「奴隷はなぜ連帯しないのか」の、巧妙な「松・梅」システム

あの国民的アイドルがテレビで「公開処刑」と言われた謝罪をした時、『奴隷のしつけ方』という本がちょっと話題になりました。なぜここまでされて彼らは事務所を出ないのか、SMA…(おっと!)彼らほどの人気と実力があれば事務所なんて関係ないのでは!? と多くの人が思ったわけで、その考察のひとつとして話題になったのが「彼らは精神的に"奴隷"だから」というものでした。

『奴隷のしつけ方』は、「古代ローマの奴隷制度を上手に維持・運営する当時のハウツー本」風に書かれたシニカル系新書みたいなものなのですが、この中で「はー、ご主人様すごいなー」と私が思ったのは「奴隷を奴隷に管理させる」というものです。

ここで仮に「奴隷を管理する奴隷=奴隷・松」「管理される奴隷=奴隷・梅」としましょう。「梅」を管理する「松」は、待遇がちょっと良く、奴隷としては特権的な立場にいます。でもご主人様の逆鱗に触れれば、いつ何時「梅」に転落するかわかりませんし、そうならないとしても「梅」がいることで自分たちの地位が維持されているわけですから、「こんな扱いをするなんて"梅"が可哀そう!」なんてことは100人中99人が言いません。「同じ奴隷を虐げるなんてイヤ」とか「連帯して奴隷解放を目指そう!」なんていう真っ当な行動をすれば、奴隷制度で成り立つ社会自体から敵として標的にされてしまうし、失敗でもした日には目も当てられません。そういうわけで「松」は消極的に――驚くべきは時として積極的に――この奴隷制度を維持する層となってゆきます。

さて今回のネタは、前回に引き続き『ドリーム』。この映画を見たときに、私はこの、奴隷制度を維持する「松・梅システム」を思い出しました。「梅」はもちろん、黒人女子たち。そして「松」が誰かと言えば、白人女子です。

キルスティン・ダンストも、意地悪おばさんを憎々しく演じられるようになりました。pinterest

日本の「女性活躍の時代」が、お題目でしかない理由

映画にキャラクターとして出てくる白人女子はふたりだけ。そのうち印象的なのは、キルスティン・ダンストが演じるヴィヴィアンです。彼女は黒人女子のみで構成された「西計算グループ」に組織からの指示を渡す役割で、それこそ黒人の計算係を「あの部署に計算機2つ持って行って」みたいな調子で、常に高圧的に接してきます。3人の主人公のうちのひとり、誰もやる人がいないので仕方なくグループを仕切っている姉御肌のドロシーは、「現状として私が仕切っているんだから管理職にしてもらえないか」と訴えますが、ヴィヴィアンは「黒人は管理職にはなれない。理由は知らないけど、上に聞くつもりもない」と一蹴。マジで嫌な女なんですね。

映画でフューチャーされるのは「黒人女子の計算係」ですが、それとは別に「白人女子の計算係」もいて、両者には待遇差――配属される部署、給料、出世――があることがそれとなく示されます。でもじゃあ白人女子が白人の男に対して差別されていないかと言えば、やっぱりされてるんですね。だってNASAの有人飛行計画の中枢には白人の男しかいないし、白人女子の計算係は結局は「計算機」で、当時導入されつつあったコンピューターによってお払い箱にされるのは目に見えているんです。

この「松・梅システム」、実のところ今の時代にも形を変えながら普通に残っています。「業務職と総合職」も「派遣と正社員」も、ちょっとひねって「産む人と産まない人」というのもあるかもしれません。何らかの理由で、例えば総合職が「女のくせに」とケナされるとき、業務職は「女らしく」男たちに尽くしてしまうし、「産む人」の遅出早帰りを、「産まない人」は「こっちは深夜残業なのに気楽なもんだよね」と、男中心の社会になじみ切った思考回路で責めてしまいます。でも人間だもの、この両者が一枚岩になるのは、やっぱりすごーく難しいなとも思います。

映画でこの状況をぶっ壊してくれるのは、ケビン・コスナー演じる有人飛行計画を仕切っている上司なのですが、それは決して彼が立派な人だったからではありません。彼ら白黒男女の唯一の共通項である「アメリカ人」に、ソ連という強大な敵がおり、一枚岩にならなければ彼らを打ち負かせない!という、強烈な目的意識と危機感があったからです。

転じて現在の日本。「女性活躍の時代」とお題目並べてる政治家のおっさんたちは、高度経済成長とかバブルとか美味しい時代を、どこぞのお坊ちゃんとして生きてきて、危機感なんてこれっぽっちも感じたことのない人たちばっかり。こんなんで女子たちの悶々がなくなるわけないよなあ。

『ドリーム』

(C)2016 Twentieth Century Fox

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