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スポーツ界の人種の壁を打ち破った、先駆者アスリートたち15人の物語

NBA初の「非白人選手」が日系人だったことを知っていますか?

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スポーツ界の人種の壁を打ち破ったアスリートたち ジャッキー・ロビンソン キャシー・フリーマン ワタル・ミサカ セリーナ・ウィリアムズ ノタ・ビゲイ 
Getty Images

10月9日は「スポーツの日」。国境や言葉を越えるスポーツの力は、今あらためて見直されています。しかし、かつて人種差別が蔓延していた頃、社会のいたるところで人種的マイノリティが不利益をこうむっていたのと同じように、スポーツ界においても「人種の壁」は厳然たる事実でした。

人種によって分けられたリーグ、特定の人種しか使えない練習場、観客からの露骨な差別発言…。明らかな不平等のなか競技せざるを得ない選手たちが多く存在しました(そして残念ながら、それは過去の話だけではありません。先日、アイルランドの体操競技イベントの表彰式で、黒人の少女だけメダルを授与されなかった様子が映る動画が拡散され、問題となりました)。

そんななか、圧倒的な努力と才能によって人種の壁を打ち破り、後世に語り継がれる功績を残した選手たちがいます。その活躍は、後に続く人種的マイノリティの選手たちのキャリアを切り拓くものとなりました。彼らは単なるアスリートではなく、社会の変革者だったと言えるかもしれません。

ここでは、ジャッキー・ロビンソンやアリシア・ギブソンといった、スポーツ界の人種の壁に立ち向かった15人のアスリートをご紹介。その勇敢な足跡と偉業を辿ります。

1. ジャッキー・ロビンソン

jackie robinson 1919 1972, major league baseball player, half length portrait wearing brooklyn dodgers uniform, robert f cranston, frank livia, bill klein, harry warnecke, 1949
Universal History Archive//Getty Images

近代メジャーリーグにおける初めてのアフリカ系選手となったジャッキー・ロビンソン。数々の理不尽に耐え抜いた彼は、他のアフリカ系選手の道を切り拓いただけでなく、のちの公民権運動にも影響を与えたと言われています。

1919年にアメリカジョージア州で生まれたジャッキーは、第二次世界大戦で陸軍に従軍したのち、アフリカ系選手だけの野球リーグ、「ニグロリーグ」で野球選手としてのキャリアをスタートさせます。優秀な選手だったジャッキーは、1945年にブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)にスカウトされ、傘下のマイナーリーグでプレーを開始。

しかし、当時はまだアメリカ南部で「人種隔離法」が存在していた時代で、ジャッキーも壮絶な人種差別に直面します。観客や相手チームはもちろん、自チームの選手や審判までもが暴力的な発言や行動でジャッキーを攻撃しました。これに対し彼は怒ることはなく、静かに耐え抜くことを選択。そんな姿を見た周囲も、次第に彼を受け入れていくようになりました。

1947年にはその努力と才能が実を結び、メジャーデビューを果たします。1949年にはナショナルリーグMVPを受賞し、そこからオールスターゲームに6回連続で出場。自チームを複数回の優勝に導くなど、その活躍ぶりは今も語り継がれています。

現在、彼の功績に敬意を表し、メジャーリーグにおけるすべての球団で、ジャッキーがつけていた背番号42番が永久欠番となっています。

2. アリシア・ギブソン

アリシア・ギブソン
Bettmann//Getty Images

テニス界のジャッキー・ロビンソンとも言われたのが、アリシア・ギブソン。アフリカ系女性として初めてのグランドスラムのタイトルを手にした人物です。

1927年生まれの彼女は、12歳でパドルテニスの大会で優勝するなど、幼い頃からその頭角を現していました。しかし、当時はまだテニスが白人エリート男性のスポーツとみなされていた時代。アフリカ系女性であるアリシアにとって、プロテニス選手として活躍するのはいばらの道でした。アリシアの才能を信じる周囲の支援もあって、1950年にアフリカ系の選手として初めて全米選手権出場を叶えましたが、彼女は観客からの罵詈雑言で迎えられます。

