「自分探し」という言葉に反応する、マジメな日本人女子

知人の映画宣伝ウーマンが四国八十八箇所巡り(約1200km)いわゆる"お遍路さん"をしていたと知ったのは去年の春ごろ。なんで?と思って調べたらアラサー&アラフォー女子の間で静かなブームらしく、へー、と思っていたその矢先に、映画『わたしに会うまでの1600キロ』が公開されました。アメリカ西部を縦断するパシフィック・クレスト・トレイル(PCT)の1600キロをたった1人で歩いた女性、シェリル・ストレイドの自伝を映画化した作品です。

実はこの作品と前後して、これまた20代の女子がオーストラリアの砂漠地帯を横断する『奇跡の200マイル』という作品もあり、ぐうたらな私は、「どうした女子たち、なんでそんなに歩きまくるの?」と非常に不思議な気持ちになりました。

そんなわけで今回のネタは『わたしに会うまでの1600キロ』。主人公のシェリルは、最愛の母親の死から立ち直れず、ドラッグに溺れて荒みまくった生活の末に離婚、父親がわからない子供を妊娠し中絶し、ほとほと嫌になった自分を変えるべく無計画にPCTを歩き始めた、というひどいダメ女です。

映画の原題は『Wild』なんですが邦題がこんな感じなので、見た人/見てない人の多くが「自分探し」の映画と認知した/認知していると思います。これはおそらく日本のマジメな女子が「自分探し」のニュアンスに反応する(好き、興味がある、したい、している)というマーケティングの裏返しなのでしょう。お遍路さんの流行には、そうした流れもあるように思います。

自分を捜すためだけに、1600kmも歩けませんから

「自分探し」という言葉は誰がいつごろ発明したのか定かではないのですが、これはほんと便利でカッコいい言葉です。例えばハラペコでランチは何にしようかなどとボーッと考えている最中、友人に「どうした?」と心配げにたずねられた時。餃子とトンカツで迷っていましたとはさすがに言えず、アンニュイな笑顔で「自分探し」と答えたりすると、相手は「何か心配事はあるけど"言いたくない"と無下にするのもなんだから、ちょっとシャレてみたんだな」とまあこんな具合に、果てしなくいい方向に深読みしてくれます。たぶんそうです。

でもこの言葉、時と場合によりひどくむずがゆい気持ちになることもあります。

例えば旅行が好きな私は(現実から逃避するために)ばばばっと計画してぴゅーっと1人旅に出ることがあるのですが、年末(クリスマス連休前はすごく安いので)パリに一週間とか、(仕事ヒマすぎで)ポーランドに1カ月とか、短くて1週間前くらいの急仕立ての海外旅行に、カッコ内の事情を知らない人たちは、こんなふうに尋ねてきます。

「何?自分探し?」

単なるお気楽な物見遊山です、とは、これなかなか返せません。

確かにシェリルの旅も、結果としは「自分探し」に思えますが、彼女は「自分探し」なんて言葉を使ってはいません。どちらかと言えば、ダメな自分に喝を入れるために美しくも非情な「Wild」に身を置くべく無鉄砲に歩き出したわけで、特に旅の前半は無様さとダサさと情けなさと寂しさの連続。その末に見つけたのも「途方もないピンチも、自分でどうにかする自分」くらいのものです。

でもつい「自分探しの旅」と使いたくなるのは、言葉としてちょっとカッコいいし、それだけで何かが完成した感じがするからです。本人は「"自分探し"をする意識の高い自分」に到達したような気になり、周囲もその時点で「偉いなあ」と思ってくれちゃうわけです。もちろんこれが目的でも構いません。その場合は、空港で撮った「ヘルシンキ」とかなんとか書いてある離陸予定のボードの写真に「自分探しの旅」と書き添えて投稿し、「いいね!」を待てばよろしい。実際に旅に出なくても、たまーにしか会わない人のコミュニティであるフェイスブックならば、十中八九バレません。

とはいうものの、「自分探し」をしたい人、その言葉を使いたい人が感じているであろう、ポエティックな魅力は十分に理解できます。その誘惑に負けそうなとき、私はシェリル・ストレイドのずる剥けた足の爪とか、リュックの痕で痣だらけになった身体とか、あまりに喉が渇いてめっちゃ濁った水をがぶ飲みする様を思い出します。わあああ、無理。実際の「自分探し」は全然ポエティックじゃないし、ぜんぜんやりたくない。てか、探さないといけないんでしょうか、自分。今、ここにいる自分以外に。

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