「俺は逃げない!」といきり立つ、(主に)アメリカの男たち

アメリカ映画を見ているとよく遭遇する、何回見ても「なんでかなー」と思う場面があります。それは「You coward!」と言われて、100人中100人の男がキレること。「coward」はラテン語で犬がしっぽを巻く姿、つまり「臆病者!」「負け犬!」とか「逃げんのか!」とかまあそんな感じの罵り、嘲りなのですが、「はいはい、あっしは負け犬で結構」とか言うアメリカ人は、そもそも"あっし"って言わないことを差し引いても、まず見たことありません。

まあ映画の中の記号のようなもので、脚本の会議とかでプロデューサーが「ここで決定的な決裂が必要なんで、"coward"って言われてキレちゃうって感じで」的なことなんでしょうが、それはそれで"coward"が一般的に「言われるとキレる言葉No.1」みたいな地位を確立しているってこと。とはいえ私も鬼じゃない、映画って大げさなんじゃないの~というお客さんのためにお値引きして、100人中80人くらいってことで。にしたって"いきり立ち率8割"の言葉って、日本じゃなかなか見つかりません。

それってどういうことかなーと考える時は、理屈を裏返してみるのがよろしい。「臆病」って言われるといきりたつ、カチンとくる、不名誉だってことは、みんなが「俺は逃げない」「俺は恐れない」「俺は負けない」「俺は強い」と思いたい/思われたいことの裏返し――ってことなんでしょう。たいへんねえ。

てなわけで前回に引き続き、今回もネタは『ノクターナル・アニマルズ』。この映画を見ながら、私はそんなことをつらつらと考えていました。「coward」は一度も登場しないのですが、登場する多くの男たちが「俺は弱くない!」と叫びまくっている映画なのです。

「これはもしや私たちのことを描いたのでは…」と夢にも思わない、能天気なスーザンことエイミー・アダムスpinterest

「男は強くないと!」で、男も女も自縄自縛

映画の主人公スーザンは、小説家志望の初恋の相手エドワードと結婚したものの、そのうだつの上がらなさがイヤで、別の男に乗り換えて結婚。20年後、そんな彼女のもとに、別れた元夫から『ノクターナル・アニマルズ』という小説の原稿が届き、映画は「今のスーザン」「スーザンが読んでいる小説」「スーザンの回想」の3つを行き来しながら進んでゆきます。

「小説」の部分は、言ってみればスーザンが頭の中で映像化したものなわけで、彼女はその主人公トニーにエドワードをキャストしながら読み進めます。つまりエドワードを演じる俳優ジェイク・ギレンホールは、映画の中でエドワードとトニーの二役を演じているのですが――ここがなかなかのミソ。

「回想」で明かされるスーザンとエドワードの決裂の理由は、エドワードが「スーザンは俺を弱っちい男だと思ってる」と感じたからなんですね。スーザンの側も「そうは言ってないけど、私があなたに感じる"繊細さ"をあなたが"弱さ"だと思うなら、そうかもね」みたいな感じ。ぶっちゃけ弱いと思ってるんだけど、弱いって言っちゃうと怒るだろうから、直接言葉にはしない、ズルい感じです。「小説」はこの「回想」に対する"返歌"みたいなもので、エドワードと同じ顔した主人公トニーは「俺は弱くない」ことを命を懸けて証明しようとします。

「愛か、復讐か。」みたいに言ってる中で、心臓の鼓動みたいに響き続ける通奏低音「俺は弱くない」に、私は思いました。いいじゃん、そんなのどうだって。20年もかけて主張しなくたってさあ。エドワードとスーザンの不幸の根源は、ふたりがふたりとも「男は強くあるべき」に囚われていることで、テキサスという"マッチョど真ん中"で生きづらさを感じていたゲイの監督トム・フォードもそう思っているであろうことは、映画を見れば明らかです。

でもこれがそう簡単にいかないのが現実。「いいじゃん、そんなのどうだって」と言えずに惨めな思いをし、時に女子を虐げることで強さを証明せずにいられない性から、男の人はどうすれば開放されるのかなあ。そして、男は強くあるべき、男が養うべき、という考えで、自縄自縛の女子たちを。

『ノクターナル・アニマルズ』

(C)Universal Pictures

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