しかし、そこからの快進撃はめざましいものでした。1951年にはウィンブルドン選手権にアフリカ系の選手として初めて出場、1956年の全仏選手権の女子シングルスでは優勝を果たし、1957年と1958年にはウィンブルドン選手権と全米選手権を連覇しています。女子ダブルスでも4大大会で計5回の優勝を経験しました。

テニス選手として引退後は、ゴルフ選手としても活躍したアリシア。ただ、当時のゴルフ界にも人種差別は色濃く残っており、トーナメント出場を拒否されたり、白人選手と同じ更衣室を使うことが許されなかったりするなど、不当な扱いを受けたといいます。

生涯を通して人種差別と闘ったアリシア。彼女のバトンは、次に紹介するセリーナ・ウィリアムズに受け渡されることとなります。

3. セリーナ・ウィリアムズ

tennis us open 1999
Mark Sandten//Getty Images

17歳のときに挑んだ1999年の全米オープンを制し、アフリカ系アメリカ人選手として「アリシア・ギブソン以来」史上2人目のグランドスラム優勝を果たしたのがセリーナ。アメリカ屈指の犯罪率を誇るロサンゼルスのコンプトンで、同じくテニス選手として活躍する姉のヴィーナスとともに育ちました。

アリシアの優勝からすでに40年以上経っていたにもかかわらず、「お金がかかる」スポーツであるテニス界にはアフリカ系の選手はほとんどおらず、コンプトンの公営コートで練習していた姉妹は異質の存在でした。

そんなセリーナの偉大な功績はいうまでもありませんが、アフリカ系のカルチャーを象徴するビーズをつけたブレイドヘアで躍動するセリーナの姿は、多くのアフリカ系の選手たちを勇気づけてきました。型にはまらない彼女に対し、否定的な発言や侮辱的な態度をとる人もいましたが、彼女は常に圧倒的な強さで周囲を黙らせてきました。

グランドスラム優勝回数は23回に及び、生涯獲得賞金は約115億円と世界の女子プロスポーツ選手としては史上1位に輝いているセリーナ。彼女は多くの若者にとってのロールモデル的存在です。2023年全米オープン女子シングルス優勝を果たしたココ・ガウフ選手は、「これまで(テニスの世界で)自分が異質だと思うことなく育ってきました。なぜなら世界1位の選手が、自分と同じような見た目だったから」と語っています。

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4. ワタル・ミサカ

wat misaka and lee knorek
New York Daily News Archive//Getty Images

実はNBA(当時は前身のBAA)で初めてプレーした有色人種の選手が、日系人だったことはあまり知られていないかもしれません。彼の名前はワタル・ミサカ。「ワタル」という名前が発音しにくかったので、「ワット」という愛称で呼ばれていました。広島出身の移民の両親を持つ彼は、1923年アメリカ・ユタ州で生まれた日系アメリカ人です。

1943年、地元ユタ大学に編入した彼はバスケットボール部に加入。ポイントガードとして堅い守備が評価されます。とはいえ時代は第二次世界大戦中。米国内で反日感情が高まるなか、ヘッドコーチは、ワットが日系人といえば差別の対象になると考え、ハワイ出身と嘘をついて紹介したこともあったとか。さらにアウェー戦では「ダーティ・ジャップ(汚い日本人)」などとヤジを飛ばされることもありました。

その後NCAA(全米大学選手権)とNIT(全米大学招待大会)、でユタ大を優勝へと導いたワットは、一躍地元ユタのヒーローに。1947年には、現在のニューヨーク・ニックスの前身であるニューヨーク・ニッカボッカーズにドラフト指名を受け入団。アジア系としても、有色人種としても初めてのNBAプレイヤーとなりました。

しかし、結局3ゲームだけ出場したのちに、解雇を言い渡されてしまったワット。解雇の理由は今もはっきりしていないそうですが、彼はそのままバスケ選手として引退を決意し、エンジニアとして普通の生活を送りました。

