ADHDであることを公表している精神科医、サーシャ・ハムダニさん。長年、性格の欠陥だと思ってきたものが脳の機能に問題があるとわかってから気持ちが解放され、その経験をもとに同じ境遇の人々を手助けするようになったと言います。

そんなサーシャさんの実体験を<コスモポリタン アメリカ版>からご紹介します。

語り:サーシャ・ハムダニ

ADHDとのつき合い

小学4年生のとき、代理の先生が来たことがありました。私はクラスメイトを説き伏せて机の上に立ち、大声を出しながら、“反乱”を起こすことにしたのです。なぜだったのか覚えていませんが、たぶん退屈だったから、自分が楽しめることを常に探していたんだと思います。

私は自分のことを「賢くてクリエイティブで、やんちゃな子」だと思っていましたが、先生たちは私を「問題児で破壊的、そして“一貫性がない”子」だと言いました。最後の言葉は、私の記憶の中にずっと残っています。

学校での私の行動を聞いた両親は、とうとう私を小児科に連れてくことに。そしてお医者さんは私にリタリンを処方しました。

※リタリンは日本では過眠症に対する治療にのみ使われています。前はADHDの治療薬としても処方されていましたが、大人や一部の意思に乱用される事件が起こった結果、23年現在は処方が禁止となっています。

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Wachiwit//Getty Images

その日から私のADHDとのつき合いが始まりましたが、両親は私に診断名を伏せていました。私の自尊心が傷つくのを恐れたためです。リタリンは“ビタミン”だと伝えられていたのですが、これがよく効くこと!

45分間の授業に耐えられるようになり、ノートをとって、きちんとしていられるようになりました。机は、クシャクシャの紙やお弁当の残りが詰まったスペースではなくなり、機能的な作業スペースへと早変わり。時計の針の音も気にならなくなって、思考を邪魔されずに先生の質問に答えられるようになったのです。

これはtiktokの内容です。詳細はそちらでご確認いただけます。

私は勉強を心から楽しめるようになり、小学校を乗り切りました。スペリング・ビー(主に小中学生の子どもたちが、英単語の正しいつづり方を競うコンテスト)にも3年続けて出場し、学校が始まる前には、その一年で受ける学習内容を夏の間におわらせて、高校入学前にSAT(アメリカの大学進学適性試験)の模試を受けました。

医学部に行きたいと思っていたので、高校一年生の頃には、卒業後すぐに医学部(大学院)へ進学できる方法を調べていました。アイビーリーグに名を連ねる大学からの授業料も全額負担する奨学金のオファーも断って、ミズーリ大学カンザスシティ校に進学。ここでは6年間で学士と医学博士になれるプログラムを提供していたので、早く医師になれたのです。

大学からは親元を離れ

大学からは親元を離れることになり、はじめて自立した生活を送らなければいけませんでした。初めての解剖学の試験では62点をとり、これは自分にとっては理解がおいつかないほど、あまりに低い点数でした。

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Maskot//Getty Images

不本意ながら両親に伝えると、彼らは例の“ビタミン”を飲んでいるかと聞きます。飲んでいませんでした。一人暮らしを学んでいるうちに、あのビタミンのことを忘れていたのです。そして両親はそのときはじめて、ADHDの診断とリタリンの処方について、真実を語ってくれたのでした。

私は真実を受け入れられず反抗しました。裏切られたと思ったし、がっかりしたし、自分の成績についても混乱しました。私は、薬の効果でこれまで良い成績をとれてきたように感じたのです。

服薬をせずにこれまでにないくらい一生懸命勉強しましたが、次の試験では68点をとり、さらに落ち込みました。かつての私は試験で必ず満点をとり、アイビーリーグに入学許可を認められた存在だったはず。

しかし薬なしではそれができないのだと気づいた瞬間、私のセルフイメージは崩壊したのです。

症状は「性格の問題」ではない

そして、自暴自棄になりました。これまでのようにはできないなら、人生を“楽しむ”ことにしようと、新しい友達を作り、アイデンティティを失った悲しみにふたをしました。でも、夜遊びは私を支えてくれなかったのです。

