世界という大きな舞台で“一番”になることは至難の業。敢然とそんな挑戦に立ち向かい、語学や文化の壁を乗り越え、自身が選んだ道でトップに輝いた日本人男性をご紹介。

海外でも一目置かれるのが、日本人男性の一生懸命な姿勢や誠実さ。信念をもって、そんな姿勢を体現するモデルのKoheiさんと、バーテンダーの後閑信吾さんの“かっこよさ”に迫ります。

普通の大学生活から一変。ランウェイ登場数世界一位のイットモデルへ

instagramView full post on Instagram

コウヘイ(Kohei)さん/モデル

「プラダ」、「エルメス」、「ドルチェ&ガッバーナ」…数々の名だたるブランドのスタイリングを着こなし、ランウェイでひと際異彩を放つ日本人メンズモデル、コウヘイさん。18年春夏メンズ・コレクションから4シーズン連続で10ブランド以上のショーに出場、18-19年秋冬メンズ・コレクションでは25ブランドのショーを歩き、同シーズンのランウェイ登場数「世界一」に輝きました。

英語力と188㎝の長身、唯一無二のミステリアスな存在感に世界中からラブコールが絶えず、18年春夏の「コーチ」や19年春夏の「フェンディ」の広告を飾るなど、大活躍中。

一方で、素顔はカルチャーに好奇心旺盛で謙虚な22歳の男子――。そんなコウヘイさんのかっこよさ、その秘訣とは?

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
 thumnail
Watch onWatch on YouTube

――モデルになったきっかけを教えてください。

以前は、ごく普通に大学生活を送っていました。今のようにモデルになるとはまったく想像していなかったんです。ただ、ファッションが好きだったので、将来はファッション業界で働ければいいな…と思っていました。

そんな大学1年生の頃、友人の繋がりで出会ったデザイナーの方が、モデルになるように進めてくれて。現在所属しているエージェンシー(ビーナチュラル)を紹介してくれ、日本でモデルデビューをすることになりました。

4シーズン連続で10ブランド以上のショーに出場するなど、メンズ・ファッションウィークで大活躍されていますトップモデルへの道のりを教えてください。

はじめは日本で半年間モデル活動をしていました。そんなある日、事務所の方に背中を押していただき、オーディションを受けるために海外に渡ることになって。すると、各ブランドのオーディションに受かり、驚くほどスムーズに物事が進展していきました。

僕は9歳から13歳までオーストリアで暮らしていたので、その頃に身に付いた英語力や欧米人のコミュニケーションに自然に馴染めたことが、海外でスムーズに受け入れてもらえた理由の一つかもしれません。あと、コレクションデビューした時が、国際色豊かなモデルを起用するブランドが多くタイミングが良かったこと、そして“坊主頭”も武器になったのかと思います。

――18-19年秋冬メンズ・コレクションで、ランウェイ登場数「世界一」を記録されたときのエピソードを教えてください。

「一番ショーに登場するチャンスがあるのなら、気合いで出てやる!」という思いがエネルギー源になった。

ロンドン、フィレンツェ、ミラノ、パリの4都市で約1カ月間、朝から夜までオーディション、フィッティング(試着)、ランウェイを歩く、という繰り返しでした。1日平均2本ショーを歩いたのですが、パリでは1日4本歩いた日も…。

ミラノコレクションでは、事務所の人にバイクの後部席に乗せてもらい、2人乗りで会場を駆け巡っていました(笑)。

「一番ショーに登場するチャンスがあるのなら、気合いで出てやる!」という思いがエネルギーの源になり、とにかく目の前の仕事を一生懸命こなしていました。

結果的に「ヴァレンティノ」や「ルイ・ヴィトン」、「ケンゾー」、「バルマン」などのショーに出場、パリでは「ダンヒル」のオープニング、ミラノでは「プラダ」のクロージングを飾ることができました。

いざコレクションがすべて終わって「モデルズドットコム(Models.com)」のサイトを見てみると、気が付いたら「ショー出演数ランキング1位」に自分の名前が挙がっていて、とても驚いたのを覚えています(笑)。

――モデルになってご自身で成長したと思うことは?