プロ生命は短かったものの、年月とともにワットの功績にはスポットライトが当たるように。2009年のNBAオールスターゲームではNBAレジェンドとして表彰されたほか、彼の足跡を辿るドキュメンタリー『トランセンディング:ワット・ミサカ・ストーリー』も制作されています。

5. ナット・クリフトン

knicks' nat clifton holding two balls
Bettmann//Getty Images

現在でこそ多くのアフリカ系選手が活躍するNBAですが、かつては白人優位のリーグでした。そんななか、チャック・クーパー、アール・ロイドらと共にNBA初のアフリカ系選手となったのがナット・クリフトン。さらに彼は、NBA史上「初めて正式契約を結んだ」アフリカ系の選手でもあります。

地元シカゴでは高校バスケのスター選手として活躍していた彼は、1947年にアフリカ系の選手だけで構成されたバスケットボールチーム、ニューヨーク・レナサンスとハーレム・グローブトロッターズで活躍します。そのかたわら、オフシーズンにはあのジャッキー・ロビンソンもプレーしていたニグロリーグで野球選手としてもプレーしていました。

恵まれた体格と巧みなボールハンドリングが評価された彼は、かつてワット・ミサカも入団したニューヨーク・ニッカボッカーズからオファーを受けます。1950年、その契約金を受け取ったことで、NBA史上初めて正式な契約を勝ち取ったアフリカ系選手となりました。

しかし、人々の反応は常にあたたかいものではありませんでした。公民権運動が高まっていたとはいえ、遠征先ではチームメイトと同じ宿泊先を使うことはできず、アウェー戦では相手チームのファンから人種差別的な中傷を多く受けたと言います。その一方で、ナットの所属するニックスは3シーズン連続でファイナルに進出。中心選手としてチームに欠かせない存在となった彼は、1957年にオールスターにも選出されています。

ナットは1990年に亡くなりましたが、2014年にリーグの人種統合を推し進めた先駆者として殿堂入りを果たしています。

6. タイガー・ウッズ

タイガー・ウッズ マスターズ 1997
Augusta National//Getty Images

ゴルフ界のスーパースター、タイガー・ウッズの名前を知らない人はいないかもしれません。彼がその名をゴルフファン以外にも知らしめる大きなきっかけとなったのが、1997年のマスターズ・トーナメント。当時21歳3カ月という最年少優勝記録と大会最少スコアを打ち立てたと同時に、アフリカ系のルーツを持つゴルファーとしてマスターズ初優勝を遂げたことでも大きな注目を浴びました。

アフリカ系、ネイティブアメリカン系、アジア系と、実は多様なルーツを持つタイガーが生まれたのは1975年。アフリカ系の選手として初めてリー・エルダーがマスターズに出場を叶えたのと同じ年のことです。そもそも全米プロゴルフ協会は、1961年にアフリカ系のチャーリー・シフォードが入会するまで、「白人のゴルファーしか入会できない」という排他的な決まりがありました。

タイガー自身も14歳のときに受けたインタビューで、「上流階級の白人のものとみられがちなゴルフにおいて、圧力や偏見を感じることがありますか?」という質問に対し、「有名カントリークラブに行くといつも感じます」「『君はここで何をしてるんだ』『ここにいるべきじゃない』と言いたげな視線を感じます」と答えています。それと同時に、「黒人の居場所がなかったマスターズで優勝すれば、僕たち(黒人)にとって大きな意味を持つでしょう」とも語っていました。

まさに有言実行を果たし、ゴルフ界におけるマイノリティへの扉を開いたタイガー。マスターズではこれまで計5回の優勝を果たし、その勝利の象徴であるグリーンジャケットに袖を通しています。

私生活ではスキャンダルや問題行動で批判を浴びることもあったタイガー。2021年には交通事故で大怪我を負い、引退も危ぶまれましたが、2022年のマスターズで奇跡の復活を遂げました。常に順風満帆ではなかった彼の人生ですが、今も現役選手として不屈の精神を見せています。

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7. ノタ・ビゲイ

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Star Tribune via Getty Images//Getty Images

