本当はやってみたい仕事があるけれど、「現実には無理…」と考えて動き出せない人は大勢いるはず。そこで、そんな「夢」を実現すべく行動した2人の女性のライフストーリーを、コスモポリタン フィリピン版からお届け。

彼女たちの言葉が、あなたの背中を後押しするきっかけになるかも?

名前:ミッコ・スムロン 

年齢:33歳 

前職:人事職 

現職:クラフト起業家および手書き書体デザイナー

作品はこちら<I Try DIY>、<Mix

――いつからクラフト作家や活字書体のデザイナーになりたかったのですか?

私の家系には、アーティストやパン職人などの職人がいます。私も物心がついたころから、手作りをしていました。5年前にフィリピンに帰ってきてから、ウェブサイト<I Try DIY>を始めました。私が考えたクラフトのコツや方法を他の人とシェアしようと思ったんです。それによって、クラフトの仕事をすることになるとは思っていなかったのですが、以後、クラフトのワークショップや教室を開いたり、クラフト用品を販売したり、ブランドや会社のためにクラフト作りのデモンストレーションやその他の活動をしたり、クラフトについての本まで書くことになりました。

書体デザインは、まったく想像もしていなかった仕事でした。ただ、自分の手書きの文字をフォントに変換するのを楽しんでいただけなんです。

ある日、驚いたことに、オーストラリアの映画製作会社からメールが来て、あなたの書体を映画に使いたいのだが、いくら払えばいいかと聞いてきたんです。フォントをデザインして売るなんて、初めての経験でした。もし計算が間違っていなければ、私の書体は今月で100万回ダウンロードされたことになります。世界中でこれだけの回数、私の手書き書体がダウンロードされているなんて信じられない!

これまで、この2つを仕事にしたいなんてはっきりと口に出したことはなかったと思います。ただ結果的にそうなっただけで、大好きなことで生活できて、幸せです。

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――なぜもっと早くから、そうした関心に沿ってキャリアを積もうとは思わなかったのですか?

ずっと手作りをして来ましたが、自分がそれを仕事にできるだけの才能を持っていると思ったことは1度もありませんでした。アラスカで大学に通っていたときは、ジャーナリズムを専攻していて、卒業するとすぐにニューヨークに移りました。大都市で1人暮らしをしていると、生活費を払える堅実な仕事を持たなくちゃいけないという気持ちになります。だから、そうしたんです。

――そこからどうして、クラフト作家と書体デザイナーに転身しようと思ったのですか?

フィリピンに戻った後も、私は広告会社の人事職として働いていました。フルタイムの仕事と平行して、クラフトの時間をひねり出していたんです。残業がなければ会社で9時から5時まで働き、家に帰ってからクラフトイベントの用意をし、さらに週末も働きました。休む暇もなくて、さすがに疲れてしまったんです。

人事職として、私は従業員に自分の情熱に従うよう勧めていました。自分が好きなことをし、やっていることを大切にするように言っていたのです。私は自分が口先だけで、やるべきことをやっていない気がしてきました。自分に同じことを言い聞かせ、綿密なプランをたて、十分な計算や分析をした後に、思い切って安定した職を辞めることにしました。

――前職に就いていた頃の典型的な1日と、現在の1日の過ごし方を教えてください。

以前の仕事は、繰り返しの多い仕事でした。1日のほとんどは文書を作成したり、書類に記入したり、承認したり、手紙にサインをしたり、メールを出したりしていました。すべてが計画されていて、規則どおりにルーティーン化されていたのです。

転身してからは、毎日が違います。ルーティーンとはほど遠い生活です。ある日は書体をデジタル化し、翌日はテレビ番組のための指導ビデオを撮る、という具合です。毎日が新しい冒険で、わくわくします。

――転身によってぶつかった困難は?

会社員だった頃は、いつお金が入ってくるか、いくら入るのか、わかっていました。しかも、自分の働きぶりにかかわらず、同じ金額が入ってきました。今はクライアントのスケジュールに合わせることも覚えなくてはならなくなったし、仕事がなければ収入もないという、厳しい現実も知りました。何も予定が決まっていないことも、最初は辛かったです。自分でスケジュールをたて、やらなくてはいけないことを先延ばしにしないよう、自分を管理しました。自宅で仕事をするのは居心地が良すぎることもあります。<Netflix>にかじりつきたい誘惑が襲って来るんです。自分が自分自身の上司となって、自分を管理しなくてはいけないこと、それが難しかったですね!

――それでもこの道に留まろうと決心したきっかけは?

新しい仕事が軌道に乗るまではしばらく時間がかかりました。でも、いざそうなったとき、自分が以前よりストレスを感じていないし、何より断然幸せだということに気づいたんです。ただ楽しいからやっていることで、お金も得られるようになりました。1番嬉しいのは、自分がしたい仕事を、したいときにできることです。

――自分の気持ちに従うことを決めてから、どんなことを学びましたか?

情熱に従うのは、簡単なことではありません。ときには、好きなことを仕事にするというアイデアを理想化しすぎて、必要な努力を見落としてしまうこともあります。これまでにないくらい仕事に力を注ぐ覚悟が必要です。もしあなたが自分の好きなことを仕事にできる幸運な人なら、より充実した毎日が待っていることでしょう!

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名前:ライ・デ・グズマン 

年齢:32歳 

前職:IT企業のマーケティング担当 

現職:写真家起業家

作品はこちら<Time Travelers>、<facebook

――いつから写真家になろうと?

