1997年3月4日、イタリアのベニスで生まれた、ベアトリーチェ・ビオさん。2008年に急性髄膜炎にかかり、両腕の肘から先と両足の膝から下を切断しました。

2021年に行われた東京パラリンピックでは、車いすフェンシングのイタリア代表として出場し、2連覇を達成。Instagramのフォロワーは130万人を超え、「べべ」の愛称で親しまれている彼女の原動力とは? <コスモポリタン アメリカ版>によるインタビューをお届けします。

義手義足を身につけ、新たな自分に

非常に珍しいとされる、命にかかわる細菌感染症の急性髄膜炎にかかったとき、私は11歳でした。その結果、私の顔と体には傷が残りました。生きることを優先するため、肘から先と膝から下を切断することにもなりました。

永遠とも思える時間をひとりで病院で過ごし、腕や脚のない人生を思って不安になりました。自分がみんなとちがうことに怖くなり、5歳から続けてきた大好きなフェンシングが二度とできないのではないかと怯えていたのです。

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しかし、1年ほど集中的にリハビリを行い、特別な義足と義手を手に入れた私は、またフェンシングに復帰することに。そして数カ月後には、イタリアのパラリンピックチームの一員として、車いすフェンシングの大会で初めて優勝しました。

私はこの経験によって生まれ変わり、自分はほかの誰ともちがう存在だと知りました。家族の支えは大きく、私はフェンシングと自分の体に対して新しい感謝の気持ちを抱くようになりました。そして、自分が復活できたのだから他の人にもその可能性があるはずだと思ったのです。

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Paolo Bruno//Getty Images

2009年9月、私は障がいと生きる人々がスポーツを通して生きがいを見つけるための非営利団体、「Art4Sport」を立ち上げました。そこで大勢の人々をサポートしてきたことにより、私は自分の体と折り合いをつけ、受け入れられるようになったのです。自分に自信が出てきて、ありのままで落ち着いていられるようになり、本当に大事なものに気づくきっかけにもなりました。

でも、私のストーリーはこれで終わりではありませんでした。

美容業界に起こりつつある変化

昨年の夏、化粧品ブランド「ロレアル・パリ」から新しいグローバルアンバサダーの一人にならないかと打診されたとき、私はフェンシングを通した啓発活動に集中して取り組んでいました。

正直な話、私はちょっとショックを受けました。というのも誰もが知っているように、美容業界は最近まで“身体的なちがい”を称賛するような場所ではなかったから。私のような外見の人々を、美容業界で見かけることはありませんでした。

そんな彼らが、私にそのままの姿で堂々と出て「美にはあらゆる形があることを世に示して欲しい」と言ってきたのです。

このプロジェクトの意義は、私のプラットフォームを使って様々なバックグラウンドを持つ女性たちにメッセージを伝え、エンパワーすること。そして私の使命は、ブランドのキャッチフレーズである「あなたにはその価値があるから」に、命を吹き込むこと。

まずは、“見る”ことから

こうした美容ブランドの顔になることは、たしかに光栄です。でも正直に言えば、遅きに失するのではないかと感じることもあります。

障がいを持つ人とそうでない人が共生する社会を実現するには、まずは“見る”必要があります。そういった意味で、私の傷や義手・義足は、私が何者であるか、なぜ私に意味があるかを視覚的に伝えやすいと思っています。

もちろん、社会が変化するには時間がかかることも分かっています。だからこそ私は、自分の顔を広告に載せ、私自身がパラリンピックでメダルを獲りつづけることで、その変化を後押ししていきたいと思っています。

"final cut coupez" opening ceremony red carpet the 75th annual cannes film festival
Marc Piasecki//Getty Images

実は以前、バービー人形とのコラボが叶いました。ブロンドのショートカットで、車いすに乗った、私にそっくりの人形です。私の願いは、いつか子どもたちがその人形を見て、「わぁ! あのピクシーカットの人形を見て!」と言うこと。

障がいが“普通”のこととして受け入れられた結果、それについてコメントすることさえなくなればいい。そんな景色が、様々な場所で見られれば良いなと思っています。

※この翻訳は、抄訳です。
Translation:mayuko akimoto
COSMOPOLITAN US