バービー人形からパンクの女王に「進化」したニコール・キッドマン

ニコール・キッドマンはそもそもオーストラリアの女優さんで、あのトム・クルーズが「あの女優いいね!」と発見して自分の相手役に抜擢し、大スターになった人。今でももちろん美しいですが、当時の彼女と言ったら、「こんなにキレイな人いるの?」っていうくらいで、本当に驚いたものです。バービー人形そのまんま。

人間が「美人」と感じる顔をCGで作る時、すべてを平均的に整えるそうですが、要するに「美人顔」とは個性があまり感じられないものです。つまり美しい表皮一枚から先に、思いがなかなか及んで行きにくい。例えば、小鼻が張ってて頑固そうとか、顔に傷があるなんてヤンチャなんだなとか、左目は優しいけどシャープな右目が油断ならないとか、そういう人間身やキャラクターを感じないまま、ポワーンとなっちゃう。

ニコールはそういうタイプの最上級美人で、20代の頃の彼女は、少なくとも私には、どこか「ペラッ」とした印象がありました。おちょぼ口の口元をキュッと締めた笑顔とか、逆に「口呼吸?」って感じに無防備に口を開け上目遣いの「ソソる」表情を作ったり。「なんかつまんねーな、ニコール・キッドマン」と、失礼ながら思っていました。

さてそんな彼女の最新作が、前回もちょっと触れた『パーティで女の子に話しかけるには』。演じているのは、1970年代イギリスの小さな田舎町の、アングラパンクシーンを仕切るパンクの女王ボディシーア。白い髪をぼっさぼさにまとめ、下瞼にぶっといアイラインをばーっと雑に引き、鉄工所みたいなところで変なオブジェを作りながら、常に他人に自分に毒づいている――20年前ならやっていないであろうこういう役を、嬉々として演じている今のニコールが、私はもうすっごく大好き。そして劇中で彼女が言うこのセリフにもグッときました。

「進化か、さもなきゃ絶滅よ」

パンクなニコール姐さん、宇宙人と対決も。pinterest

二度目の全盛期を迎えたのは、ニコールが何かを捨てたから

今になってみれば、私が「つまんねーな」と思っていた頃のニコールだって、それなりに戦っていたのだと思います。初期の彼女の作品で私が最も好きな(そして彼女がアメリカで最初に多数の賞を獲得した)『誘う女』で演じた役は、自己愛と自己顕示欲の塊のような田舎町のケーブルテレビのお天気お姉さん。常に「そこまでミニか!」というスーツ姿で脚線美をひけらかし、ボリュームたっぷりのブロンドをなびかせ、利用できる相手は男にも女にも秋波を送り、でも見る人が見ればスッカスカ――という、ある意味で類型的なハリウッドの若手女優をパロッた役でした。

そしてこの作品のガス・ヴァン・サントといい、最新作のジョン・キャメロン・ミッチェルといい、『ムーラン・ルージュ』のバズ・ラーマンと言い、『ペーパー・ボーイ 真夏の引力』(映画史上まれにみるアバズレ役で放尿シーンまであった!)のリー・ダニエルズといい、彼女の新たな面を引き出すのは、常にゲイの監督なのでした。無意識かもしれませんが、これって女優としてすごく賢い気がします。

昨年のカンヌ映画祭には、なんとバラエティに富んだ出演作が5本も出品された彼女、今が二度目の全盛期と言っても過言ではありません。でも一度目の全盛期(私が思うに30代前半)が過ぎた2005年あたり、「最近のニコールはなんだかパッとしないなあ」と思っていた時期もあります。その頃は彼女の顔がボトックスで妙に突っ張っていた時期と重なります。ボトックスが悪いと言っているわけではなく、誰よりも美しい彼女が「表面の皮一枚の美」への執着で揺れていた時期だったのかもしれないなと想像するのです。

そうした時代を経て、彼女が映画業界でトップ女優として生き残っているのは、彼女が「進歩」でなく「進化」――「周囲をうっとりさせる美しい女優」から「自分の目的を持った女優」へとスイッチしたから。そんなニコールが言う「進化か、さもなきゃ絶滅よ」のセリフだからこそ、私はシビれてしまうのです。人間の進化を阻むのは、何か――おそらくそれぞれが持つ何らかのプライド――に、執着してるからなんだなーと実感して。

美、結婚、出産、お金、「女子力」という言葉、周囲の目、誰にでも好かれたいという気持ち。さてさて女子たち、あなたの執着は何でしょうか。

パーティで女の子に話しかけるには

(C)COLONY FILMS LIMITED 2016

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