子どものときはいつも、自分が芸術的でクリエイティブな傾向を持っていると思っていましたが、何になりたいかはわかりませんでした。ただ楽しんでいただけなんです。写真が自分の表現手段になるとは思ってもみませんでした。ただ、家にはオートフォーカスのカメラがあって、何かイベントがあるときは持ち出していいことになっていました。そのおかげでずっと写真には興味がありましたが、その頃はそれで満足していました。

その後、アテネオ・デ・マニラ大学で経営学を学びましたが、選択科目はいつも自分の関心であるアートやデザイン関係のものでした。その1つが写真だったというわけです。

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――なぜもっと早く写真の道に進まなかったのですか?

正直に言うと、どうやっていいかわからなかったのです。特に自分専用のカメラもない状態では。私は創作の世界に進むための道具も、ビジネスを始めるためのツールも持っていませんでした。友達やいとこが、使わないときにカメラを貸してくれたのはありがたかったです。どうやら私は、物事を人と違ったふうに見たり想像したりすることができるようです。2009年に、写真の見習い訓練プログラムに参加するチャンスがありました。私は友達についていっただけなので、自分が認められるかどうかはあまり気にしていませんでした。でも、そこでプロの写真家の人々に会い、彼らの情熱や責任感、惜しみない指導に触れ、不可能が可能に見えてきました。尊敬すべき人がいれば、(夢を追う理由として)十分ということもあるんですね。それから2年間、週末だけ必死に活動した後、思い切って決断しました。

――なぜ前職を辞めて写真の道に進んだのですか?

実を言うと、結果的にそうなってしまった、という感じです。会社勤めで週5日働き、夜は写真の編集か写真の訓練、土日に撮影をするという生活を送っていると、まるで自分が2人いるみたいで。1人はオフィス街に通う私、もう1人は撮影する私です。忙しいので、家族とも友達とも顔を会わせる暇がありませんでした。で、ついに賭けに出たわけです。副業としてではなく、フルタイムの写真家になるのはどんなものなのか、知りたくてたまらなくなったのです。

――前職に就いていた頃の典型的な1日と、現在の1日の過ごし方を教えてください。

以前はマカティ(マニラのオフィス街でフィリピン経済の中心)で数年間働いていました。通勤は朝夕とも高架鉄道で。日中は、オフィス内の仕切りの中で電話したり、アポイントのセッティングをしたり、将来の取引先にサービスについて尋ねたり。会社の電子商取引の管理もしていました。紙媒体とウェブの両方で使うデザインの仕事は好きでしたね。

今の仕事になってからは、1日の始まりと終わりにお祈りができるのが幸せです。静かなうちに起きて、神と対話して1日の準備をし、それまでの日々に感謝して、来るべき日々に祈りを捧げます。また、たいていは朝のうちに運動をして、撮影に必要な体力や機敏さを養います。机で写真の編集をしていないときは、クライアントやその家族の撮影をしています。今でも昔のように、電話に出るし、アポもとるし、将来の仕事相手にサービスについて必要な質問をします。私はクリエイティブな仕事も起業家の仕事も大切にしているので、会社で学んだことが時間とビジネスを両立させるのに役立っています。

それに時々、"職場"まで行くのに車、レンタカー、船、飛行機などの乗り物にも乗ります。悪くないでしょう?

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――転身によってぶつかった困難は?

自由な時間があり過ぎたことです。それまで、自分の自由になる時間はそれほどありませんでした。私は活動的な人間なので、何もすることがないときは、何か探すタイプなんです。でも、ようやく休息も生活の一部なのだと気づきました。仕事と遊びと休息のバランスを見つけなくてはいけなかったんです。

それから、アップグレードとメンテナンスですね。写真家の商売道具であるカメラのレンズや照明器具は、日々の手入れが必要です。時折、アップグレードする必要もあります。私たちは出来上がった作品とサービスに対価を払ってもらいますが、それを設備に再投資することで、さらに質の高い写真を提供しなくてはなりません。

進むべき方向性にも苦しみました。キャリアを変更することを決めた後、それまでの扉を閉めて、新しい扉を開く必要に迫られました。どんな撮影をするべきか、わからなくなったのです。でも、それまで共に写真の勉強をし、スキルを磨いてきたチームと仕事を続けていくうちに、クライアントから依頼が来るようになりました。

――この道に留まろうと決心した理由は?

好きなことじゃなかったら、辞めるのは簡単です。でも大好きなことは、簡単に辞められません。困難はありますが、プラス面がマイナス面を上回っています。

自分が人々を幸せにしているということも支えになりました。他の人には簡単にこなしているように見えるかもしれませんが、実は撮影は重労働です。でも、これまで撮影した人たちはみな寛大で、私を応援してくれました。これは仕事の原動力になりました。それに、自分が得意なことで人の力になれるのは、楽しいことです。あなたが周囲の人たちと違う力を持っていたり、何か違うところがあったりしても、それでいいんです。自分が力になれる相手がいるということを知るのが大切です。

当初からずっと、私は人の寛大さに助けられてきました。チャンスをくれた人によって、思いがけない成長を繰り返してきたのです。私は今も勉強中ですが、自分が与えてもらった分、他の人にも仕事を回すことができるようになったのは嬉しいことです。

――自分の気持ちに従ったことで、どんなことを学びましたか?

自分の持っているものでどうにかすること。困難な中でも解決策を見出すこと。いつだって学ぶべきこと、改善できることはあります。少しの勇気がとても大きな役割を果たします。楽しむことも忘れないで。いつも人々に感謝して、神様に感謝することです。

※この翻訳は、抄訳です。

Translation:mayuko akimoto

COSMOPOLITAN PH