「女友達に受け入れてもらうために、相手が望むような“ゲイの親友”を演じてきた」。
そう話すのは、18歳の時にゲイであることをカミングアウトしたダニエル・ハーディングさん。その裏にある孤独や疎外感を綴ったエッセイをお届けします。
文:ダニエル・ハーディングさん
“アクセサリー”のような存在として
長い間にわたってストレートのふりをしていた僕は、18歳でカミングアウトをしました。でも、昔からずっと「ゲイ」という言葉を聞くのが嫌いでした。
カミングアウトは人生で最も辛い経験でしたし、それは今も変わりません。カミングアウトの後には、いじめや拒絶、うつ病が待っていました。それでも、悪いことには良いこともついてくるものです。
その一つは、僕がついに「ゲイの親友」という、一部の人にとっての理想的な存在になったことでした。
ゲイの親友は、“アクセサリー”として最も人気の存在である一方で、僕にとっては心に重くのしかかるレッテルでもありました。なぜなら、映画やドラマでの描かれ方を見ていると、ストレート女性の「ゲイの親友」は、無償で彼女たちの人生相談に応え、喜んで彼女たちを支えるべき役割を背負わされていたからです。
女友達の恋の悩みを聞いて、彼女たちにとっての“愉快な友達”でいることは名誉なことだと思い込んでいた頃もありました。でも実際のところは、全く楽しい役割ではありませんでした。
必要とされたことに喜んだ時期も
カミングアウトをしたとき、自分では一つの山を登り終えたような気分でした。でも、実際は始まりに過ぎませんでした。ストレートの女友達は協力的で、彼女たちに突然「ゲイの親友」ができたことに興奮しているようでした。
彼女たちにとって僕は、「一緒にブラを買いに行ける頼れる友達」で、「恋愛について夜遅くまで話しながら髪の毛まで編んでくれる友達」でした。
僕は、「彼女たちの前で勃起したりしない唯一の男性」でもあり、「女性向けファッションのアドバイスができる男性」で、「悲しいときには適切な言葉をかけてくれる男性」だったのです。
最初は、僕もそれでかまいませんでした。ようやく誰かに必要とされたことで、長らく秘密を隠し続けていた自分を生き返らせてくれたから。彼女たちのおかげで、人生で初めて馴染んだような気がしました。
彼女たちは僕を批評しようとしなかったし、不快な思いをさせたりもしませんでした。お互いのバカげたジョークで笑いあったし、一緒に遊んだり、メッセージを送りあったりできる“本当の友達”がいるのは、とても良い気分でした。
ところが時間が経つにつれて、僕の中で「ゲイの親友」というレッテルと共に、ネガティブなものがじわじわと襲いかかりはじめていました。
孤独な「ゲイの親友」
世の中では、僕は“女の子たち”の一人です。でも、僕の心は納得していませんでした。むしろ、残酷だとさえ思いました。
<アーバン・ディクショナリー(スラングを集めたオンライン辞書)>には、「ゲイの親友とは、イケてる女の子たちなら必ず一人は持っている存在。モテる女子の後ろに、ゲイの親友あり」と、書いてあります。
つまるところ僕は、「女友達を陰から支え助ける存在」でしかないということ。永遠に蚊帳の外というわけです。
もちろん女友達と買い物に行くことは多かったし、お泊り会に呼ばれたこともあります。そういうときは、友達のお父さんに白い目で見られるんです。「女の子の集まりに男の子が入っているのはおかしいだろう」「男の子は外でサッカーでもしているべきだ」なんて言われたことも。今考えれば、典型的な同性愛嫌悪だったのですが、当時の僕は「彼が正しくて自分はおかしい」のかもしれないと思いました。
当時は、その場で“たった一人の男の子”であることにも慣れていたし、孤独を感じても涙をこらえることにも慣れてしまっていました。
「ゲイの親友」は、本当は居心地の悪い、孤独な存在になることなのです。
「普通」になりたかった
女友達のことは大好きだったけど、僕が感じている疎外感を彼女たちが理解できないことも分かっていました。「ゲイの親友」として誰かに紹介されたときも、彼女たちに悪気はなかったのです。
