自身の情熱を糧に世界を席巻する、一流ファッションデザイナーたち。誰もが才能を認めるそんな彼らにも、成功をおさめるまでに山あり谷ありの道のりがあったようで…。運や実力、そして揺るがぬ信念を貫き、その後のキャリアを決定づけたエピソードをご紹介します!
ラフ・シモンズ
大御所女史による、愛ある突き放し
一昨年、わずか3年半でディオールを去ったことが話題になったラフ・シモンズ。現在は「カルバンクライン」のチーフクリエイティブオフィサーとして指揮を執っている。そんなラフは、実はファッションを体系的に学んだことはなく、大学もインダストリアルと家具デザインの専攻。在学中からアントワープシックスの一人であるウォルター・ヴァン・ベイレンドンクの下で家具デザイナーとして働いていたとか。そこでウォルターに連れられてパリのファッションウィークへ行きマルタンマルジェラのオールホワイトコレクションに触発され、徐々にファッションデザインの虜となることに…。
やがて名門アントワープ王立芸術学院の扉を叩くも、当時同校のディレクターだったリンダ・ロッパに「あなたはうちの学校で学ぶ必要がない」と言い放たれる。この一言に含まれたリンダの後押しが彼に覚悟を決めさせ、そこからラフ・シモンズのファッションデザイナーとしての歴史が始まった。ちなみにその頃から2000年まで付き合っていた彼女は、同じくファッションデザイナーのヴェロニク・ブランキーノ!
ジャンヌ・ランバン
「娘のため」から「娘のおかげ」に
パリのビッグメゾン「ランバン」の創始者であるジャンヌ・ランバン。ジャンヌは1867年生まれでブランドの創業が1889年と、ラグジュアリーブランドの中でも特に歴史の長いブランドとしても知られている。16歳で帽子の専門店で修行を始め、その後ドレスメーカー「スザンヌ・タルボット」へ。そこで働いていた時に娘のマルグリートが生まれ、彼女がまるで二人三脚かのようにジャンヌのファッションデザイナーとしての人生に影響を与えるように。
マルグリートが生まれて2年後に「ランバン」を創業したジャンヌは、その高い技術と才能を駆使して、娘のための服を作りはじめる。すると、その服を見た娘の同級生の母親たちから注文が殺到。特に富裕層に人気が出たことから、高級婦人服ブランドとして一躍有名に! さらに1927年に発表された「ランバン」を代表する香水「アルベージュ」は、娘の練習していたピアノの音色にインスパイアされた香りで、ボトルにあしらわれたロゴは母娘のモチーフ。ジャンヌの死後は、マグリートがメゾンを引き継いだ。
アレキサンダー・マックイーン
自由なキャリアが培った迫力の融合
とてもシャイな性格で知られたアレキサンダー・マックイーン。高校が合わずに中退したことで、メンズファッションのメッカである地元ロンドンのテーラーでアシスタントとして働き始めたことがファッション業界への第一歩。テーラーが「サヴィルロウ」と呼ばれるロンドンのオーダーメイド紳士服店の集まるストリートにあったことから、ビスポーク(オーダーメイド)の高い技術に触れた。
その後、舞台衣装メーカーの「ギーブス&ホークス」で働いたことがキーポイントに。格式ある技術の基礎を身につけたマックイーンが次に手にしたのは、舞台衣装という迫力とダイナミックさが求められる煌びやかなデザイン。そしてセントラル・セント・マーチンズ卒業制作からクラシカルな技術の高い服を、ドラマティックなショーで披露することで二極の魅力を融合。今なお伝説として語り継がれるアヴァンギャルドなスタイルを確立した。
トム・フォード
大胆なスタイルのヨーロッパとのマッチング
90年代にグッチのクリエイティブディレクターとして大成功し、名を馳せたトム・フォード。実は彼も、ファッションの学校には通っていないんだとか。ニューヨークにあるアートとデザインの専門大学パーソンズで学んでいたのは建築学。それからインターンとして、当時今よりも規模の小さかった「クロエ」で働いた後、1ヶ月の間、毎日電話をかけ続けてなんとかアメリカンブランド「キャシー・ハードウィック」での仕事を手に入れることに。
