世界で5億冊以上を売り上げたベストセラー『ハリー・ポッター』シリーズ。その作者であり、ハリー・ポッター魔法ワールドのスピンオフ作品である映画『ファンタスティック・ビースト』シリーズでは原案・脚本を務めているJ・K・ローリング

今や押しも押されぬ“世界一有名な作家”の彼女ですが、20数年前は貧しい無職のシングルマザーで、自殺を考えるほど苦しい日々を送っていました。

つらい日々から彼女を立ち上がらせたものとは? 彼女の壮絶人生から、生きるヒント、そして強さの秘密を探ります。

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Dave Hogan//Getty Images
2011年、映画版『ハリー・ポッター』シリーズの最終章『ハリー・ポッターと死の秘宝』のロンドンプレミアにて。メインキャスト3人と共に。

誕生から幼少期

J・K・ローリングは科学技術者の母アンと、ロールスロイス社の航空部門エンジニアの父ピーターの長女として、1965年7月31日に生まれました。生誕名は「Joanne Rowling(ジョアン・ローリング)」。2年後に妹ダイアンも誕生。一家はイングランド南西部グロスターシャーにある街で暮らしていました。

9歳のとき、グロスターシャー内のタッツヒルという街にある瀟洒(しょうしゃ)なコテージに家族で転居し、ティーン時代のほとんどをここで過ごします。

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9歳から18歳まで暮らしたグロスターシャー・タッツヒルにある「チャーチ・コテージ」。2011年にこの思い出の家をローリングは夫の名義で“こっそり”買い戻していたことは、今年ニュースになったばかり。

幼い頃から読書に親しんだ彼女。大叔母から、ジャーナリストであり公民権運動家でもあるジェシカ・ミットフォードの伝記をもらい、大いに影響を受けました。彼女が現在、執筆だけでなく社会活動にも熱心に取り組んでいる源泉はここにあると言われています。

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Alan Davidson//Getty Images
ジェシカ・ミットフォード(1917~1996年)。イギリスの男爵家に生まれ、1939年に夫と共にアメリカに移住。その後アメリカを拠点に公民権運動を行いました。

ローリングの子ども時代は幸せなものではありませんでした。母アンが難病である多発性硬化症を患い、また思春期を迎えたころからローリングは父と不仲に。父と滅多に話すことがなくなり、家庭には常に緊張感が漂っていたそう。

しかしローリングは聡明な子どもでした。学業成績は優秀であり、通っていたセカンダリースクール(中・高校にあたる)では“女子生徒長”にも任命されたほどです。

1982年、エクセター大学に入学。フランス語と古典文学を学びました。在学中に1年フランス滞在も経験。1986年、優秀な成績で大学を卒業したとき、母は車椅子に乗って卒業式に出席してくれました。

悩みの中にいた20代に生まれた『ハリポタ』

大学卒業後の数年間は、ローリングの“放浪時代”。2つの意味で“放浪”していた時代でした。

1つは仕事を転々としていたこと。ロンドンにあるアムネスティ・インターナショナルでのリサーチャー兼バイリンガル秘書や、マンチェスター商工会議所など、短期の仕事を転々としながら生活していました。

もう1つは住居の“放浪”。1990年夏、当時交際していた恋人がマンチェスターにいたため、平日はロンドン、週末はマンチェスターで過ごす生活をしていました。

しかしこの“放浪”から『ハリー・ポッター』が生まれたのです。

最初に『ハリー・ポッター』の着想を得たのは、マンチェスターからロンドンに戻る移動中の電車の中だったそう。

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自身のTwitterで、『ハリー・ポッター』をひらめいたときのことを回想。


“突然ハリー・ポッターのイメージが降りてきたんです。どうしてなのか、何がきっかけだったのかも分からない。でもハリーと魔法学校のアイデアがはっきり見えました。「自分が一体何者なのかまだ知らない男の子」「魔法学校からの招待が来るまで、自分が魔法使いだと知らずにいた男の子」というハリーの基本的なアイデアが生まれたんです。本当に興奮しましたよ” (出典:The Scotsman

そして実際にペンを執り『ハリー・ポッター』を書き始めたのは、ロンドン中心部のやや南にある、大きな乗り換え駅がある街クラパム・ジャンクションのフラット(アパート、Twitterの写真の建物の2階)でした。

