みーんな彼女のオッパイにガッカリらしいよ!……って、は?

前回前々回にみっちり書き、今回は別の作品がネタにも関わらず、再び「オッパイちゃん」について書こうとしている私です。ここまでオッパイに固執するのは、私がオッパイ自慢だからでもオッパイにひどい強迫観念をもっているからでもありません。ハリウッド映画における「オッパイ問題」がすごーく根深い問題だからです。この原稿を書き始めてから、すでに5回もオッパイという単語を書いています。つまりそのくらい根深い。(←無理め)

いちばん最近、「オッパイ問題」が(私の中で)紛糾したのが、『リリーのすべて』という作品です。自分の身体に違和感を覚え、世界で初めての「性別適合手術」で肉体的に男性から女性になった人物リリー・エルベ(男性名はアイナー・ヴェイナー)の半生を描いた、マジで号泣ものの素晴らしい作品なのですが、この映画に関するある記事を読んで「はぁ?」となってしまいました。

それはリリーの妻ゲルタを演じる女優アリシア・ヴィキャンデルのオッパイが「"8歳児並みでガッカリ"という声が上がっている」という心底どうでもいいニュース、っていうか「ニュース」って呼んだら「ニュース」に失礼なレベルの記事です。1万歩譲って、これを書いた人自身が「8歳児並みでガッカリ」と言っているならまだしも、「という声が上がってる」って、なんだそれ。つい取り乱して「悶々」から「ぷんぷん」にはみ出しそうになります。こういう記事って一体何がいいたいのか、理解に苦しみます。

女子にも蔓延する「デカパイ=神」理論

映画を百本ノックのように見ていると、映画における「局部描写の妥当性」について、なんとなーく自分なりの基準ができてきます。

私の場合、映画の中で女性が脱いでいること、それ自体は否定しません。バストトップは見せなくていいけど、ここはブラジャーはとりましょうよと思う場面すらあります。例えば通常パターンのやや濃い目のベッドシーンの最中に女優が頑なにブラジャーをとらないのを見ると、これはなんか別の意味があるのか?特殊プレイか?とか考え出して作品に集中できなってしまうからです。もちろん作品の狙いに無関係な巨乳も同じこと。観客のそうした違和感は、作品にとって不幸だなあと思います。

表現する仕事においては、大なり小なり同じことが言えます。かくいう私も時折「親は渥美さんの(こういう)原稿を読んでないの?」とか言われたりもしますが、実際のところ全然考えません。もちろん小学生のように無意味に性的ワードを連発しようとは思いませんが(してますけど)、もやもや、ふわふわと書いた原稿は読者の心に何も残ってくれないんですね。あらゆるウケを狙いたい私にとって、スルーされる原稿を汗水たらして書くことほど不毛なことはありません。

とはいえ私は原稿書くたびにオッパイ出してご近所巡りしてるわけじゃないですから、やっぱり女優さんはすごい。そのクリエイションに対する献身は尊敬に値するものです。

まあどうでもいい話ですが、この人のオッパイは別に小学生並じゃありません。pinterest

そんな中でアリシアのオッパイですが、これはいたって自然な展開の中で、大きさに言及する気にならないほど何気なく映る、つまりは映画の一部として完全になじんだものです。にもかかわらずオッパイがデカいのデカくないのって、その前に作品として見るところちゃんと見とんのやろな、われ、とお聞きしたくなります。素晴らしい作品だけに。

さらにそこにある「デカいオッパイ=神」という、恐竜時代かと思うようなアメリカン・マッチョな思考回路にもあきれます。アホな反論と承知で言わせてもらえれば、世の中には男女に関わらず「貧乳支持派」や、私のような「全乳支持派」も少なからずいるものです。

でも何よりも私を悶々とさせるのは、この原稿を書いた人がどうやら女性だということ。ああああ。まったく世の中、どーなっとんねん。

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