私と同じプログラムの学生たちは、勉強で私より先に進んでいて、そのことがさらに自分を傷つけました。私は気まぐれに薬を飲み、その結果、常に眠く、食欲がなくなったりもしました。

数カ月後に家に帰って両親と話すと、彼らは「知識は力だ」と言うのです。それは、私が落ち着かない子どもだった頃から言われてきたことです。両親は、私が頭脳を鍛えることに時間を使うことを望んでいました。

今回は、ついに言うことを聞きました。私は次の試験のための勉強をするかわりに、ADHDの歴史や症状、診断、治療、それらについての議論を学ぶことにしたのです。服薬をやめ、注意力の散漫や、感情や衝動的な行動を抑えることの難しさをはっきり認識しました。私はようやく自信を持って、自分の症状がメンタルヘルスや脳機能の問題であって、性格の欠陥ではないと理解することができたのです。

dr sasha hamdani young
Sasha Hamdani

その後の数年間は、目まぐるしい日々でした。徐々に服薬を開始したことで、一日の過ごし方や、医学部での残りの時間をどう過ごすかといったことについて、段階的な計画を立てることができました。そのおかげで外部からの刺激を無視して、重要なことにだけ目を向けられるようになりました。私はついに、アイデンティティが崩壊するような思いから解放されて、ホッと一息をつくことができたのです。

ただ薬のせいで食欲が失せ、よく眠れず、感情の強まりを経験しました。これは子どもの頃にはなかったことです。加齢やホルモン、仕事量やストレスの増大、そして全体像の欠落が、かつてとまったく違う事態を引き起こしたのです。

大学での成績は、常に安定しませんでした。私の学習能力が一貫していなかったせいです。でも、いくつかの奇跡(奇跡というのは、両親からの無限のサポートのこと。特に母は、一カ月間カンザスシティにまで来て、私がちゃんと食べたり、薬を飲んだりするように手助けしてくれました)により、医学部を卒業することができました。

“失敗”を前向きにとらえる

最初は小児科の勉強をしていましたが、精神科に切り替えました。薬物療法とのつきあい方も変え、ルーティンを組み立てたり、過去の“失敗”を前向きにとらえたりと、行動面の修正も行いました。

たとえば、予定よりも半年遅れて卒業した“失敗”は、ほかの人々を助けるため、自分の特異な脳について学ぶための貴重な時間だったと考えられるようになりました。その結果、私は自分のトラウマをより深く理解し、医師として、また一人の人間として、より包括的なビジョンをもって学校を卒業できたのです。

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Klaus Vedfelt//Getty Images

適切な環境と行動の変化は、私の脳にとって栄養のようなもので、必要不可欠なものだと気づきました。自分の欠点を嘆くかわりに、長所(クリエイティビティや粘り強さ、人生へのパッション)を生かすようになったことで、“なまけもの”や“困難に打ち勝つ自制心がない”といった、私に付きまとっていた言葉から脱却をできたのです。

「勇気をもってその道を歩んで」

そして今、私はADHDを専門とする精神科医になりました。当時小学4年生だった私が、ADHDだからといって軽蔑されず、また私の身近な人々も、もがき苦しむ私に長年耐えるという精神的な悩みを経験せずに済んだなら、と思います。

ただ私たちがこういう道のりをたどらなかったら、ADHDは私にとって情熱を傾けるべきプロジェクトにはならなかったかもしれません。患者さんたちに手をさしのべ、SNSを通して啓発することは、私にとっても大変意義のあることです。

もし自分の脳はちょっとちがうと感じているなら、自分でできる最善のことは、自分の脳がどういう動きをしているかを知ること。ADHDがある人は、なまけものでも、不道徳でもありません。

あなたには素晴らしい、回復力のある心があり、標準的な神経を持つ人たちに合わせるためのアドバイスが必要なだけ。だから、自問しながら、勇気をもってその道を歩んでください。その先には、美しい世界が広がっているはずです。


※本記事は、Hearst Magazinesが所有するメディアの記事を翻訳したものです。元記事に関連する文化的背景や文脈を踏まえたうえで、補足を含む編集や構成の変更等を行う場合があります。
Translation:mayuko akimoto
COSMOPOLITAN US