ポルトガル時代:最初の結婚と娘の誕生

1990年12月30日、長く病にあった最愛の母が死去します。ほどなくして恋人とも破局。悲しみに暮れたローリングは「海外に出てみよう」と決意。新聞で募集していたポルトガルでの英語教師に応募し、ポルト(ポルトガル第2の都市)に向かいました。

イギリス人とアイルランド人の女性とシェアハウスをし、新しい生活を始めた彼女。ポルト市内の美しいカフェで書きかけの『ハリー・ポッター』の執筆を続けました。

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『ハリー・ポッター』の執筆をしたポルト市内の美しいカフェ「The Majestic Cafe」。

ポルトガルで暮らし始めて1年半が経った頃、彼女はジャーナリスト志望の学生であり、最初の夫となるジョルジェ・アランテスと出会いました。2歳年下の彼はローリングの稼いだ金を使うなど、最初から問題行動がある人物だったと言われています。ほどなくしてローリングは妊娠、2人は彼の実家で暮らすことに。

この妊娠は流産に終わりましたが、1992年10月16日に2人は結婚しました。

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左写真:結婚式でのローリングと夫のアランテス。この結婚式に、イギリスからは妹のダイアンが出席したそう。

翌1993年7月に娘のジェシカが誕生します。“ジェシカ”という名前は、少女時代に感銘を受けたジェシカ・ミットフォードから取ったものです。

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右写真:ローリング(左)、夫のアランテス(中)、夫の胸に抱かれた娘ジェシカ(右)。

しかしこの結婚は13カ月で終わりを告げました。アランテスの家庭内暴力や薬物などの行動に悩んできた彼女ですが、とどめとなる事件が起こったのは1993年11月17日。夫がローリングを平手打ちした上に、(娘と一緒に、ではなく)彼女だけを家から締め出したのです。翌日友人、および警察官を同行して帰宅した彼女は、無事娘を取り返し、数日間友人宅で隠れて過ごした後、イギリスに逃げるように帰国しました。帰国時の荷物には、『ハリー・ポッター』の3章分の原稿も入っていました。

うつに苦しむ無職のシングルマザー

イギリスに戻ったローリングには行く当てがありません。すでに再婚していた父との関係は良好ではなく、帰る実家がなかったのです。

彼女は妹ダイアンとその夫ロジャーが暮らすエジンバラ(スコットランド)に向かい、数週間ダイアン夫妻宅に身を寄せました。仕事もなく、お金もなく、家もない彼女。福祉申請を行い、自治体が用意してくれたカウンシルフラット(行政の手配と補助の元、安価で提供されるアパート)に入居しました。以後、生活保護を受ける無職のシングルマザーとなった彼女は、週69ポンド(約9,300円。現地の物価では7,000円程度の価値)を受給しながら娘との2人暮らしを始めますが、この時期に深刻なうつに苦しむようになりました。

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ANDY BUCHANAN//Getty Images
ローリングがエジンバラにやってきたのは真冬。エジンバラの冬は長く、厳しい。

提供された住まいの居心地が悪かったため、彼女は苦渋の決断をします。カウンシルフラット居住の権利を手放すことにしたのです。高校時代の友人にお金を借り、それを頭金にして自力でアパートを借りることに。しかし無職のシングルマザーに家を貸してくれる大家はなかなか見つかりませんでした。何度も断られた上、やっとのことで新しい家に入居するとまた事件が。1994年3月、ポルトガルから夫のアランテスがやってきたのです。

当時薬物を乱用していたアランテス。彼女は法に訴え、アランテスが2人(ローリングと娘)に会うことを禁止する「接見禁止命令」を勝ち取り、そして同年8月にやっと離婚が成立しました。

カフェで作品の執筆を再開

自殺を考えるほどひどいうつに悩んだ彼女を立ちあがらせたのは、娘ジェシカへの愛でした。

「娘の人生を台無しにしてはいけない」

その思いからカウンセリングを受け、そして書きかけの小説『ハリー・ポッター』を完成させようと再びペンを執りました。

ジェシカが眠った後に自宅で、また乳母車に彼女を乗せ、エジンバラ市内のいくつかのカフェで執筆を続けたのです。

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執筆したカフェの1つ「The elephant house」は、『ハリポタ』ファンの巡礼地にもなっている。

