「LGBTQ+ムーブメント」とは、性的指向・性自認に基づく人権侵害をなくし、皆が安心して暮らす社会を目指すもの。

世界的な動きとなった現在、LGBTQ+の権利を社会制度として導入する国も増えていますが、これはLGBTQ+の存在がまだ一般的でなかった時代に声をあげ、闘いをつづけたアクティビストたちの功績があってこそ。

歴史をたどると、現在のようなムーブメントになったのはごく最近のこと。差別や偏見を受けながら、社会に対して訴えつづけた人々の勇気の上に、現在があるのです。

そこで歴史に名を遺した「LGBTQ+アクティビスト」をご紹介。ムーブメントが盛り上がる一方で、世界で、日本で、「LGBTQ+の権利しっかり守られているか?」というと、“まだまだ”なのが現状。彼らの活動を知ることは、「自分に何ができるのか?」を考えるヒントになるはずです――。


【INDEX】


ハーヴェイ・ミルク(1930~1978年)

ゲイを公言する初の公職者となった活動家

harvey milk
Bettmann//Getty Images

アメリカ・ニューヨーク州ウッドミアのユダヤ人家庭で誕生。海軍を経て、ニューヨークで証券アナリストとして勤務。またブロードウェイのミュージカルにプロデューサーとして関わり、その頃から政治活動に取り組むようになりました。

1972年サンフランシスコに移住。ミルクは草の根によるゲイ解放運動を展開し、同地のコミュニティで支持されるようになります。二度の落選を経て1977年、サンフランシスコ市政執行委員に当選。アメリカ初の「ゲイを公言する政治家」となり、大きな話題となりました。

 
San Francisco Chronicle/Hearst Newspapers via Getty Images//Getty Images

委員として同性愛者の権利、特にカリフォルニア州の公立学校で、同性愛者の教師を解雇することを義務付ける制度撤廃のために力を注ぎました。

しかし1978年11月27日、ミルクと彼の最大の理解者であったサンフランシスコ市長ジョージ・マスコーニは、元委員のダン・ホワイトに狙撃され死亡。委員に就任からわずか10カ月半後のことでした。

今日に至るまで「ゲイ解放運動の殉教者」としてミルクの名は世界的に知られています。

カール・ハインリッヒ・ユルリクス(1825~1895年)

18世紀ドイツに生きた、LGBTQ+活動家のパイオニア

当時ハノーファー王国だったドイツ北部・ヴェスターフェルト出身。大学で法律、宗教学、歴史を学び、1849~1857年までヒルデスハイム地方裁判所の法律顧問として勤務していましたが、同性愛者であることを理由に職を解雇されてしまうことに。

しかしこのことにひるむことなく、ユルリクスは家族や友人にもカミングアウト。自分のような性的指向の人たちが法律的にも社会的にも自由になることを目指し、性についての研究と執筆活動を続けました。

今日彼が「LGBTQ+活動家のパイオニア」と呼ばれているのは、1867年8月29日に、同性愛者として初めて公の場で同性愛を擁護する発言をしたからです。ミュンヘンで開かれたドイツ法律家会議において、反同性愛法の撤廃を訴えました。そのときの発言が現在も語り継がれています。

「私は、世間からの侮辱というヒドラ(ギリシャ神話に登場する怪獣)に、最初の一撃を与える勇気を持てたことを誇りに思っています」

マーシャ・P・ジョンソン(1945~1992年)

LGBTQ+の権利とHIV(AIDS)撲滅を訴えた、トランスジェンダー活動家

the death and life of marsha p johnson, marsha p johnson, 2017 ©netflixcourtesy everett collection
Aflo

アメリカ・ニュージャージー州で、身体的には男の子として生まれたマーシャは、幼少期から女性の服を好んで着ていた子どもでした。高校卒業後ニューヨークに移り住み、ドラァグクイーンとして舞台に立つようになります。

1969年6月28日、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン」に警察が突入。その場にいたLGBTQ+当事者が警察に真っ向から立ち向かった「ストーンウォールの反乱」が起こりました。この反乱は、LGBTQ+ムーブメントの火付け役となったことで有名ですが、マーシャはその場に居合わせ、戦った一人でした。

この事件をきっかけにマーシャは「ゲイ解放戦線」の創設メンバーとなり、同性愛者の権利獲得運動を本格的に始動。1970年6月には、後のプライド・パレードの原型とされる「クリストファー通り解放の日行進」にも参加しました。

