聖書には、婚前交渉を禁じる一節があり、敬虔な信者ほど、恋愛と宗教の間で悩んでしまうことも…。

以下は、コスモポリタン アメリカ版で紹介された、厳格なキリスト教徒の家で育ったある女性の手記。忠実に教えを守ったために、幸せなはずの結婚生活が悲しいスタートを切ることになってしまったようで…。

15歳のとき、結婚まではセックスをしませんという誓約にサインをしました。

キリスト教徒の家で育った私は、自分の処女性が"神の救済"とほぼ同じくらい重要なものだと教えられてきました。

それは何としてでも守るべき、最も貴重な財産でした。そして、幸せな結婚の前の処女喪失は、私に起こりうる出来事の中で最も恥ずべきことでした。

私はその警告を深く心に刻みました。教会で育っていない人には理解しがたいかもしれないけれど、結婚までは純潔を守るのだという貞操観念はキリスト教サークルに広く行き渡っていて、疑問を持つことさえなかったのです。もちろん結婚まで待つことにしました。それ以外の選択肢なんてありませんでした。大変なことですが、そうしなかったら、私は一生後悔することになる、と思っていましたから(あるいは、そう言われていました)。

15歳のとき、結婚まではセックスをしませんという誓約にサインをしました。教会の若者グループと婚前交渉の自制について議論をした後、(他の数人の仲間たちと一緒に)実際に紙にサインをしたんです。

翌年、両親は私にピュリティリング(純潔を約束する指輪)をくれました。両親が結婚する数年前から一緒に暮らしていたのは知っていましたが、彼らを偽善者だと思ったことは一度もありませんでした。むしろ、自分たちが若い頃に犯した間違いを私には繰り返させまいと、最善を尽くしてくれているのだと信じていました。何しろ、両親は昔とはかなりちがう人間になっていましたから。

婚前交渉に関する、教会や両親、その他あらゆる人々からの警告に応えて、私は極端な手段に出ました。大学生活やそれ以降も、デート相手は片手で数えられるほどに制限し、結婚相手とでさえ、結婚式当日まではキスをしないことにしたのです。

私は無邪気にも、ついに「はい、誓います」と言ったあかつきには、お互いの貞節が、熱く情熱的なセックスライフによってむくわれると思い込んでいたのです。

夫とはちょうど1年ほどデートをして婚約し、その5カ月後に結婚しました。教会の祭壇の前でファーストキスをしたという事実について、たいてい周りに唖然とされます。「キスもしたことがなかったら、一体全体どうやってその男と体の相性がいいってわかるの?」人々は私に聞いたものです。「『はい、誓います』なんて言う前に、知っておくべきことじゃない?」

正直に言うと、体の相性が悪い人と結婚することを心配したことは一度もありませんでした。だって、結婚生活の中でするセックスは素晴らしいものだって、誰もがきっぱりと断言してくれたからです。キスをしないという決断については、たしかに時々考えたことがあります。もしかしてそこには"ときめき"があるのかもしれないと思って。でも、私の婚約者は待つことに賛成してくれたので、それは問題にならないだろうと判断したのです。

今では自分の素朴さが笑えます。

両親、祖父母、兄弟、友だち、そして知人からのほぼ絶え間ない評価と期待が私にふりかかっていました。私は自分がやっかい者、もっと言えば世間のつまはじき者で、常に身構えて、自分を説明しなくてはならないと感じることに疲れました。だから、私たちの選択について人には一切話さないようになりました。

私と婚約者の間に性に関する取り決めがあるからといって、私たちが唇や手を合わせないようにするのが容易だったわけではありません。でも、私たちは2人とも互いを尊重し、神を尊重しようと決めたので、その犠牲は価値のあるものだと思ったのです。私たちは結婚さえしたら手に入れることができる愛情行為を心待ちにしていました。

私は無邪気にも、ついに「はい、誓います」と言ったあかつきには、お互いの貞節が、熱く情熱的なセックスライフによってむくわれると思い込んでいたのです。誰も「必ずしもそうとは限らない」と言ってくれなかったので、私はそう信じていたのです。

夫のために必死にバージンを守ってきたのに、結婚して手にしたのはストレスと不安だけだなんて…。

私たちはどちらも経験がなかったし、結婚した友人たちと率直な会話をしたこともなく、私は学校で本当に適切な性教育を受けたことさえなかったのです。初夜にそなえておくべきことを、繰り返し単刀直入に聞いたにもかかわらず、信頼すべき友人、家族、お医者さんでさえ、せいぜい「すべてうまくいくよ」とか「心配ないよ、やればできるよ」とか、個人的には一番好きな「結婚生活でのセックスは最高だよ!」といったアドバイスをしてくれるだけでした。

