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その激動の人生とファッションを振り返り!
美しさやファッションが全世界の注目の的となった元ファーストレディ、ジャクリーン・ケネディ。
2017年にはJFK暗殺後の彼女を描いた映画『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』が公開されるなど、今でも史上最も愛されたファーストレディとして、そして波乱万丈の人生を送った1人の女性として語り継がれてきた、彼女の生き様。
<marie claire>から、そんなジャクリーン・ケネディの知られざる17のトリビアをピックアップ。表舞台で見せた顔とはまた違う彼女の内面に、ますます興味が湧いてしまいそう。
※この翻訳は、抄訳です。
Translation:山下 英子
marie claire US
父、ジョン・ヴェルヌー・ブーヴィエ3世は娘を溺愛していたものの、女遊びや酒で財産を食いつぶし、ジャクリーンの母親とはジャクリーンが11歳の時に離婚。ジョンはジャクリーンとジョン・F・ケネディの結婚式でも泥酔したそうで、結局花嫁の父としてジャクリーンに連れ添う役は、母の再婚相手である継父が務めることに。
実はジャクリーンには、ケネディとの結婚の前に婚約していた男性がいた。1952年1月の『ワシントン・タイムズ・ヘラルド』紙は、ジャクリーンがイェール大学卒のウォール街に勤める銀行家で、第二次世界大戦に従軍したことのあるジョン・ハステッドという男性と婚約した、と発表。が、結婚に徐々に不安を募らせていたジャッキーは、3月にこの婚約を解消。その数カ月後のディナーパーティーでケネディに出会い、翌年結婚することに。
結婚当初は世間から"バージン・ブライド"と呼ばれていたジャクリーン。しかし実は、ジョン・P・マーカンド・Jr.という男性と、エレベーターの中で初体験を済ませていたのだとか。
ジョンとジャクリーンの結婚生活は、ジョンが大統領に就任しジャクリーンがファーストレディになる以前に、すでに暗礁に乗り上げていたという。
離婚がジョンの政治生命に影を落とすことを誰より心配していたのが、ジョンの父ジョセフ。彼は当時としては破格の100万ドル(約1億円)をジャクリーンに贈ることを提案し、離婚を食い止めようとしたのだとか。
実はジャクリーンが産んだ子供のうち2人は、幼くして亡くなっている。1956年に生まれた女の子はアラベラという名前まで用意されていながらも死産。そして1963年、予定より5週間ほど早産だったパトリックは低体重児で、肺疾患のため生後2日で亡くなってしまったそうだ。
ジャクリーンが結婚前に勤めていたのは『ワシントン・タイムズ・ヘラルド』紙で、街角インタビューも行うカメラマンとして活躍。路上で人々に政治や恋愛、家庭の経済事情などを聞くのが仕事だったそう。
アイゼンハワー元大統領の夫人だったメイミー・アイゼンハワーは、ジャクリーンが若く未熟で、大統領夫人としては役不足だとして「女子大生みたい」と評していたらしい。
毎日ホワイトハウスの周辺を1人で散歩するのが日課だったというジャクリーン。時にはホワイトハウスの敷地全域(25km)を歩き切ることもあったのだとか。
自身も夫に散々浮気をされていたジャクリーンの姑ローズ・ケネディは、ジャクリーンに対し、"関係を維持するために、ジョンが明らかに不貞行為を行っていたとしても見逃せ"と言い渡していたらしい。
ある日ジョンが浮気相手のところから帰ってくると、ジャクリーンもジョンも酒に酔って口論に及び、ついにジャクリーンはスリップ1枚で家を飛び出してしまう。ジョンは救急車を呼んでジャクリーンを精神病院に送り、そこで当時鬱病の治療に使用されていた電気ショック治療を受けさせたという。
ジャクリーンはできるだけ子供達をメディアの目から守ろうとしていた。にもかかわらず、子供達を守るのが日に日に難しくなっていると感じており、ホワイトハウスの3階に学校を設置することを決意。有資格の保育士たちを雇い、招待された児童も10名ほど居た上、なんと動物まで飼育していたそう。
ジャクリーンは学校での語学の授業と旅行を通じて、母国語以外にスペイン語、イタリア語、フランス語を習得していたという。実はこの語学力、大統領選で英語の話せない有権者の票を集めるのに非常に役に立ったのだとか。
今でこそエレガントな着こなしのお手本として、繰り返し模倣されるジャクリーンのファッション。でも実は公の場に登場し始めた頃、彼女のフランス風のファッションは「贅沢だ」と批判されることが多かったのだとか。
常々パパラッチに悩まされていたジャクリーン。特に1968年に海運王アリストテレス・オナシスと再婚してからのメディアの執拗さは常軌を逸していたらしい。彼女の一挙手一投足を逃すまいとつきまとったジョン・ガレーラというパパラッチはついにジャクリーンから訴えられ、裁判ではジャクリーンが勝利。
ジャクリーンの最も有名なファッションといえば、1963年、夫ジョンが暗殺された時に彼女が着用していたピンク色のスーツ。事件の直後、ジョンソン副大統領が大統領に就任。その就任式でジョンソン夫人がジャクリーンに血痕のついた服を着替えたいか、と尋ねたところ「いいえ、あの人たちがジョンに何をしたのか見せつけるのよ」と答えたそう。この服は現在アメリカ国立公文書館で保管されている。
1975年に2人目の夫アリストテレス・オナシスが亡くなると、編集者の仕事に就くためにニューヨークへ移住。最初は編集協力として働き始め、ついにはシニア編集者に昇格。1994年に亡くなるまで、そのポストを務め続けたジャクリーン。運命に翻弄された彼女は、最後にやっと自分の人生を取り戻したのかもしれない。
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