2020年に著書『誰かの理想を生きられはしない――とり残された者のためのトランスジェンダー史』を出版した、「女性/男性に当てはまらない性」「二元的ではない性」を自認するトランスジェンダーである吉野 靫さん。

2006年、大阪医科大学ジェンダークリニックにおいて医療トラブルに遭った吉野さんは、翌年大阪医科大を提訴。2010年に複数の条件で和解に達し、和解条項の公表も条件に含み、勝利的和解となりました。

著書の中では、特例法※の制定とトランスジェンダー当事者の中で生まれたGID(性同一性障害)規範の関係、 GID医療において統一的なQOL(生活の質)の基準が作られていないという課題についても書かれています。

※性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律

本記事では、GID医療の問題点をはじめ、当事者が安心して医療を受けられるためにはどう変化していくべきなのかを、吉野さんに伺いました。

吉野 靫さん

 
吉野 靫
学生時代は立命館大学自治会で学費値下げやジェンダー課題に取り組む。2006年、身体改変に伴う医療事故をきっかけに、トランスジェンダーに関する論文執筆や企画開催を開始。

GID医療の問題点とは

著書の中で吉野さんは、「特例法が想定する『性器形成を望むGID当事者』の姿には、GID診断をくだす医療現場が生み出した『幻想』が入り込んではいないだろうか」と指摘しています。ジェンダー規範や特例法の要件が「二元的な性別の正当性」というプレッシャーを当事者に与え、それはGID診断現場にも持ち込まれているというのです。さらに、診断のとき最も重視されたのは「“逆の性”の感覚をどれだけ持っているか」との点だったとも綴っています。

性同一性障害の診断が下りなければ、その後のホルモン投与や外科手術が受けられないことが多いため、医療の現場では以下の悪循環が起きていると吉野さんは指摘しています。

  • “診断をもらうために”普段自分が好むファッションと違っても、FTMは短髪にして男性っぽい服装で、MTFはスカートを履いて診察へ行く。(田中玲『トランスジェンダー・フェミニズム』インパクト出版会2006)

  • 当事者内で過剰なジェンダーステレオタイプのアピールが起こり、医師のデータにもそれが蓄積されていく。

  • 「逆の性」に同化することが前提の治療方針を提案されることで、当事者の心身の在り方も“二元化”されていく。

  • 実際は違っても「自分の身体が嫌い」だと言うことで次につながりやすい構造になっている。

  • 大学病院側(当事者内では「正規ルート」と呼ばれる)の持つトランスジェンダー当事者の情報が偏っていく。

変えなければならない医療側の認識

――このような医療側(特に大学病院)の問題点について、吉野さんはどう考えていますか?

当事者のライフストーリーが演出されたものであるとか、医者に認めてもらえるようアピールしているとか、それについては医療側も「分かっている。それも含めて判断している」とは言うんですよ。

でも、GID診断についての論文を発表して14年経った今でも、 「私はXジェンダーなんだけど診断下りるかな」とか「ノンバイナリーでも診断ってもらえる?」「戸籍上の名前を変更するとき、裁判官に認めてもらいやすいのはどんな服装?」といった、若い人たちのつぶやきをよくネット上で見かけます。

もちろん、Xジェンダーやノンバイナリーの人々に診断が下りるケースもたくさんあります。ですがその事実を以ってしても、医師がどれだけ「分かっている」と言おうとも、当事者は未だに医師の言葉の端々から“二元的な性別を基準に考えている”というメッセージを受け取っているのです。現に、診察のとき着ていた服について言及された、望んでいない手術を勧められたという声も聞いています。

また本来、性自認と性的指向は独立したものであるのに、性的指向を聞く問診項目が未だに存在している病院があることは、シスヘテロ基準で診断をしているのかもしれないと当事者に勘ぐらせることにもつながります。特例法に関する裁判で「違憲ではない」と判決が出たこともそうです。

こういったことにより、当事者は戦略として「より正当な当事者」「認められやすい当事者」の姿を持たざるを得ない。だから医療側の認識が変化していかないと、このような悪循環は続くと思います。

――特例法の中には、「外性器要件(移行する性別の性器に近似する外観を備えていること)」があります。

法律で性器の形を規定すること、その不確かさについてどう考えていますか?

そもそも「女性・男性の外性器とはどういったものか」を法律で決めてしまうことに問題があります。

たとえば現在では、FTM(Female to Male:出生時に割り当てられた体の性が女性であるものの、男性のジェンダーアイデンティティを表現するトランスジェンダー)の人が戸籍の性別変更するときに「ペニス形成はしていなくてもOK」なのが当たり前になっています。しかし特例法が運用され始めたばかりの頃は、同じ条件なのにその人の外性器を「ペニスに近似している」と見なすか見なさないかで判断が分かれた、といったケースもありました。

テストステロンを投与すると、外性器の形状は当然変わります。それは一般的なペニスと認識されているものとは少し違うかもしれませんが、「それをどう見なすか」は全く別の問題だと思います。

