなかなか解決できない問題でした。ヒンズー教徒が大多数を占めていたもののイスラム教徒も約1/4程度を占め、2つの宗教信徒間の対立はとても激しかったからです。
ガンジーが願ったのはあくまで「統一インド」としても独立であり、イギリス側もインドを二分割しない方法を探りました。しかし結局、イギリス領インドの最後の総督であったルイス・マウントバッテンは「統一インド」を断念。1947年6月4日、インド帝国を「インド」と「パキスタン」に分割して独立させることを発表しました。
これにより、国内は混乱。インド側とされる地域のイスラム教徒はパキスタン側へ、またパキスタン側のヒンズー教徒はインド側へと移動しなくてはならず、多くの難民を生み、対立もより激しくなりました。痛みを伴った上で、1947年8月14日にパキスタンが独立。翌8月15日にインドが独立しました。
あくまで融和政策を進めようとしたガンジーは、「イスラム教の味方をしすぎる」とヒンズー・ナショナリストやヒンズー教原理主義者から、深い恨みを買っていました。独立直後の1947年10月には、第一次印パ戦争が勃発。
そんな混乱の中、1948年1月30日、ガンジーはニューデリー滞在中に、ヒンズー教原理主義者であるナトラム・ゴドセによって暗殺されました。
インドは独立したものの、「宗教・民族の垣根を超え、一つの国としての独立」は叶いませんでした。ある意味“道半ば”でこの世を去ったガンジー。彼の運動をどうとらえるのかは置かれた立場や主義で異なるかもしれません。しかし「平等」と「人権」を旨とする志、そして「非暴力」という勇気ある戦い方は多くの人々の胸に深く刻まれました。
そして、マーティン・ルーサー・キング牧師やネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領など、多くの指導者たちにがガンジーの影響を受けたと言われています。
ガンジーの人生をもう少し知りたい方は、1982年公開の映画『ガンジー』もぜひ見てみてください。
巨匠リチャード・アッテンボロー監督が、3時間8分かけてガンジーの生涯を描いた超大作です。ガンジーを演じたベン・キングスレーの「そっくりぶり」にもぜひご期待ください。
参考文献
- <Gandhi Ashram in Sabarmati>
- 『An Autobiography: The Story of My Experiments with Truth』(Penguin) Mahatma Gandhi著
- 『The Life of Mahatma Gandhi』(Vintage) Louis Fischer著
- 『Gandhi: The Man, His People, and the Empire』(Haus Publishing)Rajmohan Gandhi著
- 『My Days With Gandhi』(Orient Blackswan Private Limited)Nirmal Kumar Bose著
- 『Mahatma Gandhi and His Apostles』(Yale University Press)Ved Mehta著
- 『The Collected Works of Mahatma Gandhi』 (The Publication Divison, Ministory of Information and Broadcasting, Goverment of India)
- 『Gandhi and the Indian women's Movement』 (The British Library Journal) Lyn Norvell著
- 『Mahatma Gandhi: Selected Political Writings』 (Hackett Classics) Mahatma Gandhi・著/Dennis Dalton・編
- 『インドとイギリス』(岩波書店)吉岡昭彦・著
- 『ガンディー自伝』(中公文庫)ガンディー・著/蝋山芳郎・訳