実はタイガー・ウッズの「盟友」であり、非白人選手として功績を残したもうひとりのゴルファーがノタ・ビゲイです。日本ではタイガーほど知られていませんが、アメリカ合衆国を中心に展開する世界最高峰のプロゴルフツアー、PGA ツアーでプレーしたことのある数少ないネイティブ・アメリカンの選手です。

ナバホ族出身のノタは、ニューメキシコ州アルバカーキにあるネイティブ・アメリカン居留地で生まれ育ちます。けっして裕福な家庭ではなかったため、朝5時に起きて掃除や雑用などを引き受けるかわりに、ゴルフ場で練習させてもらい、その腕を磨いたと言います。

1990年、スタンフォード大学に進学すると、ゴルフ部に入部。ここでタイガー・ウッズとも出会います。1995年にはプロへ転向し、個性的なプレースタイルで注目を集めた彼は、通算4勝を挙げる活躍を見せました。

ゴルフ界における人種差別については、「先人のおかげでひどい差別を受けることはなかった」と多くを語ってこなかったノタですが、あるアマチュアトーナメントに参加した際、バンケットへ到着すると、スタッフ用の通用口から入るように告げられた経験を明かしたことも。

腰の故障によりプレーから離れたノタは、現在ゴルフの人気解説者として活躍。そのかたわら、「NB3財団」を立ち上げ、主にネイティブ・アメリカンの子どもたちや若者をサポートする活動を行っています。特に力を入れているのは、スポーツの分野。育った環境や人種による機会の不平等をなくすため、精力的に取り組んでいます。

8. ジェシー・オーエンス

jesse owens track field olympics berlin
Universal History Archive//Getty Images

1936年、ヒトラーの独裁という特殊な状況で行われたベルリン・オリンピックにおいて、4つの金メダルを獲得したのがジェシー・オーエンスというアフリカ系アメリカ人の陸上選手です。ナチス政権下で行われたこの大会において、ヒトラーは「金髪と青い瞳を持つアーリア人種が優れた民族である」という自身の持論を証明しようとしていました。そんな圧倒的逆境のなかで、アフリカ系であるジェシーは金メダルをつかんだのです。

ジェシーは1913年にアラバマで生まれ、オハイオで育ちました。人種差別が色濃く残る時代、貧しい生活を送りつつも陸上競技の才能を開花させます。アメリカ国内の競技会でも、アフリカ系のジェシーが出場するとブーイングが起こるといった露骨な差別を受けますが、大学時代にはすでに走り幅跳びなど複数の種目で世界新記録を樹立し、彼が優れたアスリートであるところは誰もが認めるところとなりました。

そんなジェシーも当初、ユダヤ人や有色人種を迫害するナチス政権下のオリンピック出場を悩んだそう。しかし、「金メダルを取ることがナチスへの何よりの抗議になる」と考え、出場を決めます。その結果、100メートル、200メートル、4×100メートルリレー、走り幅跳びで金メダルを獲得するという快挙を成し遂げました。会場からはドイツ国民を含め喝采を浴びたと言いますが、ほかの優勝者がヒトラーと握手し記念写真を撮るなか、ジェシーだけはヒトラーと会うことすら叶いませんでした。

まさに歴史上大きな意味を持つ勝利を果たし、一躍時の人となったジェシーですが、帰国後も変わらず人種差別の対象となっていたことは忘れるべきではないでしょう。その快挙に対するホワイトハウスや政府の公式声明はいっさいなく、彼が引き受けなくてはならなかった仕事のなかには、「馬と競争する」という、リスペクトを欠いた内容のものもありました。

その功績が公式に称えられたのはベルリン・オリンピックから40年後の1976年。ジェシーには一般市民にとっての最高の栄誉である、大統領自由勲章が授けられました。

9. ウィルマ・ルドルフ

wilma rudolph holding her gold medals
Bettmann//Getty Images

ジェシー・オーエンスの活躍から24年後、1960年のローマ・オリンピックで、アフリカ系女性としてだけでなく、アメリカ人女性として初めて金メダルを3つ獲得したのがウィルマ・ルドルフ。

