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1実の父親との関係は、穏やかなものとはほど遠かった
父、ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世は娘を溺愛していたものの、女遊びや酒で財産を食いつぶし、ジャクリーンの母親とはジャクリーンが11歳の時に離婚。ジョンはジャクリーンとジョン・F・ケネディの結婚式でも泥酔したそうで、結局花嫁の父としてジャクリーンに連れ添う役は、母の再婚相手である継父が務めることに。
2ジョン・F・ケネディの前に結婚しかけた男性がいた
実はジャクリーンには、ケネディとの結婚の前に婚約していた男性がいた。1952年1月の『ワシントン・タイムズ・ヘラルド』紙は、ジャクリーンがイェール大学卒のウォール街に勤める銀行家で、第二次世界大戦に従軍したことのあるジョン・ハステッドという男性と婚約した、と発表。が、結婚に徐々に不安を募らせていたジャッキーは、3月にこの婚約を解消。その数カ月後のディナーパーティーでケネディに出会い、翌年結婚することに。
3"バージン・ブライド"と呼ばれていたものの、実は処女ではなかった!?
4ジョンが大統領になる前に離婚することを望んでいた
ジョンとジャクリーンの結婚生活は、ジョンが大統領に就任しジャクリーンがファーストレディになる以前に、すでに暗礁に乗り上げていたという。
5義父がお金でジョンとジャクリーンの離婚を食い止めようとした
離婚がジョンの政治生命に影を落とすことを誰より心配していたのが、ジョンの父ジョセフ。彼は当時としては破格の100万ドル(約1億円)をジャクリーンに贈ることを提案し、離婚を食い止めようとしたのだとか。
6ジョンとジャクリーンには実は4人の子供がいた
実はジャクリーンが産んだ子供のうち2人は、幼くして亡くなっている。1956年に生まれた女の子はアラベラという名前まで用意されていながらも死産。そして1963年、予定より5週間ほど早産だったパトリックは低体重児で、肺疾患のため生後2日で亡くなってしまったそうだ。
7ファーストレディになる前の仕事はレポーター兼カメラマン
ジャクリーンが結婚前に勤めていたのは『ワシントン・タイムズ・ヘラルド』紙で、街角インタビューも行うカメラマンとして活躍。路上で人々に政治や恋愛、家庭の経済事情などを聞くのが仕事だったそう。
8ジャッキーは前大統領夫人と、あまりうまくいっていなかった
アイゼンハワー元大統領の夫人だったメイミー・アイゼンハワーは、ジャクリーンが若く未熟で、大統領夫人としては役不足だとして「女子大生みたい」と評していたらしい。
9毎日のお散歩が習慣だった
毎日ホワイトハウスの周辺を1人で散歩するのが日課だったというジャクリーン。時にはホワイトハウスの敷地全域(25km)を歩き切ることもあったのだとか。
10姑に「ジョンの浮気は見逃せ」と忠告されていた
自身も夫に散々浮気をされていたジャクリーンの姑ローズ・ケネディは、ジャクリーンに対し、"関係を維持するために、ジョンが明らかに不貞行為を行っていたとしても見逃せ"と言い渡していたらしい。
11ジョンに電気ショック治療を受けさせられた
ある日ジョンが浮気相手のところから帰ってくると、ジャクリーンもジョンも酒に酔って口論に及び、ついにジャクリーンはスリップ1枚で家を飛び出してしまう。ジョンは救急車を呼んでジャクリーンを精神病院に送り、そこで当時鬱病の治療に使用されていた電気ショック治療を受けさせたという。
12ホワイトハウスで幼稚園を始めていた
ジャクリーンはできるだけ子供達をメディアの目から守ろうとしていた。にもかかわらず、子供達を守るのが日に日に難しくなっていると感じており、ホワイトハウスの3階に学校を設置することを決意。有資格の保育士たちを雇い、招待された児童も10名ほど居た上、なんと動物まで飼育していたそう。
14ファッションに批判的な人たちも多かった
今でこそエレガントな着こなしのお手本として、繰り返し模倣されるジャクリーンのファッション。でも実は公の場に登場し始めた頃、彼女のフランス風のファッションは「贅沢だ」と批判されることが多かったのだとか。
15しつこすぎるパパラッチを訴えていた
常々パパラッチに悩まされていたジャクリーン。特に1968年に海運王アリストテレス・オナシスと再婚してからのメディアの執拗さは常軌を逸していたらしい。彼女の一挙手一投足を逃すまいとつきまとったジョン・ガレーラというパパラッチはついにジャクリーンから訴えられ、裁判ではジャクリーンが勝利。
16夫の血を浴びたスーツを脱ぐのを拒んでいた
ジャクリーンの最も有名なファッションといえば、1963年、夫ジョンが暗殺された時に彼女が着用していたピンク色のスーツ。事件の直後、ジョンソン副大統領が大統領に就任。その就任式でジョンソン夫人がジャクリーンに血痕のついた服を着替えたいか、と尋ねたところ「いいえ、あの人たちがジョンに何をしたのか見せつけるのよ」と答えたそう。この服は現在アメリカ国立公文書館で保管されている。
17人生最後の仕事は編集者
1975年に2人目の夫アリストテレス・オナシスが亡くなると、編集者の仕事に就くためにニューヨークへ移住。最初は編集協力として働き始め、ついにはシニア編集者に昇格。1994年に亡くなるまで、そのポストを務め続けたジャクリーン。運命に翻弄された彼女は、最後にやっと自分の人生を取り戻したのかもしれない。