「あるあるある」と笑ってる場合じゃない、由々しき事態

さて前回に引き続き『フランシス・ハ』。いつもカツカツの貧乏暮らしの27歳のダンサー、フランシスは、親友ソフィーに同居の解消を切り出され、恋人と別れ、所属するダンスカンパニーもクビ寸前。我に返って周囲を見渡してみると、同世代の友達はみなそれなりの人生設計で暮らしていて、自分だけがすっかり取り残された気分になってしまいます。

そんな中、「自分だって」とちょっと大人ぶって、税金の戻りで男友達に食事をおごろうとするエピソードが最高です。いざ支払いの段になり「ここは私が!」「いいの?君は大人のレディだね」なんてやり取りを経て差し出したカードが、使用金額の上限を超えて使えません。慌てて現金を下ろしにいくけど、ちゃんと動くATMは見つからないわ(アメリカにありがち)、やっと見つけたATMで「手数料3ドルかかります」の表示に一瞬凍りつくわ、慌てて走ってコケて流血するわで、「慣れないことしたらあかん」という事態の連続です。

この映画を見た人の多くが、そんな無様なフランシスに見るのはまさに「大人になり切れていない自分」そのもので、ついつい笑ってしまったけれど、よくよく考えたら笑ってる場合じゃないですよね、みたいな気持ちに囚われるのですが、中でも私の心に最も強くそう思わせたのは、たまたまソフィーを知っていたある初対面の女性から言われたこのセリフです。

「ソフィーよりずっと年上かと。でも大人っぽくはない。不思議ね。顔は老けてるのに」

「人生を楽しんでいれば、女性は老けないものなのよ!」

「老け顔」というと、私には必ず思い出す人がいます。それは中学時代に同じ学年にいたM君という男の子です。彼はその当時、世間をものすごく騒がせていた未解決事件の手配犯に似ているという理由から、中学生だてら警察に職務質問されたことがあるという逸話を持つ「伝説の老け顔」です。

確かに、175cmを上回る身長、まとまりの悪い天パーのヨレた73分け、顔は無表情な岸部一徳を20年若くしたような感じで銀縁メガネ、さらにあんまりおしゃれに構わず、あまりしゃべらないという地味な性格も手伝っていたのかもしれません。中学生の頃の私には到底同年齢とは思えず、23年ダブってる人?くらいの感じでした。

ところが今、卒業アルバムの中のM君を見ると、まったく老けて見えません。老けて見えていたのは自分たちが中学生だったからで、今見れば可愛いもの。せいぜい20歳くらいにしか見えない(まあ中学生にしちゃあ老けてますが)ぴちぴちの若者です。つまり彼の顔は「大人っぽく見える要素」(例えば「顔が長い」とか「鼻が長い」とか「顎が四角い」とか)があっただけ、形として老けて見えるだけだったんですね。

さてその一方で、20代後半に中学生に間違えられたことがある小柄童顔の私は、ある年齢を超えたころに自分が「年齢なり」に見えていることに気付きました。年齢を聞かれて正直に答えた時に、相手が言う「お若いですね~」に「気を使って言ってみました」という風情が臭い始めたのです。私の顔はM君とはすべてが正反対、つまり形としては全然老けて見えるはずがないのに、やっぱり年齢を重ねることで否応なく内面から出てしまう「老け汁」みたいなものは、もはや隠しようがありません。

問題は、にもかかわらず「大人っぽくは見えない」こと。文字にすると思いのほかの破壊力に慄きますが、つまりは「老けた童顔」です。そこに漂う、熟成する前に酸っぱくなっちゃったワインとか、美味しく戴く前に古漬けになっちゃった糠漬けみたいな風情は、由々しき問題のような気がします。フランシス・ハを見て「あるあるある」と笑ってる場合じゃありません。てかそういう精神性こそが、私を大人へと成長させない阻害要因なのでは。「バカおっしゃい!人生を楽しんでいれば、女性は老けないものなのよ!」と女性誌っぽく言うことができず痛恨です。ま、いいんだけども。楽しいから。

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