その後、同性愛者だけに留まらず幅広い性的マイノリティ当事者の権利を求めるため、友人でありドラァグクイーンのシルビア・リベラ(1951~2002年)と共に「Street Transvestite Action Revolutionaries(街頭トランスベスタイト活動革命家たち、略称『STAR』)」を創設。セックスワーカーや性的マイノリティの若者を受け入れる「STARハウス」を設立し、身寄りのないLGBTQ+当事者のサポートする活動尽力しました。

1980年代以降はエイズ撲滅活動にも従事していましたが、1992年にハドソン川で水死体として発見。自殺なのか他殺なのかも含め、マーシャの突然の死は現在も謎のままです。

エディス・ウィンザー(1929~2017年)

アメリカの同性婚合法化を前進させた活動家

 
D Dipasupil//Getty Images

アメリカ・ペンシルバニア州のユダヤ人家庭に生まれたエディスは、少女時代から自分がレズビアンであることを自認していました。

しかし当時は、同性愛者に人権が認められなかった時代。レズビアンとして生きていくことに迷い、大学卒業後に幼馴染の男性と結婚するも(ウィンザー姓はこの婚姻によるもの)、1年もしないうちに離婚しました。

大学院で数学の修士号を取得後、16年間IBMに勤務。この時代に後の妻となるテア・スパイアーと出会い、長年パートナーとして暮らしてきました。しかし会社員時代はレズビアンであること公言せず、1975年にIBMを退職した後からLGBTQ+の権利運動に参加するようになります。

supreme court hears arguments on california's prop 8 and defense of marriage act
Chip Somodevilla//Getty Images

エディスが活動家として知られるようになったきっかけは2009年、テアの死去に伴い、相続税の支払いを求められたこと。

二人は1993年に、ニューヨーク市に同性パートナー登録をしており、2007年カナダで婚姻もしています。本来(男女間の)夫婦であれば相続税は免除されますが、エディスの場合同性カップルのであったため、国は正式なパートナーと認めず課税されたのです。

エディスは「課税は同性カップルへの差別である」とし、税金の返金を求め2010年に連邦政府を提訴。同性婚の権利を求めて力強く闘い、2013年に最高裁判所は同性婚を禁じた「結婚法(DOMA)」は人権侵害であると認めました。この裁判は「United States v. Windsor(合衆国対ウィンザー)」と呼ばれ、この勝訴が2015年のアメリカ全州で同性婚が合法化されることにつながりました。

2016年、エディスはジュディス・ケイセンと結婚。2017年9月、ジュディスに見守られ、亡くなりました。

ビリー・ジーン・キング(1943年~)

レズビアンであることを現役時代に告白したテニスの女王

wimbledon lawn tennis championships
Fox Photos//Getty Images

日本では「キング夫人」と呼ばれ、テニス・ファンなら誰もが知る名プレイヤー。世界4大大会シングルスで12回も優勝(ダブルスも含めると何と39回優勝!)。1960年代から20年以上に渡りテニス界に君臨していた女王です。

彼女がLGBTQ+アクティビストとして知られるきっかけとなったのは、1981年に同性愛者であることが報道されたとき。周囲は否定することを勧めたものの「私は(正直に告白)する。どう思われても気にしない。真実を語ることが私には重要なのです」と語り、同性愛者であることを告白したアメリカ初のスポーツ選手となりました。

カミングアウトにより彼女はスポンサー契約をすべて失ったものの、後に続くLGBTQ+アスリートたちが正直に生きるを作ったのです。

2018 new york city pride march
Gotham//Getty Images

引退後は全米エイズ基金やエルトン・ジョン・エイズ基金の理事を務め、1999年には「Chicago LGBT Hall of Fame」に名を連ねました。2009年、長きにわたる女性および同性愛者の権利に貢献した功績から、女性アスリートとして初の「大統領自由勲章」を受章しました。

バイヤード・ラスティン(1912~1987年)

キング牧師の右腕&ゲイ当事者として闘った活動家

 
New York Times Co.//Getty Images

ラスティンは、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者であったキング牧師のアドバイザーを務めた、非暴力主義のアクティビスト。1963年の「ワシントン大行進」を実現させた主要人物の一人です。そして自身もゲイであり、同性愛の権利を求めて活動した人物でもあります。

1962年までアメリカ全州において同性愛行為は違法であり、ラスティンは1953年に同性愛行為により逮捕された経験があります。また彼が同性愛者であったことから、同じ公民権運動の活動家からも批判されました。

bayard rustin
Patrick A. Burns//Getty Images

しかし「少数派に対する差別は、民主主義への脅威である」と考える彼は、自分の性的指向を隠しませんでした。そして1970年代以降、LGBTQ+の権利獲得およびエイズ撲滅のための活動に力を尽くしました。

2013年、オバマ大統領(当時)はラスティンの功績を称え「大統領自由勲章」を授与しました。