1940年、テネシー州で22人兄妹の20番目として生まれた彼女は、幼い頃ポリオという重病に冒されます。その後遺症により一時は歩くことも危ぶまれたほどでしたが、家族の懸命なケアもあり、12歳のとき、補助なしで歩くことができるようになります。

ウィルマがオリンピックに初出場したのは、それからたった4年後の16歳のとき。この大会では女子4×100メートルリレーで銅メダルを獲得しています。そして1960年のローマ・オリンピックでは、100メートル、200メートル、4×100メートルリレーで3冠を果たすのです。特に最後のリレーでは、東西統一ドイツ選手団との接戦を制しますが、このときウィルマはこの戦いに勝つことで、前述のジェシー・オーエンスに敬意を表すことができると考えていたそう。

地元テネシーに帰ったウィルマは、故郷であるクラークスビルで歓迎パレードに迎えられます。これは町において初めて白人とアフリカ系の市民が同席することができた、最初の人種統合イベントとなりました。もともと予定されていた人種ごとの祝賀イベントに出席することを彼女が拒否したことで、実現されたのです。

病気の後遺症や人種差別など、数々の障壁を乗り越えて活躍したウィルマ。引退後は後進の指導に注力し、特に恵まれない子どもたちへのサポートを積極的に行いました。

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10. キャシー・フリーマン

キャシー・フリーマン
Lutz Bongarts//Getty Images

キャシー・フリーマンは、オーストラリアの先住民族であるアボリジニのルーツを持つアスリートとして、初めてオリンピックの金メダルを獲得した陸上選手です。その舞台となったのは、2000年、自国で開催されたシドニー・オリンピック。陸上女子400メートルで、当時シーズン世界最高タイムでゴールし、勝利をつかみ取りました。

実は、一部からこのシドニー大会をボイコットするよう要請されていたというキャシー。彼女自身もオーストラリアのアボリジニに対する人種差別的な政策の影響を受けた人物の1人であり、そんな国を代表して戦うのかという主張があったのです。これに対し、彼女は「白人が先住民の命を奪ったことに抗議すべきだと言う人もいます。なぜ自分の仲間たちにも同じことをしようとするのでしょうか? 誰もが自由であるべきです」と反論し、出場を決めました。

彼女はこのオリンピック開会式において、聖火を灯す大役も務めています。白人社会と先住民の架け橋として、自国開催のオリンピックは相当なプレッシャーだったに違いありません。

そんな注目の一戦で彼女は圧倒的な力を見せ、最後の直線で他の選手を引き離し勝利をつかみました。そして優勝を決めるやいなや、オーストラリアの旗とアボリジニの旗を両方持ってトラックを一周したのです。基本的に国旗以外を持ってのウイニングランは禁止されており、彼女自身もメダルがはく奪される可能性すらあることを理解していたといいます。しかし、彼女が罰則に問われることはありませんでした。アボリジニとオーストラリアの調和を象徴する彼女の姿は、まさに歴史を変えた瞬間でした。

11. ライオネル・モーガン

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Bradley Kanaris//Getty Images

アボリジニの人々がオーストラリア国民として市民権を認められたのが、1967年の国民投票。そのおよそ7年前の1960年に、アボリジニ出身のアスリートとして初めてオーストラリア代表に選ばれ、プレーしたラグビー選手が、ライオネル・モーガンです。ラグビー以外のスポーツにおいても、彼より前にオーストラリア代表となったアボリジニの選手はいませんでした。

1938年にニューサウスウェールズ州で生まれたライオネルは、地元のチームでラグビー選手としてのキャリアをスタート。1960年からクイーンズランドでプレーをはじめ、同年にオーストラリア代表としてプレーするチャンスを得ます。代表デビューとなった対フランスのテストマッチで2つのトライを決め、オーストラリア代表の圧勝に貢献すると、同年末にはイングランドで行われるワールドカップに招集。しかし、当時彼はパスポートを持つことを許されておらず、渡航のためには“特別な手配”が必要だったといいます。

