先月、クリスマス直前に<Netflix>が公開した「Making A Murderer」。全10話のこのドキュメンタリー番組は、一瞬でアメリカ中の話題となり、現在もネット上ではメディアが新しい記事を次々と書きたて、掲示板のスレッドが何千件も立てられています。

性的暴行の罪で18年間服役していたスティーブン・エイヴリーという男性が、DNA鑑定により無実だったことが認められ、釈放されるところから番組が始まります。当局のずさんな捜査により、18年間もの人生を奪われたエイヴリーは、メディアに冤罪の恐ろしさを訴えかけたり、市長と会談したりと、ちょっとしたヒーローになります。

失われた18年間のために、エイヴリーが国を相手取って3600万ドル(約420億円)の訴訟を起こしたところで、事態は急展開。その頃行方不明となっていた女性の遺体が、エイヴリーとその家族が住む敷地内で発見され、エイヴリーは殺人罪で逮捕されるのです。

徹底して無罪を主張するエイヴリー。果たして彼は殺人を犯したのか、それともこれは冤罪が明るみに出たことによって恥をかかされた当局側の復讐なのか…。

近年海外では、犯罪を追いかけるドキュメンタリーが流行しています。記憶に新しいのは「The Jinx」。妻を殺害したとして容疑をかけられていたロバート・ダーストという富豪の男性にインタビューを重ね、独自の調査を進めていった結果、カメラの目の前で真実が明らかになるという驚きの展開を見せ、大人気番組となりました。

また、昨年一番話題になったと言っても過言ではないのがポッドキャストの「Serial」。シーズン1では、交際相手を殺害したとして有罪判決を受けたアドナン・サイエドという青年に着目し、冤罪の可能性を示唆するとともに、法制度に疑問を呈しました。

このようなトゥルークライム系のドキュメンタリーを見ていると、多くに共通したメッセージがあります。「現行の法制度の限界」です。現行犯でもなく、物的証拠も決定的なものがない場合、いくら捜査をしても、いくら証言や自白を得ても、真相は当人たちにしかわかり得ない。検察も弁護士も陪審員も、限られた証拠の中から「真実」を想像することしかできないのです。その想像の上で成り立ったシナリオによって裁かれてしまう怖さと、それが映画の中ではなく現実に起きていて、自分にも起こりうるという事実。この2つが、視聴者を駆り立て、議論を喚起する要因になっています。

誰かの感情論によって冤罪につながるというケースはごまんとあり、こうしたドキュメンタリーのおかげで「疑わしきは罰せず」というコンセプトがいま一度、一般市民の間で浸透してきている気がします。

個人的には、こういうドキュメンタリーを見ていると、弁護側と検察側が対立している構造自体にも疑問が湧いてきます。優先すべきなのは「真実の追求」であって、どちらが勝つかとか、どちらがより納得いくシナリオを描けるかというゲームではない。無実の一般市民が、そうしたゲームの犠牲になるというのは本末転倒です。ドキュメンタリーの制作者は、ジャーナリストとして、まさにそうしたゲームや利害関係、プライドなどを抜きに、自由に真実を追求できる立場にあり、その結果おもしろい番組ができあがっています。

おもしろい犯罪系ドキュメンタリーの要素として、一番重要なのは、制作側がストーリーに勝手に色をつけていないこと。トーンを事前に定めず、一貫して中立的な立場から事実を伝え、制作側も最終話がどうなるのかわからないままストーリーを追っていくスタイルだからこそ、誰にも想像できなかった展開が起きるのです。

「Serial」は年末からシーズン2が始まったばかりなので、今からでも十分キャッチアップできます。全編英語ですが、難解な内容でもないので、英語中級レベルぐらいであれば大体の流れはわかると思います。無料で誰でも聴けるので、リアルタイムで追いかけてみたい人にはおすすめです。

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