第1回 オードリー・ヘプバーン Audrey Hepburn
『ローマの休日』や『パリの恋人』、『麗しのサブリナ』、『ティファニーで朝食を』など、誰もが知っている多くの名作を残し、没後23年が経っても衰えない人気を誇る"永遠の妖精"オードリー・ヘプバーン。
美の概念を変えた
オードリーと言えば、サブリナ・ファッションやヘプバーンカットなど、まず思い浮かぶのはファッション。当時は新進デザイナーだったユベール・ド・ジバンシィと映画衣装デザイナーのイーディス・ヘッドによって生み出された、斬新で洗練された"オードリーファッション"は今も各メディアで定期的に特集が組まれるほど、現代に通じるヒントがいっぱい。少年のようにスキニーで、張ったエラや太い眉で「ファニーフェイス」と言われた彼女の登場は、美の概念をもガラリと変えてしまったほどだったのだ。
戦争での体験から、慈善活動を始める
そんなオードリーがユニセフ活動をしていたことは何となく知っている人は多いと思う。1988年、エチオピアの孤児院慰問の翌年にはユニセフ親善大使に任命され、以降、後半生は映画にはほとんど出演せず、アフリカを中心に、中南米、アジアなどを精力的にまわり、恵まれない子どもたちや苦難に直面している人々を励まし、世界に問題提起してきた。
今では女優業よりも国連活動の方が本業なのでは? と思うアンジェリーナ・ジョリーのように、ボランティアや慈善活動に力を入れるハリウッドスターは少なくないけれど、まさにオードリーはその先駆けだったとも言える。
何故、彼女がこんなにもユニセフの活動に熱心だったのかというと、彼女自身が子どもだった第二次世界大戦中 、大きな苦労をしてきたから。戦時中は栄養失調から来る貧血やむくみに苦しみ、食べ物や医療の援助を受けてその命をつないだ経験があったからこそ、貧困にあえぐ子どもたちへの支援とケアを惜しまなかったのだ。
このように語り、自らの信念を最後まで貫いて生きたオードリー。彼女自身にも息子がいるけれど、 常に「もしも自分の子どもだったら」と思いながら、活動先で出会う子どもたちと接していたようだ。
わたしたちは、オードリーのように現地に飛んで活動するなんて大きなことはできないかもしれないけれど 、例えばクリック募金をするとか、ほんの小さなことからでも何かアクションを起こして世界に目を向け続けることが大事なんだと思わされる。そして、平和な日本にいるとなかなか難しいかもしれないけれど、オードリーのように、誰もが「もし、自分だったら?」「もし、自分の子どもだったら?」という自分のことのように考えられる当事者意識を持てば、ほんの少しだけでも現状は良くなるのかもしれない。
ちなみに、華奢で可憐でまさに"妖精"という言葉がぴったりだったオードリー。女優になる前の戦時中はバレリーナとして活動していたことがあり、極秘のバレエ公演を通してオランダのレジスタンス(占領への反対)活動資金に協力していたことがあったそう。
妖精の素顔は、もともと強く美しかったのですね。