その後アメリカでデザイナーとして活躍したものの、インタビューによると彼の大胆なスタイルはアメリカには合わなかったそう。同時にヨーロッパならそれを"スタイリッシュ"だと評価されると感じたため、自身の直感を信じてヨーロッパへ渡ることに。すでにキャリアとコネクションのあった彼は、グッチのクリエイティブディレクターに就任すると、グッチは瞬く間にトム・フォード色に染まりブランド共々革新的な大成功を収めた。
エルザ・スキャパレリ
前衛芸術が誘ったファッション革命
1890年イタリア・ローマ生まれ。あのココ・シャネルがライバル視したことでも有名な伝説のデザイナー。彼女の運命の出会いのお相手は、当時流行していた前衛芸術。今ではすっかりお馴染みアイテムとなった「トロンプイユ」と呼ばれるだまし絵が施されたセーターを生み出すなど、彼女のユニークで画期的な服は、同時期に人気だったシックなシャネルとは対照的だったこともありファッション業界を刺激。中でも前衛芸術家サルバトール・ダリとのコラボレーションは、そのセンセーショナルさで人々を驚かせた。
また、靴をそのまま頭に乗せたかのようなハット、キルティングによる凹凸で着る人の骨を表現した黒くタイトな「スケルトンドレス」は、1930年代の女性にシュールで奔放な感性を与えたそう。彼女の"インスピレーションをすぐに形にする"大胆なスタイルが、芸術家をも刺激して成功に繋がる出会いを引き寄せたのかも...。
ニコラ・ゲスキエール
14歳でインターン!? 早熟さが築いた信念
現在ルイ・ヴィトンにてクリエイティブディレクターを務めるニコラ・ゲスキエール。ゴルフ場オーナーの父を持つ彼は、両親の影響でスポーツやファッションに親しみ、小学生の頃からスケッチブックにドレスのデザインを描いてファッションデザイナーになりたいと願っていた。その思いは強く、14歳の時、学校の長期休暇のタイミングで「アニエスべー」にてインターンシップを受けることに。念願叶ったニコラ少年だったが、当時の彼にはインターンシップで経験したファッションの世界は厳しく、ひとまず高校を卒業するまでは学生生活に集中することに…!
しかし、その時感じた挫折とファッションへの変わらぬ愛着は彼の背中を押し続け、高校卒業後に「ジャン・ポール・ゴルチエ」でアシスタントとして働き始める。才能が花開いたのは15年間在籍した「バレンシアガ」でのこと。元々スポーツが身近な存在だった彼は、ライセンス部門で細々とゴルフウエアのデザインをしていたが、前デザイナー辞任に伴いわずか25歳で突然クリエイティブディレクターに! 幼少期から培った確固たる信念と地道なキャリアアップで、チャンスをモノにしたみたい!
フィービー・ファイロ
あのデザイナーとの学生時代からの縁がキーに!?
現代の女性へ向けた、メッセージ性のあるミニマルなデザインで人気を博している「セリーヌ」のクリエイティブディレクターことフィービー・ファイロ。彼女がファッション業界で成功するにあたって、キーパーソンとなったのは実はデザイナーのステラ・マッカートニー。
ロンドンのセントラル・セント・マーチンズでステラの一学年後輩だったフィービーは、当時から彼女と親しく、卒業後にステラがクリエイティブディレクターを務めていた「クロエ」で、ステラのリクエストにより直属アシスタントとして働いた。ステラの退任に伴い、同ブランドのクリエイティブディレクターに就任したフィービーは、後任として公私ともに理解しあえるステラの築いた世界観を崩すことなく、ブランドを指揮。セレブリティデザイナーのステラの陰に隠れ無名だった彼女は、デビュー当時こそ批判もされたものの、時間をかけて徐々に瑞々しいモダンなコレクションを発表し、才能が開花。その柔らかで芯の通った彼女自身のスタイルは、今やすっかり女性たちの憧れのアイコン的存在!