海外のモデルやファッション業界の人たちと接する中で、各国の雑誌、映画、音楽など幅広いカルチャーを知り、自分の世界がどんどん広がっていくことが、本当に楽しいです!

また、彼らの「仕事への姿勢」にも刺激を受けています。特にヨーロッパでの撮影では、あまり上下関係がなく、アシスタントが師匠に「自分の意見」をはっきり言える環境や、心から納得がいくものができるまで時間をかけてみんなで作り上げる、という仕事のスタンスが素敵だと感じました。

また、さまざまな国のモデルと働く中で、「モデル」としての働き方も学びました。アジアの国々ではハングリー精神があるモデルから「自分ももっと頑張らないと」と刺激を受ける一方、ヨーロッパのモデルからは「自分のペースを崩さない」ことの大切さも学びました。僕は二極のバランスをとって、自分らしい「モデル」としての働き方を見つけていければと思っています。

――モデルの仕事を心から楽しまれているコウヘイさん。今後が、とても楽しみですね! 将来の目標は?

「自分自身が一歩踏み出さないと、どんなドラマも始まらない」。そんなメッセージを体現していきたい

日本人モデルが「僕も海外の舞台で挑戦したい!」と思ってもらえるよう、自分自身が海外で頑張っていきたいです。

海外のランウェイに出場するアジア人はまだまだ多くはないのですが、中でも日本人モデルが少ないという印象があります。

せっかく多くのショーに出させていただくという大きなチャンスをいただいているからには、自分が一番頑張らないといけない。そうすることで、誰かの新しい挑戦に繋がれば、とても嬉しいです。

「新しい扉の先には、きっと予想外のビッグな出来事が待っている。そしてそれには自分自身が一歩踏み出さない事には、どんなドラマも始まらない」。そんなメッセージを体現していきたいです!

世界100都市を飛び回るバーテンダー

芯の強さが素敵! 海外で活躍する日本人男子
Shino Yanagawa

後閑信吾さん/バーテンダー

シャキッと伸びた背筋、美しい所作、真剣な眼差しが魅力的な日本人男性。彼は茶筅を使用して素早くお茶を点て、ラム酒とミックスし、シェイカーを巧みに振る――。

これはyouTubeの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。
Shingo Gokan | Speak Low | Bartender Cocktail
Shingo Gokan | Speak Low | Bartender Cocktail thumnail
Watch onWatch on YouTube

後閑信吾さんのカクテル作りの技術は、ジュリア・ロバーツ、ビヨンセなどのセレブリティなど“最高級”を知る人々の目を丸くさせ感嘆させる。 ロンドンの老舗ホテル「サヴォイ・ホテル」にて120年の歴史上初めてのゲストバーテンディングなど、国内外問わずオファーが止むことはない。

世界のバーテンダーの頂点と言われる「バカルディ・レガシー・カクテルコンペティション世界大会2012」総合優勝やテイルズ・オブ・ザ・カクテル 「インターナショナル・バーテンダー・オブ・ザ・イヤー2017」を受賞し、自身がプロデュースするバーを上海に3店舗、東京・渋谷にも「The SG Club」をオープン。さらにゲストバーテンダーやコンサルタントとして世界100都市以上のイベントや講演会を飛び回る日々を送る――。

そんな世界的バーテンダーの後閑さんも、スタート地点はお酒の知識ゼロ、英語も話せない状態から。20代前半で単身ニューヨークへ渡り、下積み時代もあったそう…。どんな挑戦にも果敢に挑む、後閑さんの“芯の強さ”に迫ります!

――初めに、バーテンダーになったきっかけを教えてください。

18歳の頃に始めたアルバイトがきっかけです。せっかく時間を使うなら、将来スキルとして身に付く仕事をしようと思い、縁があって、バーで働くことにしました。

最初は、居酒屋チェーンのダイニングバー で働きました。当時はゼロからのスタート、お酒の知識もまったくありませんでした。

その後(神奈川県)川崎の小さなバーに移り、19歳で店長を引き継ぐことになって。同時にプロから体系的にお酒について学ぼうと思い、仕事をしながらバーテンダーの学校に通いました。

