2022年6月、米連邦最高裁が人工妊娠中絶の権利を合憲とした「ロー対ウェイド」判決を覆す判断を下したニュースが、世界中で衝撃を与えました。

アメリカにおいて「中絶を巡る議論」は今にはじまったことではなく、長い年月をかけて政治化されてきた歴史があります。なかでも1990年代には中絶反対運動が激化し、人々が命を落とす事件にも発展。

本記事では、中絶クリニックでの爆破事件から生還したエミリー・ライオンズさんが、試練を乗り越え中絶権運動の活動家になるまでを、1999年1月に<グッド ハウスキーピング アメリカ版>に掲載された記事をもとにお届けします。


【INDEX】


中絶クリニック爆破事件の全貌

1998年1月29日の朝、米アラバマ州バーミンガムにある「ニューウーマン・オールウーマン・クリニック」で爆破事件が発生。

病院に務めていた看護婦のエミリー・ライオンズさんはこの爆発で重傷を負い、警備に当たっていた警官ロバート・サンダーソンさんは即死してしまうという、衝撃的なニュースが全米を震撼させました。

当時は、1990年代から激化した中絶反対運動の影響で、同クリニックの前では毎日にように中絶反対派の人々が抗議運動を行っていました。しかし、爆破事件が起こった日の朝には、デモ活動をしていたのはたった1人。その男性はデモ活動上のルールに従って、クリニックの入り口をふさがないよう通りの向こう側にいたため、命拾いしたのだそう。

犯人であるエリック・ルドルフは、1996年から1998年にかけてアトランタ地域で発生した4件の爆破事件に関与し、そのうち1つは1996年に行われたアトランタオリンピックを狙ったものでした。その後2003年に逮捕され、2年後に終身刑を言い渡されました。

エミリーさんは、朝7時33分、駐車場からクリニックまでの階段を上っているときに爆破に巻き込まれました。 爆弾には約4センチの釘が詰められており、10本以上が脚と胴体を引き裂き、左足の脛骨を数カ所骨折。

彼女は約8週間を病院で過ごし、その後も定期的に手術を受けなくてはならない体となりました。炎症などを引き起こさないためには、身体に埋まる破片を適切に取り除く必要があったのです。

夫ジェフ・ライオンズさんの苦しみ

爆破事件の数日後、エミリーさんの夫ジェフ・ライオンズさんは、彼女の車を引き取りに戻ったところ、爆破による破片の跡に印がつけられているのを発見。「一箇所だけ、破片の印がつけられていない部分があり、その場所こそが妻が立っていたところだと気づいた」と話します。

10代の頃に病院で働いていたジェフさんは、緊急事態でも冷静に対処する方法を心得ており、周囲の人からは妻の状況を知りながらも冷静に振舞っているように見えたと言います。ところがジェフさんは、一人になったときに人知れず何度も涙を流していました。

「(エミリーの容態について)右下腹部を負傷していると聞いたので、それが肝臓までいっていれば、彼女は助からないと思いました。でも、奇跡的に肝臓、心臓、そして肺も無事でした。ただ、大腸と小腸の一部を切除する必要があり、脚を切断する可能性もあるとも言われました。最も辛かったのは、(担当医師に)左目を摘出する許可を出さなければならなかった時でした。誰もこんな目に遭うべきじゃないと思います」
「エミリーは、結婚記念日の旅行を楽しみにしていました。旅行をキャンセルするために旅行代理店を出た後、駐車場に停めた車に戻って泣いたのを覚えています」  

その後も残る後遺症

現在はぎこちなく歩くことはできるものの、アイススケートやスキーなどのレジャーを楽しむことはできなくなりました。

それだけでなく、中絶クリニックで手術に立ち会うという仕事も奪われてしまいました。 左目を摘出したエミリーさんは、右目は残っているものの、角膜が爆風によって傷ついてしまい、眼鏡をかけても視力を改善することは不可能になってしまいました。人の顔などは見えますが、運転はできなく、本も虫眼鏡を使ってしか読めないのだそう。

