生き方がいろいろありすぎて、思わず「死んだ子の年を数える」

ご存知のように私はライターで、それもどちらかというとウケ狙いの気持ち満々のライターなので、「面白い言葉」を日々探しているところがあります。個人的に古い言葉が結構好きなのですが、「死んだ子の年を数える」というのもそのひとつ。子供を亡くした親が「もしあの子が生きていれば、今年は七五三だったはず。今頃成人式だったはず」と考えてしまうこと、結構切ない話ではあるのですが、つまりは「"たられば"考えて嘆いてもしょうがないこと」という意味で、これ女子が意外とやってしまうことだと思います。あの時の彼と結婚していたら今頃ニューヨーク住まいだったはず、とか、あの時仕事を辞めていなければ私にもキャリアがあったはずとか。生き方にバリエーションがありすぎる時代の、贅沢っちゃあ贅沢な悩みかもしれません。

なんのこっちゃとお思いでしょうが、さて今回のネタも前回に引き続き『少年は残酷な弓を射る』。主人公のエヴァは書店のショーウィンドウにその巨大なポートレートが飾られるような人気作家で、夫は旅先で出会ったフォトグラファー。2人は恋に落ちて結婚し、第一子であるケヴィンを設けます。ところが子供とは無縁の人生を送って来たエヴァには、その扱いが全く分かりません。どんなに頑張っても息子にはなんも伝わらず、ケヴィンは母親が嫌がることしかしない幼児へ、少年へと育ち、ついにはある大事件を起こしていしまいます。

考えれば考えるほど、子供を産むことは恐ろしすぎ

この作品を見た時、私が強烈に感じたのはこの一言に尽きます。「子供を持つことってマジで怖すぎ」。ケヴィン、難しすぎます。まるで子供を産みたくなかったエヴァを責めるかのように、赤ちゃん時代は常に他人が振り返るほど泣きまくり、幼児時代は懸命に遊んであげようとするママをガン無視、大きくなってもおむつ卒業を拒絶、食事はことごとくひっくり返し、新しく生まれた妹をイジめ、さらにこうした一般的な「母親の関心を引きたい」という行動とは程度が異なる、邪悪な行動も多々あります。

まあここまでは1万歩譲ってよしとしても(ぜんぜん、よし、じゃないけども)、何が怖いって、彼の行動の結果を、すべてエヴァが引き受けざるをえないことです。彼が起こした事件は「責任を取る」という言葉が無責任にしか聞こえない、とりかえしのつかない大事です。確かにエヴァは「ダメ母」ですが、この事件が彼女の行動いかんで防げたはず、彼女の責任だとは私は全然思いません。よく「親の愛情が足りないから子供が犯罪者になる」という古典的なことをいう人がいますが、親の愛がない人がすべて犯罪に走るわけじゃなし、すべてのパターンにおいてそれが真実とは言い切れません。

でもあたりどころのない社会はエヴァを徹底的に唾し続けるのも、わからないではありません。そしてすべてを失いながらその後も同じ町に住み続け、それ以外の「責任の取り方」を知らないかのように、その罰を徹底的に受け続けます。これが延々と続きます。客観的理論的に見て非常に理不尽です。

でも私を最も悶々とさせるのは、そういう客観的な理屈を当事者の「子供」は絶対に許してくれないに違いないことです。はた目から見てどんなにいいお母さんでも、子供は自分が満足できなければ「ママの愛が足りない!」と泣き続け、責め続け、母親に罰を与え続けます。小学校でいじめられっ子になる。中学校でいじめっ子になる。グレる。高校生なのに友達も恋人もできない。大学受験に失敗する。社会に出て鬱になってしまった。仕事しないでひきこもる。ネトウヨになる。ヘイトスピーチし始める。とんでもない事件を起こす。

んなことを考えると、恐ろしすぎて子供なんて産めたもんじゃないよね――と、子供を産もうとしたことすらない友人たちと、よく話します。そんな時にふと気づくのは、自分が「死んだ子」どころか「産んでもいない子供の年を数えている」ことです。ここまで深追いした思考と、そこに費やした時間の、今世紀最大の無駄っぷり。

私は40代で子供を産んだ友人に「子供を持つ恐怖になぜ打ち勝てたのか?」と尋ねました。返って来た答えは「考えるのが面倒になったから」。なんと言う金言。発想の転換。ブレイクスルー。煩悩が哲学に変わる瞬間。いろいろ迷っているそこのアナタ、考えるのを止めることですってよ。

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