――その後バーテンダーとして挑戦するために、単身ニューヨークに渡る決断をされたそうですね。

22歳の頃、常連のお客様から『ニューヨークに行ったら成功すると思うよ』と背中を押していただいたのがきっかけで。ニューヨークって、なんだか響きが良かったし(笑)。英語力も磨きたく、バー文化の本場であるアメリカで挑戦したいという思いもありました。

そこで、渡米前に自分の“武器”を身に付けることにしました。海外で自分の国のことを聞かれて、答えられないことほど恥ずかしいものはないと思い 、日本人として自国の文化を知ろうと学んだのが「茶道」でした。

この学びは、「バカルディ・レガシー・カクテルコンペティション2012」での総合優勝にも繋がりました。このときに作ったカクテルは、抹茶とバカルディ(ラム酒)をミックスしています。

芯の強さが素敵! 世界で活躍する日本男子
The SG Club

――ニューヨークに渡ってからは、大きな「挑戦」の連続だったようですが…。

ニューヨークに着いて「この街でNO.1 のバーは、どこか」と聞き、教えてもらったバーにすぐに応募した

英語もまったく話せない、現地情報も何も知らないまま片道切符で渡米しました。

現地についてから知り合いに「この街でNO.1 のバーは、どこか」と聞くと、教えてくれたのが「Angel’s Share」というイーストヴィレッジ にあるバーでした。すぐに応募しましたが、語学力もステータスもなかったので、結果は不採用でした。

そこで、まず日本食レストラン内のバーで働き始めました。店内には100人以上お客様がいるのですが、英語でオーダーをとって、カクテルを作って、サーブして、お会計も全部一人でする…。とにかく、障害だらけでした。

その後、この日本食レストランに来ていた「Angel’s Share」のマネジャーが声をかけてくださり、念願だった「Angel’s Share」で働かせてもらえることになって。さらに入店後6カ月で、マネジャー職を引き継ぐことになりました。

一方で当時の僕の英語力は接客英語を丸暗記、分からないことも多々あるという状態で…。

そこにニューヨークで一番有名なバーを引き継ぐという責任、数字を出さないといけない責任、高いクオリティを提供する責任、チームに対するリーダーとしての責任もあり…。この時が精神的にも体力的にも一番大変な時期でした。

でも日本の友人たちに、「ニューヨークに行ってくる」と言ったからには、帰るわけにもいかない。それに、「すぐ帰ってくるよ」と言われたこともあって、最初から自分の中で「絶対に日本に帰らない」という決意があったので、どれだけ大変でも落ち込むことはありませんでした

――後閑さんは数々の名誉あるコンペティションで、世界の頂点に輝かれています。常に進化し続ける秘訣を教えてください。

「世界一」のタイトルをいただいた以上、それに見合う仕事をしないといけない。僕にはその責任がある

まず、僕の場合カクテル作りやお店作りなのですが、“楽しむこと”を大切にしています。そして、次の世代のクラシックを作っていく感覚。既存のものだけを作っていると、“新しいクラシック”は生まれないと思うので、もともと持っているものを磨き続け、昨日の自分や、前回の作品を超える――その繰り返しですね。

それに、バーテンダーとして「世界一」のタイトルをいただいた以上、それに見合う仕事をしないといけない。僕にはその責任があります。

――後閑さんがバーテンダーとして働く上で、大切にしていることを教えてください。

バーテンダーはアーティスト、ホスピタリティー・ビジネス、職人など、多様な面があると思うんですね。だから真面目になりすぎず、“きちんとするけど、遊ぶ”という感覚でいます。

そしてホスピタリティーという面では、“3回サプライズ”を大切にしています。お客様がお店に入ってまず1回目のサプライズ、メニューを開いて2回目のサプライズ、カクテルを飲んで3回目のサプライズがある――。そこで、感動に繋がるんじゃないかと思うんです。味もプロとして追求しつつ、複合的なアプローチでお客様の感動に繋がるよう日々心掛けています!


「チャンスに全力で立ち向かう」。与えられた機会に深い感謝の気持ちを持って挑戦していくこと、どんな大変なときも乗り越える精神力の強さが、2人が世界で“かっこよく”大活躍している秘訣なのかもしれません。