娘はある意味、ママのコピーとして作られる

前回、トカゲの一種であるサラマンダーの「オスなしで子供が作れるメスだけ集団」の繁殖能力について、自分のクローンを作る能力に近いらしい、ということを書いたのですが、その不思議があまりに不思議すぎるがゆえに、まだまだネタにすべく、今回もそこから始めようとしている私です。

メスのみ集団に属するママは、集団の掟に従って、おそらく娘しか生まないのではないかと思います。この娘、厳密には遺伝子的に全く同じということではないようですが、どちらにしろママの持つ遺伝子しか持っていませんから、ママのコピーと言って差し支えないでしょう。ママが緑に黒の斑点なら娘も緑に黒の斑点、ママが粘膜厚めなら娘も粘膜厚め、ママが餌取り名人なら娘も餌取り名人、ママが尻尾が自慢なら娘も尻尾が自慢です。

さらに子育てに関わるのもママだけですから、人格形成に大きな影響を与えるのもママだけ。ママの言う通りこの石の陰にいてね。オスには近寄らないで。お前はママと同じエサ取り名人になれるわ。とか言われて「そうなんだ、そうなんだ、私ってそうなんだ」と自己規定しながら育ってくに違いありません。

こうしたサラマンダーの母と娘のあり方に、思い出してしまう映画があります。ナタリー・ポートマン主演の『ブラック・スワン』です。ナタポ演じる主人公のニナは、あるバレエ団で「次期プリマ(主演)候補」であるバレリーナ。自身もバレリーナだったシングルマザーの母親は、28歳でニナを妊娠してしまったためにバレエを諦め、今は彼女のバレエ生活を支えています。ニナの体調に気を配り、ケガをすれば手当てして、神経が高ぶっている日は彼女が眠りにつくまでベッドサイドで髪をなでてやるような母親です。でも私がこの母親に悶々とするのは、娘の成功を喜びながら、実は望んでいないことです。

お母さんはナタポを甘やかしすぎだと思うのよ。pinterest
Everett Collection//Aflo

母親の愛情が息苦しいのは、ある意味当然のこと

ああ、こういうことってあるんだろうなと思います。

私が言いたいのは、ありがちな「自分が果たせなかった夢を我が子に託す」という、ある意味無邪気でわかりやすいママではなく、母親の中に渦巻くもっと複雑な、たぶん母親自身さえ理屈では説明できない感情です。自分のコピーとして生まれ育ててきた娘が、コピーとして完成してゆくことに不思議な安心感と喜びがあることは、「変なところが似てるのよね」と語る母親の笑顔を見れば一目瞭然です。そしてそれは「母親の言うことを聞かない」「母親を否定する」「母親を超える」「母親の手元から離れる」ことへの恐怖感の裏返しでもあります。

さて『ブラックスワン』。母親にとってニナは自分のコピーであり、もちろん「自分の夢を託す対象」でもあります。でも、舞台で演じるの役はその他大勢が関の山だった母親は、自分の夢でもあった『白鳥の湖』主役についに選ばれた娘を思い切り称賛しながら、ストイックにダイエットしている娘に「お祝いだから今日ぐらいは」と言いながら巨大なケーキを食べさせようとしたり、プレッシャーで肌をかきむしる娘に「あなたにあんな大役は無理だとわかってた」とのたまったりという、小さな何気ない妨害行為を繰り返すのです。とはいうものの私が思うに、これは嫉妬とは少し違います。だって同時に母親は、ニナが主役に選ばれたことを心から喜んでもいるのですから。

子供を産むのは非現実的なまでにすごいことです。自分の身体の中に、自分とつながったもう一人の人間ができる。それを十カ月も抱え命がけで世に出す過程には、未経験の私には想像もつかない、子供への複雑な思いが生まれるのは当たり前でしょう。

かつて自分とひとつだった子供に――特に同性である娘に、母親が持つな感情は、それだけになんともやっかいです。「断乳(母親が子供におっぱいを卒業させること)するときに、感情が抑えられずに号泣してしまった」という友人の話を思い出します。娘が母親の息苦しいほどの愛情を断ち切るうえで、悶々とするのは当然のことなのかもしれません。

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