後の大成功を知る由もない当時のローリング。自分と娘の将来を考え、大学の教師養成コースに通い、新たなキャリアを模索します。そして教師として働き、子どもを育てながら空き時間を利用して、第一作『ハリー・ポッターと賢者の石』を書き終えます。図書館で調べた出版エージェントに最初の3章を送りますが、「全章送ってください」と返事がきたのは1社のみだったそう。

エージェント決定後も出版がすぐに決まったわけではありませんでした。12もの出版社から“却下”された後、ロンドンにある大手出版社Bloomsburyからの出版が決定。1997年に『ハリー・ポッターと賢者の石』の初版が発売されました。

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What JK Rowling said about the first Harry Potter book - BBC News
What JK Rowling said about the first Harry Potter book - BBC News thumnail
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BBCの子供チャンネルで1997年12月に放送された、“作家”ローリングの初期のインタビュー映像。第一作の出版を心から喜ぶ素直な気持ちが語られています。撮影されたこの「Nicolson’s cafe」でもっとも多くの部分を書いたそう。理由は家から近かったことに加え、このカフェは義弟がオーナーだったので、コーヒー1杯で何時間でも滞在できる気楽さがあったから。現在はこの場所にカフェはなく、中華料理店になっています。

『ハリー・ポッター』第一作出版後から現在まで

その後の彼女の活躍ぶりは、誰もが知るところ。『ハリー・ポッター』シリーズは全7冊、2007年7月に完結(日本語版最終巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』の発売は翌2008年7月)。2001年から映画化もされ(全8作)、世界各国で大ヒットを記録。書籍も映画も、今なお世界中で愛され続けています。

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Getty Images//Getty Images
2000年、『ハリポタ』のメインキャスト3人が発表されたときの写真。幼くて可愛い!

2013年からは「ロバート・ガルブレイス」名義で、私立探偵を主人公にしたミステリー小説を発表。また2016年から製作されている映画『ファンタスティック・ビースト』シリーズでは、原案・脚本を務めています。

そして人生の伴侶にもめぐり逢いました。2001年に医師であるニール・マレーと再婚し、彼との間には2人の子どもが誕生。公式の場には2人揃って出席することが多く、おしどり夫婦として知られています。

harry potter and the chamber of secrets premiere
Scott Barbour//Getty Images
2002年11月、映画『ハリー・ポッターと秘密の部屋』のプレミアには夫婦揃って出席。

作家として大成功を収めたローリングは、2003年にイギリスの長者番付122位にランクインし、「ハリポタ作者は、女王よりもお金持ち!」(※エリザベス女王はこの年133位)という見出しで、華やかに報道されました。その後も長者の階段を一気に上っていった彼女ですが、今年5月「『ハリポタ』作者は“ビリオネア”ではない」と書かれた記事が掲載され、話題となりました。

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「女王よりリッチだけれど、ビリオネアではありません」――<Daily Mirror>より。

自らが生活保護を受けるなどつらい時代があったローリングは、慈善活動に力を入れる社会活動家でもあります。子供の貧困や福祉に取り組む慈善団体<Lumos>を創設し、他の団体にも多額の寄付をしています。記事によると、彼女が「ビリオネア」ではない理由は、さまざまな団体に総額1億5,000万ドル(約160億円!!)も寄付をしているからとのこと。

さすがJ・K・ローリング、器が違います。

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Samir Hussein//Getty Images
2016年、映画『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』のプレミアにて。エディ・レッドメインと。

彼女の軌跡は単なる「シンデレラストーリー」ではありません。

もがき、苦しみ、絶望の底にいた時代も長かった彼女。息が切れそうになりながらも必死で娘を守り、また自分の道を模索し“書き続けた”ことが現在に繋がっています。

彼女の作る物語は世界中の人たちを喜ばせていますが、彼女自身の物語も多くの人に勇気を与えるはずです。

孤独なシングルマザーから歴史に残る大作家となったJ・K・ローリング。これからも世界中から彼女の活動に熱い視線が注がれ続けるでしょう。