1970年代後半にいたるまで、いわゆる白豪主義が根強く残っていたオーストラリアにおいて、アボリジニの人々は激しい差別の対象でした。ライオネル自身も、試合中に相手選手から悪意あるタックルを受けたあと、そのまま相手チームの選手たちの下敷きになり、目覚めたときには病院だったという経験をしています。またあるときは、観客に殴られるという事件も起こりました。そんな逆境のなかでも戦い続けたライオネルは、1962年に「ベスト・バック・イン・クイーンズランド」にも選ばれています。

晩年は認知症と闘っていたライオネルは、2023年の9月17日に、85歳で逝去。生前は、競技のため、また後進のお手本となるため、お酒やタバコにいっさい手を出さなかったといいます。オーストラリア先住民たちの扉を開いた彼の功績を称えるため、ナショナル・ラグビー・リーグの試合ではモニターに彼の写真が映し出され、黙とうの時間が設けられました。

12. シモーン・マニュエル

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Donald Miralle//Getty Images

「白人のスポーツ」という認識が長らくあり、いまだ圧倒的にアフリカ系選手が少ないと考えられているのが競泳。アメリカ国内では、かつて市民プールなどのほとんどが白人居住区にのみ作られ、アフリカ系などのマイノリティにとって、プールで泳ぐこと自体ハードルが高い時代がありました。また、人種差別がひどかった1950~60年代は、アフリカ系の住民が白人と同じプールや海水浴場へ行くことすら許されませんでした。

そんな競泳の歴史に新たな1ページを加えたのが、当時スタンフォード大生だったシモーン。彼女は2016年のリオ・オリンピック女子100メートル自由形で、アフリカ系女性選手としては初めての金メダルを獲得しました。

アフリカ系の選手が最後に個人で金メダルを獲得したのは、スリナム出身のアンソニー・ネスティ選手が優勝した1998年のソウル大会まで遡ります。つまり、アメリカは競泳大国でありながら、アフリカ系アメリカ人の競泳金メダリストを2016年まで輩出していなかったということになります。

自身も水泳を始めた当初、「白人ばかりのプールで疎外感を抱いた」ことを明かしているシモーン。オリンピックでメダルを手にした際は、涙を流しながら、「『自分には無理』だと思っている人たちにとって、私がインスピレーションとなり、泳いでみたいと思うきっかけになれたら」と語りました。現在27歳のシモーンは現役を続行するかたわら、BIPOC(アフリカ系、先住民、有色人種を指す言葉)の子どもたちに水泳の機会を提供する「シモーン・マニュエル財団」を運営しています。

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13. ヴィクトリア・マナロ・ドレーブス

jeux olympiques 1948
Keystone-France//Getty Images

シモーンよりずっと前に、水泳競技で活躍したマイノリティの女性選手がいました。ヴィクトリア・マナロ・ドレーブスというその女性は、アジアルーツを持つアメリカ人女性として、初めてオリンピックで金メダルを獲得した選手です。

1924年生まれの彼女は、フィリピン人の父とイギリス人の母のあいだに生まれました。当時異人種間の結婚は偏見の目で見られており、彼女も幼少期、母親から「顔を見せず、下を見て歩きなさい」と教えられていたそう。また、幼い頃地元の公営プールに通っていた彼女は、自身がプールを使った翌日、水がすべて抜かれているなどのあからさまな差別を経験しました。

16歳のときに飛び込み競技を始めたヴィクトリア。サンフランシスコのフェアモント・ホテル・スイミング・アンド・ダイビング・スクールへの参加を希望しますが、人種を理由に断られてしまいます。その後別のクラブに入りますが、その際も「マナロ」というフィリピン系の苗字ではなく、母親の旧姓である「テイラー」という苗字を使うよう言われました。

そんな逆境のなかでも才能を伸ばした彼女は、1948年、ロンドン・オリンピックの飛板飛び込みと高飛び込みの2つで金メダルを獲得します。アジア系アメリカ人の女性がオリンピックで金メダルを獲得したのはこれが初めてのことでした。