結論から言うと…事は計画通りには運びませんでした。問題があったのです。

ハネムーンから帰るとすぐ(涙と痛みによるストレスに耐える1週間でした)、私は膣痙と診断されました。それはつまり、私の体は無意識に骨盤筋の収縮を起こしていて、そのためにセックスがとてつもなく痛いものであるか、不可能なものだということでした。

その後の数カ月は、人生で最も暗いものでした。

お医者さんやセラピストの人々と話した後、私は長年の「自制」によって、潜在意識の中でセックスは本当に悪いもので、避けるべき、考えるべきでないものと説得していたことに気づきました。それが、今になって突然"良いこと"になり、私の体はどうしていいかわからなくなっているのです。あまりにも長い間、異性に対し興奮しないようにしてきたわけですから。実際、膣痙は「過度に厳しいしつけ、バランスを欠いた宗教教育(すなわち「セックスは悪である」)、そして不適切な性教育」によって引き起こされうるのです。

この症状を克服するための困難な道のりについてより現実的に理解するにつれ、私の気持ちはどんどん落ち込んでいきました。女性として、妻として"完全な失敗"をしたことに、気づいたのです。

友人たちはもはや結婚式の前ほど頼りにならなくなりました。だからって、彼らを責めることはできません。人間の基本的な欲求を満たすことを今までの人生、すべてをかけて待ち続けてきて、今やそれが肉体的に不可能になった人に、何と言ってあげられるでしょう? そんな困難な状況にある人に言うべき言葉を見つけるのは難しいものです。

時間とお金をなんとかやりくりして毎日の理学療法と毎週のカウンセリングに通った結果、私は周囲のすべての人々に対して激しい怒りを持つようになったことに気がつきました。夫、家族、友人、そして誰よりも、神に対してです。

その"不正"は私にとって耐え難いものでした。

でも、夫のために必死にバージンを守ってきたのに、結婚して手にしたのはストレスと不安だけだなんて…。

悲しいことに、これは私に限ったことではないのです。自分の経験を他の人々にうち明けるようになり、この問題はキリスト教教会ではきわめてよくあることなのだと実感しています。私たちはあまりにティーンエージャーたちに愛情行為を避けるように教え過ぎたため、彼らが結婚する頃には、身体は親密な行為を拒絶するよう叩き込まれているのです。もちろん、これは100%起こることではありませんが、実際に症状が現れるべき頻度をはるかに超えています。

「セックス」という言葉は、非常に多くのキリスト教サークルにおいて完全なタブーとなっています。子どもたちは結婚するまで避けるように言われ、それ以上の会話はないのが普通です。

私たちも、世の人々と同じように率直にセックスのことについて話したらどうなのでしょう? セックスの仕組みや喜びについてありのままに話してみたら? ぎこちない初体験についてのおかしな話をうち明けてみたら? セックスが私たちの脳に及ぼす心理的な影響についてざっくばらんに話し合ってみたらどうなのでしょう?

私は何も、牧師さんが説教壇からこんな話を説くべきだと言っているわけではありません。何事にも時と場所があって、そこではこうした具体的な話が適切だとは思いません。でも、教会サークルなら、指導者と一緒に、若者グループで、あるいは親しい友人同士で話し合うのにぴったりです。もしキリスト教徒が「セックスは神が既婚のカップルに与えた贈り物だ」と本当に信じるのなら、ひそひそ話や婉曲表現を使わずに、今こそ堂々とこの贈り物について話し合うべきです。

もしもう一度やりなおさなくてはいけないとしても、私はきっとまた待つでしょう。これだけ悪戦苦闘したにもかかわらず、私はキリスト教徒の家で育ったことを後悔していないし、いまだに強い信仰も持っています。でも今度は、ただ「結婚までは避けるように」と言われ続けるのではなく、セックスと愛情行為についてのたくさんの良い側面についてオープンに話し合えるよう働きかけることでしょう。もっとバランスのとれたものの見方を教えてくれるようにお願いするでしょう。ただ言われたことをするのではなく、自分自身で選択できるように、きちんとすべての情報について知らされていることを確認するでしょう。

ティーンエージャーの頃は、「結婚までは」の部分で道に迷いやすいものです。これは、愛情行為に対する不健康でゆがんだ見解を残すものだとはわからないのですから。

※この翻訳は、抄訳です。

Translation:コスモポリタン編集部

COSMOPOLITAN US