80年代、プレイメイトが過ごした刺激的な日々pinterest

2017927日に『プレイボーイ』の創刊者、ヒュー・へフナ―氏が91歳で逝去した。その彼を語る上で欠かせないのが、全盛期に数々の伝説的なパーティーを開催し、最期を過ごしたロサンゼルスにある「プレイボーイ・マンション」。バニーガールでいっぱいの快楽に溢れた大人の夢の国、というイメージが定着しているこの館は、メディアや世間に注目され続けてきた。

コスモポリタンの今月のテーマ「刺激」に合わせて、そんなプレイボーイ・マンションで暮らした女性にインタビューを敢行。1988年の12月号でプレイメイトとして選ばれ、撮影中にプレイボーイ・マンションに滞在したことがあるカタリーナ・ソウリさんが当時の生活を明かしてくれました!

―どんな経緯でアメリカ版プレイメイトの表紙を飾ることに?

ワクワクする体験と成功を夢見てアメリカへ!

フィンランドで生まれ育ったんだけど、当時10代後半だった私は、もっと"刺激"溢れる経験ができる場所を夢見ていて。

ある日イタリア旅行に行ったときに、当時イタリア版のプレイボーイで働いていたカメラマンと出会い、モデルを務めることになったの。その後、彼が私の写真をアメリカ版プレイボーイの人に見せたことがきっかけで、アメリカから撮影に来てほしいとの連絡が!

1980年代当時のフィンランドは、私にはちょっと物足りなく感じていて…。インターネットがなかった当時に遠く離れたアメリカに行くのは大冒険だったけど、ワクワクする体験と成功を夢見て渡米したの。

その当時の私は奇抜なヘアスタイルを好み、レザーの服をよく着ていたパンクテイストな女の子だったんだけど、一生懸命プレイボーイの女性像に合わせる努力をしたわ。

80年代、プレイメイトが過ごした刺激的な日々

19歳でフィンランドからロサンゼルスに渡ったカタリーナさん。プレボーイ・マンションの生活は衝撃の連続だったようですが…。

すべてが現実離れしていて、まるで夢の世界にいるようだった。

まず、ロサンゼルス空港に着くとリムジンがお出迎え! そのままプレイボーイ・マンションへ。撮影中にこれから6週間滞在する館は、今まで見たことがない物事がいっぱいでワクワクしていたわ。

敷地内にはプール、洞窟、フラミンゴや孔雀がいる動物園、テニスコート、ワインセラー、映画鑑賞をする部屋、ジム、ゲーム専用の部屋などがあって。そこに執事、シェフ、警備員など大勢の従業員が働いていて、あまりのスケールの大きさに、19歳のフィンランドから出てきたばかりの私には驚きの連続だった!

今でも鮮明に覚えている出来事があるんだけど、到着した翌朝に朝食をとろうとしていると、当時ヒュー・へフナ―と婚約中だったキンバリー・コンラッドが登場。彼女が、「庭に猿がいるのよ。もし動物が好きならエサでもあげてきたら?」と勧めてくれたので、キッチンからバナナを持って庭へ。エサをあげようとしたら木の上にいたサルが私を見つけるや否や、勢いよく近寄ってきて…掴まれてしまって、放してくれない。そこへシルクのパジャマを着て新聞を片手に持ったヘフ(ヒュー・へフナ―)と、銃口をこちらへ向けた2人の警備員が走ってきて! 私は「この人たちは猿を撃つの? それとも私撃たれるの⁉」と顔面蒼白。無事、猿は逃げて行き、ヘフが「ケガはない? 大丈夫?」と、とても心配してくれて。これが、彼との出会いでした。その後、病院に行ったんだけど、先生に「一体どこの動物園で噛まれたんだ?」と驚かれ、「ヒュー・ヘフナーのマンションよ」と言って笑いあったのは、今でもいい思い出。

80年代、プレイメイトとして過ごした日々
Getty Images

―プレイボーイ・マンションでは、どんなふうに1日を過ごしていましたか?

ある意味、5つ星ホテルのようだった

朝起きるとまず朝食をとる部屋に行って、自分の好きなものをオーダー。朝食は何でもそろっていて、なければ翌朝には手配してくれたわ。その後撮影へ出かけ、帰りにビバリーヒルズでショッピングなど、運転手に行きたい場所を告げて連れて行ってもらうの。

マンションで過ごすときは、ピンボールなどゲームが充実している部屋で遊んだり、プールで泳いだり、美しい鳥の鳴き声が聞こえる庭を散歩したり、部屋でテレビを観ながらルームサービスを頼んだり…ある意味、5つ星ホテルのようだった。

夜になると、へフとキンバリー・コンラッド、彼の友達たちとテーブルを囲んでディナーを食べたり、映画観賞用の部屋でムービーナイトや、庭でバーベキュー・パーティーなども開催されていたわ。

みんなリスペクトを持って扱ってくれ、とても親切だった。その一方、まるで親が子供を保護するように、外でのパーティーへの参加やクラブに行くことなどに厳しい一面もあったわね。

1980年代にヒュー・へフナー氏と出会った印象は?

ヘフはとても礼儀正しく、紳士的な男性だった。ディナーの時も口数が少なく、周囲が冗談を交して笑いあっている和気あいあいとした空気感を楽しんでいる、といった印象だった。それにいつ会っても、まだ10代だった私にも敬意をもって接してくれていたわ。

―プレイボーイでの経験は、その後の人生にも影響がありましたか?

人生で何をしたいか考えたときに、有名になることよりも大切なことがあると感じた

私にとってプレイボーイでモデルを務めたことは勇気や強さ、自信をくれた大切な経験。撮影を終えてフィンランドに帰ってからは国内で歌手、女優、テレビ番組の司会などの活動をし、幅広い分野にもチャレンジしました。だけど、本当に人生で何をしたいかと考えたときに、有名になることよりももっと大切なことがあると感じ、本を執筆したり絵を描くことに専念するようになったの。

でも、「雑誌でヌードを披露する女性は頭がよくない」という先入観をもっている人たちも中にはいて…。小説を書いても一部の人々に、文学的な背景を持たずに元プレイメイトとして本を出版したことで批判されることもあった。

30年たった今でも、それは消えないスタンプのように感じていたんだけど、今の若い世代は幸いなことに、もっと自由でオープンなマインドで物事を捉えてくれていると感じているわ。

80年代、プレイメイトとして過ごした日々
現在のカタリーナさん

1980年代と今を比べて、どんなことが一番変わったと思いますか?

今は、莫大な情報が溢れている。だからこそ、自分だけの色を大切に。

1989年にはベルリンの壁も崩壊し、それまで閉じていた多くの国が開く過程で、大きな変化が世界のあちこちで起こっていた。もしかしたら、女性の生き方も従来のルールを壊そう!という傾向があったのかもしれないわね。80年代はファッションも肩にボリュームのある服など、女性がパワーを持ち始めようとしていたことを象徴していたはず。

それに1980年代、世界はとても大きな場所という認識がありました。遠い海外に旅行に行くことも珍しかったし、旅先で地下鉄に乗ることですら大冒険のように感じていたほどです。

その一方で今は、インタネーネットの普及に伴って、世界はどこでも行きやすい場所になったし、多くの人が夢を叶えやすくなった。同時に、若い人にとっては、莫大な情報が溢れる中で不安を感じやすい時代かもしれません。

だからこそ、そんな中で本当の自分の個性に向き合って、それを大切にすることが重要じゃないかと思うの。自分だけの色に気付いて開花させることに、美しさの定義があると感じています。