トランスジェンダー排除派の人々の中では、トランスジェンダーの人の外性器について簡単にあざけり、ペニスの有無について言及したがります。けれどそれは「ノーマルな身体とは何か」「身体の健常性とは何か」を定義することにつながる。やはり「こういう身体、形状、機能を持った人間が普通だ」という考えがあるから、身体の多様性に対して不寛容になるのではないかと。

私は多少形状が違っても、その人が思った通り、言った通りの身体のまま捉えています 。多くの人と一緒に裸になるような場所での運用は、また別で考えなければいけないですが、少なくとも「法律上で人の身体を規定する」ことの危うさというのは、優生思想などにもつながってくる話だと思いますね。

image
吉野 靫

「手術したら終わり」ではない

――マジョリティ側に「手術さえすればいいのだろう」といった思い込みが存在し、当事者の術後の生活にあまり焦点が当たっていないことについては、どう思われますか。

これは本当に深刻な問題だと思います。手術の出来栄えが当事者のその後の生活に大きく関わるというのは、当たり前と言えば当たり前のことです。これってマジョリティ側に埋没して生活することを望んでいる人にとっては、さらに切実な問題です。たとえば男性として就職しているFTMの人が、安心して着替えたりできるか、ということですよね。

現在の医療では、手術そのものと「手術後、トランスジェンダー当事者が具体的にどういう人生を送っていくか」の想定が、切断されているのです。「胸の脂肪が嫌だから平らにした、良かったね」で終わりの話ではないんですよね。

私が手術をする前、執刀医に過去に同じ手術を受けた人の事例を聞くと、「手術が終わったら、(形成外科に)診察に来ないから分からない」と言われました。裁判の証人尋問のときも「手術前、術後のQOLについて入念に確認しましたよね」と尋ねましたが、その事実はほとんど記憶されていなかった。

この間たまたまFTM当事者が書いているブログを読んだら、「手術を受けた人の10年後20年後はどうなっているか医師に聞くと、『データがないから知らない』と言われてしまった」と書いてありました。やっぱり今でも変わっていないんだと思いましたね。

私が修正手術をしてもらった個人病院では、過去の症例をたくさん見せてもらいながら、胸のサイズや、「ナベシャツ(胸を平らにするインナー)」やバインダーの締め付けで下垂したケースなど、術式と出来栄えの経過について丁寧に説明してもらいました。 何でこれが正規医療にできないのかと、疑問に思いました。

他の外科手術であれば、「この症状の人にこういった術式が適用出来る・出来ない」「こんなトラブルが起こりやすい」「手術の後はこうなった」等を実際の過去の症例に基づいて判断するのに、なぜかGID医療に関してはそうではない。何か一つひとつのケースが個別に切断されてしまっている現状があり、なぜこのままで良いと思っているのか、手術を受けた当時はもちろんのこと、今でも理解できないです。

「見た目とQOL」については、一般的な乳がん等についてもそうですが、 お金を出せる人はより良い医療・医師を選べますが、一般的な外科領域で審美性がどこまで重視されるかは、医師によるのかもしれません。

当事者が安心して医療を受けられるように

――吉野さんの思う理想の医療の形とはどういったものですか?

“当たり前のこと”と言って良いと思いますが、データを取ってほしいです。データを取り、それに基づいて医療を受ける側が安心して説明を聞き、納得してから手術を選択できるようにしてほしいと思います。

あとは追跡調査もしてほしいです。たとえばアメリカでは、Instagramで胸のオペなどについて発信している専門病院があり、「これが手術から4年後の写真だよ。本当にいいよね」といった経過のポストもあるんですよ。もちろんすべての病院がそうかは分かりませんが、少なくとも医療側が術後の経過を把握し、気にしている医療者もいるということは分かります。

それを外科で追跡するのは難しいかもしれないですが、ジェンダークリニックは“チーム医療”であることに意味があるとされていますから、精神科領域が手術後の結果やその後の精神状態について、追跡が出来るはずです。

でないと私が書いたように、当事者は医療側に「手術に納得していない」ことを伝えられず、個人で別の病院を探して、追加のお金を払って修正手術をしてもらうということが起こってしまう。その事実を大学病院側は知らないので、「自分たちの手技では満足していないんだ」ということに気付けず、いつまで経ってもボトムアップできるだけの材料がないままなのです。


プロフィール

吉野靫(ヨシノユギ)

クィア、トランスジェンダー。立命館大学先端総合学術研究科修了。学生時代は、学費値下げ運動とジェンダー・セクシュアリティ問題への取り組みに傾倒。2007年から2010年まで身体改変にまつわる医療訴訟を経験。著書に『誰かの理想を生きられはしない――とり残された者のためのトランスジェンダー史』(2020年、青土社)、2022年はこれまで『新潮』3月号、『GQ Japan』6月号、『エトセトラvol.7』等に寄稿。

猫と暮らす。 香港の古いカンフー映画、韓国映画が好き。中島みゆきとザ・クロマニヨンズをよく聴く。ヨガ歴13年。

公式Twitter

公式サイト

PRIDE MONTH特集をもっと見る!

 
cosmopolitan//Getty Images