現在でも、脚には真っ赤な十字の傷跡や、組織が破壊された部分は陥没し、移植された皮膚部分はデコボコとした表面として残っています。

しかしエミリーさんは、その爆破事件の影響を世間に知ってもらいたいという思いから、自宅ではショートパンツを履き、外出する時にはスカートを履くと言います。

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中絶クリニックの看護師として

エミリーさんは当時41歳で2児の母、1977年にアラバマ大学バーミンガム校を卒業以来、看護師として働いてきました。

人口90万人のバーミンガムで、中絶手術を行っているのはエミリーさんが働くクリニックを含め3カ所だけで、訪れる患者は高校教師や弁護士、性従事者などと幅広かったそう。

キリスト教バプテスト派の家庭で育ったエミリーさんは、中絶反対の説法を聞いたこともありましたが、心を動かされることはなかったといいます。

彼女の仕事の一つは、中絶手術前の患者にカウンセリングをし、少しでも不安や疑問を抱いていれば家に帰す、というものでした。ところが、そのような状況になることはあまりなかったと振り返っています。

周囲の理解

爆破事件の後、周囲の人々は思いやりのある言葉をかけてエミリーさんを労わりました。

ただし、(ジェフさん以前に結婚していた)元夫は中絶反対派だったため、爆破事件のことを知ると「そんなところで働かせていたのが悪いんだ」とジェフさんに伝えたと言います。そんな元夫に対し、ジェフさんは「エミリーは私の所有物ではないので、彼女がやりたいことに反対することはありませんよ」と伝えたそう。

当時13歳と17歳だった娘たちは、エミリーさんのいない家を守り、病院への送り迎えなども手伝ってくれたと語ります。

そしてジェフさんは、昼も夜も妻の看病に明け暮れることとなりました。それでも、彼女を永遠に失ってしまうかもしれないと思ったときを振り返り、生きてくれている有難さを考えればどんなことも受け入れられると考えていると言います。

「私が恋に落ちたエミリーはまだここにいて、今でも同じように冗談を言い合います。大事なことは何も変わっていないんです」
eric rudolph pleads guilty to string of bombings
Brian Schoenhals//Getty Images

中絶する権利を守る運動の活動家として

爆破事件を経験するまで、エミリーさんは公の場で注目を浴びることはありませんでした。しかし、爆破事件がもたらした恐ろしい代償を世界に示すために、記者会見を開くことを決意したと言います。

また、違法行為によって利益を得るラケッティア活動を規制する「RICO法」の管轄から、政治団体を除外しようとする議会の法案に反対する闘いに参加。これを容認することで政治的目的のために暴力を擁護するグループを起訴することが難しくなると言います。

法案の反対派から証言を求められたエミリーさんは「発言するのは自分の義務だ」と考えるようになったといいます。すぐにワシントンDCに飛んだエミリーさんは、 「アメリカ合衆国下院司法委員会」に対して、「私は爆破事件で吹き飛ばされたことがあるんです。今さら怖気づくことはありません」とコメントしました。

「この法案が通れば、もっと多くの人が命を落とすこととなります。(私に起こったことが)あなたの身近な人など、誰にでも起こりうるようになるんです」
「中絶反対派、中絶賛成派関係なく、クリニックを爆破することは間違っています」

10月には、上院議員選挙に出馬していたチャールズ・シューマー(民主党)候補を支持するテレビ広告に出演。シューマー議員は、中絶クリニックを攻撃したり妨害したりすることを連邦犯罪とする法案を提出し、それが法制化されました。

eric rudolph sentenced for 1996 atlanta olympics bombing
Barry Williams//Getty Images

それでもエミリーさんは、「何も変わらなかった」と吐露します。事件後、クリニックはすぐに修復され、患者もデモ参加者も元の生活に戻りました。亡くなったロバートさんの家族は、取り残されたまま。

しかし、この結果を「犯人が望んでいた通りの世界になった」と受け取るのは、大きな間違いだとエミリーさんは言います。エミリーさんのような、想像もつかないようなダメージを乗り越え、政治的暴力の狂気を証明する存在が声をあげるかぎり、闘いは続いていくのです。

※この翻訳は抄訳です。
Translation: ARI
Good Housekeeping