でもそれとは別に、「ゲイの親友」として紹介されるたびに僕の心には苦しい感情が生まれました。その紹介を聞いた相手が、僕のことを「ゲイ」という要素だけでしか見なくなるのではないかと思ったし、ゲイであることに悩んだ過去から、そのことだけを強調されるのがツラかったんです。
僕が望んでやまなかったのは、“普通”になること。そして、周囲に適応すること。それなのに僕は、ただ目立っていただけでした。
周囲に受け入れられ、愛されているはずの「ゲイの親友」という存在が、徐々にツラい仕事へと変わっていきました。それでも僕は、顔に笑顔を貼りつけ、のんきなゲイの親友を演じました。映画やドラマで、よく描かれるようなやつです。
そんな時に、昔大好きだったラブコメ作品を見直すと、「ゲイの親友」は必ず脇役であることに気づきました。表面上は、物語のハッピーエンドのために貢献しているようですが、「ゲイの親友」たちが実際にはどんな人たちなのか描かれることはほとんどありません。彼らの人生や葛藤は、物語においてそれほど重要とされないんです。
「ゲイの親友」は、僕のようにストレートの女友達の後ろに立っているだけの存在でした。
「ゲイの友達」と呼ばれない世界
大人になり、LGBTQ+の人たちと友達になるにつれて、レッテルを貼られるだけではない人生があることに気づきました。なぜなら、当事者と一緒にいると「ゲイの友達」と呼ばれることは決してないから。
それでも、ストレートの人たちと一緒にいると、自分はいつも「ゲイの人」。これに違和感を覚えるようになりました。「ゲイの親友」という言葉を聞くたびに、彼らは普通で、自分はちがう、という意味が含まれていることを思い出されるのです。自分は、“もう一方”なのだと。
心理学者のベッキー・スペルマン博士は、こうした特定の枠組みに当てはめることが有害であると警鐘を鳴らしています。
「こうしたよくあるステレオタイプは、当事者を傷つける、ものすごく有害なものになりえます。多くの場合、彼らは女友達の人生において“特殊な役割”を果たすことを期待されています。それは、特定の枠組みに彼らをあてはめ、彼らの本来の人格を無視するものなのです」
「自分が何者であるかを受け入れる過程にある人や、若いゲイ男性の場合、自分をそうしたステレイタイプの役割になりきることが友情の条件だと思いこんでしまう場合もあるでしょう」
これこそ、まさに僕が感じていたことです。
自分にプレッシャーをかけていた
思い返すと、自分に多大なプレッシャーをかけていたことに罪悪感も感じていました。僕は自分の声が「ゲイすぎる」のを恐れて、決して大声を出さず、はっきり話さないようにしていました。「ゲイの親友」という自分を受け入れてもらえる世界の中だけで、僕は進んでステレオタイプを演じることを自分に許していたのです。
僕が「ゲイの親友」というレッテルに悩んでいたのは、10年以上前の話です。でも、今でもこの言葉は、“自分たちとは違う友達”として使われています。これまで以上に、使う表現に意識的になっている現代で、どうして「ゲイの親友」は残っているのでしょうか。もうきっぱりと、やめにしても良いのではないでしょうか。
多くの人は、何も考えず、むしろ親しみを持って使っていることはわかっています。悪意はなく、攻撃するつもりがないことも。でも、この言葉を使われることで、常にゲイの人々は「あなたは違う」というメッセージを受け取っているのです。
僕個人の話をすれば、以前ほどは気にならなくなりました。ようやく自分自身を受け入れ、ゲイであり友達であることを誇れるようになってきたからです。でも、僕が悩んでいた当時と同じような状況にある、孤独な男の子たちのことを思うと心配です。
誰かに紹介されたときの彼らの表情が気にかかりますし、プレッシャーが重くのしかかったときのぎこちない笑顔には胸がつぶれる思いです。彼らの自尊心やメンタルヘルスが心配なのです。
だから、もしあなたに「ゲイの親友」がいるなら、どうか彼らはあなたを“支えるゲイの友達”以上の存在なのだと覚えておいてください。彼らにとって、そのことは大きな意味を持つはずです。
※この翻訳は、抄訳です。
Translation:mayuko akimoto
COSMOPOLITAN UK