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ロッタちゃん はじめてのおつかい(予告編)
ロッタちゃん はじめてのおつかい(予告編) thumnail
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外伝『ロッタちゃんとかけっこ』で、自己主張をいさめられたロッタちゃんは。

さて、今回も前回に引き続き、『ロッタちゃん、はじめてのおつかい』です。

自分がしたいこと、したくないことがはっきりしたロッタちゃん、ついに学校に通い始める年齢になりました。さまざまな行事で集団行動が強いられるのはある程度は仕方ないこと――少し大人になったロッタちゃんは、いつものようにしかめっ面になりながらもどうにかやり過ごしていましたが、ついに悶々極まる瞬間がやってきます。運動会です。先生がこんなことを言いだしたからです。

「運動会ではゴールの前にみんなで手をつないで、みんなで一緒にゴールテープを切ることにしましょう」

ロッタちゃんは「私はなんだってできる子」で、かけっこで一等賞が取れるかも!と思っていましたから、先生のこの言葉に「マジで?」と驚きます。そんなことされたら一等賞になるどころか、自分が「一等賞になれるかどうか」もわかりません。万が一なれなかった時に、「なれるまで練習しよう!」と気合の入るタイミングも逃してしまいます。ロッタちゃんは思わず手を挙げて言います。

「先生、せっかくの機会なので私は一等賞になりたいし、なれるかどうかためしてみたいです」

すると先生は言います。

「一等賞になりたくてもなれない人が可愛そうだと思いませんか?誰か一人が目立つようなことを避けるのは、"和を重んじる"ためにすごく大事なことですよ」

ロッタちゃんは納得がいきません。だってこの間、同じクラスのエッラに「どうせなら一等賞になりたいよね~」と言ったら、「一等賞になりたいなんて、そんなこと全然思わない」と言っていたのを覚えていたからです。

「でも"かけっこで一等賞になりたい"と思っていない人もいるから、必ずしもかわいそうではないと思います」

先生が言った「和を重んじる」という言葉もロッタちゃんにはよくわかりません。

例えば100歩譲って、「みんなでゴールすること」=「争わないこと」だとしても、実際に足が速い人と遅い人がいるのは明白です。「和を重んじる」って、一等賞になりたくてもなれない人がいる、だから「みんなが一等賞」という嘘っぽくて表面的な状況をでっちあげること?でもそしたら「一等賞になりたくてもなれない人」の、本当は「一等賞になりたい気持ち」は、永遠に実現にむけて動き出さないのでは?

"誰も抜け駆けしない"というお約束が作られたかけっこなんて、フォークダンスと同じじゃないかしら――ロッタちゃんは思います。「みんなで仲良く型どおり」はフォークダンスなら楽しいけれど、かけっことしてはやる気にならないし、「うまくいった…嬉しい!」「うまくできなかった…悔しい!」という心の動きは何ひとつない、退屈なルーティーンでしかないんじゃないかしら。それってやる意味あるの?

「和を重んじる」の意味が、全然変わってきちゃってる昨今

ロッタちゃんが悶々と考えていたその時、ド保守系優等生のハンナが手を上げました。

「うちの学校ではずっと"みんなでゴール"が普通だったんだし、ロッタちゃんは自己主張が強すぎると思います。他には誰もそんなこと思っていないし、彼女は早くも"和"を乱していると思います」

意見言っただけなのに自己主張が強いって?「和を乱す」って??ロッタちゃんは思わず言います。

「でもエッラは"かけっこで一等賞になりたいなんて思わない"って……」

教室で始まった議論を、どっちでもいいけどな~と適当に聞き流していたエッラは、突然のことに、え?私?と驚き、アワアワし始めます。

「でもロッタちゃんみたいな自信満々の人に"一等賞になりたくない?"って聞かれて、"私もなりたい!"なんて答えられる人なんていないと思います。そうでしょ、エッラ?」

「え、あの、っていうか、どうなんだろ、はい」と応えるエッラを見て、ロッタちゃんは思います。エッラはどっちでもいいんだな、どっちでもいい人は、その場の空気を読んで、とりあえず乗っかっちゃうんだな、と。

そして、ここで言われている「和を重んじる」の本当の意味にも気づき始めます。「和」って、●×▼◇■◎という様々な意見を上手にまとめる包容力のことではなく、誰もが「私、ホントのことを言えば●でなく■なんですけど…」と言い出しにくい空気の中で、全員の意見を●●●●●●に表面上揃える狭量さのことなんだな、と。それって「和を重んじる社会」でなく「全体主義」のような気もするけど、とも。

「それではロッタちゃんの他に反対意見がなければ、いつもどおり"みんなでゴール"にしたいと思いますが、何か意見はありますか?」

自分の意見を持ち、きちんと言葉にすることが大事ですよ、と常々言っている先生は、発言がないことを「賛成」だと理解し、別の反対意見がなかったことに「やれやれ、面倒なことにならなくてよかった」という感じで胸をなでおろします。

ゆとり世代の「みんなでゴール」は、今では「そんな学校はなかった、都市伝説だった」という見方が大勢のようですが、この話がまことしやかに語られた理由はなんとなくわかります。というのも、マスコミ業界でフリーランスで働く――つまりいろんなことで個性や自己主張がよしとされ、一見個性的かつフリーダムなイメージの周辺ですら、こういうロッタちゃんみたいな場面に日常的に直面するからです。

言うまでもないと思いますが、この「ロッタちゃんとかけっこ」は私の個人的な体験をもとに作った創作です。「自己主張がない」と「自己主張をするな」のジレンマの中、自由と自己主張の塊だった多くの"ロッタちゃん"は「どっちでもいいです」な女子に成長してゆくのかもしれないなあ。

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