「母性本能をくすぐるタイプ」は、おっさんだって大好き

こう見えて私は、小さいものフワフワなヤワヤワしたものが好きで、その最たるものである赤ちゃんが大好きです。電車の中に赤ちゃんがいたりすると「うばばばば~」とちょっかいを出し、幼児のいる家に行けば自然と子供がその人の膝の上に座っているみたいなこともよくあります。ところがこうしたいわゆる「子供好き」の私を、「母性本能が強い」という人はなぜかほとんどいません。「母性」という言葉の持つ、なんだか清く優しく神聖な感じがないからでしょうか。妙に悔しい気持ちになります。

つまり「母性本能」とは、本来は「子供に反応する」というより「つい他人に尽くしてしまう」「自己犠牲的」「大きな愛」といった意味で、「母に対する理想」「素晴らしい母とはこういうもの」をもっともらしく表現した言葉です。でもそれ、ほんとに「母性」だろうか、とか思ったりもします。だって「本能」ってくらいだから、「苦いものは腐ってるもの」と判断するとかそういうものと同じ、つまり人間が動物に近い時代からあるものだと思いますが、国や地域や時代や社会体制によってまちまちな「理想の母親」の概念に、「母性本能」は対応できるんだろうかと心配にもなります。

さらに言えば、例えばちょっとやんちゃで甘えたイケメンを「母性本能くすぐるタイプ」とか言いますが、そういうタイプは女子のカワイ子ちゃんに置き換えれば、若造からおっさんまで全男が大好きです。さらに女子が「母性本能をくすぐられる」と言うとき、その相手を「息子にしたい」と思っている人はまずいません。100歩譲って、性的な対象ではなく相手の「面倒を見てあげたい」と思っている、例えば自分の子どもの年齢のアイドルに金をつぎ込むみたいなパターンだとしても、それも女子にもおっさんにもよくあることです。

してみると、さも女子だけが持つ、全女子に共通するかのように言われる「母性本能」は、「母性」でも「本能」でもないんじゃないか。男女に限らず、持ってる人は持ってるし持ってない人は持ってない類のものなんじゃないかという疑問がわいてきます。

「子供を産めば自然と母親になれるはず」という辛い前提

さて今回のネタは『少年は残酷な弓を射る』。一言で言えば「人一倍エキセントリックに生まれついた息子を理解できず、愛せず、うまく育てられず、結果人生をめちゃくちゃにしてしまう母親の話」です。

主人公のエヴァは誰もが知る人気作家で、世界中を旅して暮らしていた人で、夫と出会って結婚し子供を授かったことをきっかけに、普通の生活を送り始めます。そうして生まれた息子がケヴィンなのですが、泣きまくりの乳児時代を経て、母親の嫌がることを徹底して実行するティーンへと成長するケヴィンを、エヴァはまったく可愛いと思えません。

こんな場面があります。子供が生まれて旅に出られないエヴァは、せめてもの慰めに部屋の壁紙として世界地図を張り巡らすのですが、うまく仕上がったその部屋をケヴィンが(意図的に)ぐっちゃぐちゃにします。それまで懸命に「母親」を演じてきたエヴァは、頭に血が上ってケヴィンを突き飛ばし、大けがさせてしまいます。

自分より子供を優先する「母親」になったつもりが、実のところぜんぜんなれていなないと思い知ったエヴァは、以来「母親」になるべく、ケヴィンの言いなり――「下僕」になり下がってしまいます。

そんなエヴァを見ると、この人の最大の失敗は「子供さえ産めば自然と母親になれる」と思い込んでいた――つまり「母性本能」を信じていたことじゃないかなーと感じます。女子なら誰だって母性本能を持っている、なのになんで私は、何よりも子供を愛する母親になれないの? そんな彼女の、そして多くの新米のお母さんの苦しみは、例えば「自分は男なのに、なんで女の子を好きになれないんだろう」「自分は猫なのに、どうしてニャーじゃなくワンと鳴いてしまうんだろう」「うちの家系はみんな医者なのに、どうして自分はバカなんだろう」なんて言う苦しみと似ていて、その前提が正しいことに端を発しています。もちろんこの世に「母性」というものはあるんでしょう。疑問はそれが、ほんとに「全女子だけ」に「本能として」備わっているものなのかということです。

確かに出産を経て母親になるのはすごいことですが、初めての子育ての際に、何の悩みもなく誰にも教えられず、本能だけで「母親」になった人なんて、少なくとも私の周りでは見たことがありません。逆に、母親と同じだけの苦労を味わい、私がこの子を育てなければと覚悟し、誰かの教えを請うて努力すれば、お父さんにだってお爺ちゃんにだって「母性」は芽生えるんじゃないか――単に、やってないだけで。

そんなわけで、さてもう一度。「母性本能」って本当にあるんでしょうか?

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