その勝利後、ヴィクトリアは初めて自身のルーツであるフィリピンを訪れ、当時の大統領にも飛び込みを披露しました。1969年にはその功績が称えられ、国際水泳殿堂入りも果たしています。

14. ラリー・クウォン

new york rovers
NHL Images//Getty Images

北米プロアイスホッケー(NHL)で初のアジア系選手としてプレーしたのが、中国系カナダ人のラリー・クォン。NHLにおける彼のプレータイムはごくわずかなものでしたが、リーグにおける人種の壁を破った人物として、今も語り継がれています。

ラリーが生まれたのは、まだ中国系カナダ人たちに投票権が与えられていない1923年。ブリティッシュ・コロンビアで生まれ育った彼は、幼い頃からNHLでプレーすることを夢見ており、16歳のときに地元チームでキャリアをスタート。のちに同地区のトレイル・スモーク・イーターズというシニアチームに参加しました。ここでは通常、選手たちは製錬所で高収入の仕事を与えられていましたが、彼だけはホテルのベルボーイとして働かされたといいます。

第二次世界大戦で従軍後の1946年、NHLのニューヨーク・レンジャーズの選手養成チームに入団するチャンスを得たラリー。そして1948年3月には、1軍に招集されます。これが、アジア系初のNHLプレイヤーが誕生した瞬間でした。しかし、その出番は1分にも満たず、その後彼がNHLでプレーすることはありませんでした。このことについて、ラリーは2011年に『グローバルニュース』のインタビューで「一部の人は、『中国系だったせいか?』と聞きますが、そうかもしれませんし、私にはわかりません」と答えています。

同インタビューでは、「アジア系アスリートの活躍がじゅうぶんだとは思いません。もっと増えることを願います」とコメントしていたラリー。現在のNHLでは、ニック・スズキやジェイソン・ロバートソンなど、アジア系選手も多数活躍しています。ラリーが思い描いた未来に到達したかはわかりませんが、確実に近づいているはずです。

15. モハメド・アリ

cassius clay
The Stanley Weston Archive//Getty Images

最後に紹介するのは、ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリ。彼はボクシングの世界ですばらしい結果を残しただけでなく、人種差別と闘ったアクティビストでもありました。

1942年、ケンタッキー州にカシアス・クレイとして生まれたアリは、12歳のとき自転車を盗まれたことをきっかけにボクシングをスタート。するとたちまち才能を開花させ、ロンドン・オリンピックでは金メダルを獲得。これと同時にプロへ転向しています。

ボクサーとしてめきめきと成長するかたわら出会ったのが、黒人解放運動家のマルコム・X。その思想に共鳴したアリは、ヘビー級のチャンピオンになった1964年にイスラム教に改宗し、名前もモハメド・アリへと変更しました。

そんなアリは1967年、ベトナム戦争へ徴兵されますが、これを断固として拒否します。そのときに放った「ベトコンに恨みはない」「ベトコンにニガー(アフリカ系の人を指す差別用語)と呼ばれたことはない」という発言はあまりにも有名です。

この徴兵拒否により、アリは逮捕され有罪判決を下されたばかりか、ヘビー級王座をはく奪され、プロボクサーのライセンスも停止されることになりました。当時のアメリカ国内は、まだベトナム戦争に肯定的な風潮があった頃。選手生命を投げ出してまでも反戦を主張したアリの姿からは、強い信念が垣間見えます。

そのキャリアを通じて、61戦56勝の成績を残したアリ。けれどその戦いは、リング上だけでなく、不条理や不平等がはびこる世界のためでもありました。晩年はパーキンソン病とも闘った彼は、2016年にその生涯を閉じました。

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長年テニス界の女王として君臨してきたセリーナ・ウィリアムズ選手。2017年には夫アレクシス・オハニアンさんとの間に長女アレクシス・オリンピアちゃんが生まれましたが、その出産体験は壮絶だったのだとか。セリーナ選手が出産直後のとっさの判断が自身の命を救ったエピソードと、その裏にある社会的な問題についてお届けします。

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