人生を肯定するための嘘も、そろそろ限界

私の古い友人に、世界的な企業でそれなりの地位を獲得し、こよなく愛する妻と子供たちとともに海外でリッチな生活を送っている、誰もが認める「勝ち組」の人がいます。私は彼のことを密かに「勝ち組完璧バージョン」と呼んでいるのですが、その彼がある時、こんなことを言い出しました。

「自分の人生が間違っていないと証明するために、子供を可愛がっているような気もする」

彼は結婚することや子供を持つ人生を(今となっては幸せだという実感はあるものの)、そもそも望んではいなかったと言うのです。頼れる夫も子供もおらず、日本でちまちま小銭稼ぎしてる私に向かって、おいおい勘弁してくれよと思いましたが、そこには一面の真実があるような気もします。それは、人間は、どうにかこうにかでも肯定できる人生でなければ、生きていけないということです。

ということで今回のネタは、ケイト・ウィンスレット&レオナルド・ディカプリオが『タイタニック』以来の共演で夫婦を演じた『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きる日まで』。主人公エイプリルは、景気のいいコンピューター会社に勤める夫フランクと、可愛い2人の子供に恵まれ、郊外の住宅地「レボリューショナリー・ロード」の一角で最も素敵な家で暮らしています。

「望んだ形とは違うけれど、きっとこれが幸せというもの」と自分に言い聞かせ肯定してきたエイプリルは、あることをきっかけに、それが自分自身への嘘であることに気づいてしまいます。そして、常日頃から「やりがいのないくだらない仕事を我慢してやってる」と文句たれている夫フランクに、こんな提案をすることに。

「私が働くから、あなたは仕事を辞めて、やりたいことを探すっていうのは?」

男と女の「バージョン」が違すぎると、結婚もうまく作動しない

エイプリルがこんなことを言い出す大前提には、「私たちは特別、他より優れている」という発想があります。でも本当のところは、女優志望の彼女は才能のなさを自覚しているし、「絶対に父親みたいにはなりたくない」と言っていたフランクも、結局は父親と同じ会社のサラリーマンです。平凡の極み、ひとつも特別ではありません。

そんな中で、エイプリルからのこの21世紀的な提案を実現することは、言ってみれば自分たちを「特別な存在」として再構築するための第一歩。というのも映画の舞台は今から50年ほど昔の1955年で、女子が夢を追うことも、主婦以外であることも、夫の代わりに外で働くことも、ほとんど許されない時代だからです。

映画の中で最も幸せな場面は、この提案をフランクが受け入れる場面です。そこにある未来の一瞬の輝きは、エイプリルのいくつかの幸福な誤解によって成り立っているのですが、その中で最たるものはフランクが自分と同じ「特別さ」を持っていると信じたこと。実は良くも悪くも俗っぽく、社会的制約を受けたことがない「男」であるフランクは、エイプリルの切迫感を全く理解していません。そんなわけで結局この約束は反故にされ、今後も肯定できない人生を生き続けることが決定的となったエイプリルは、完全に自分を見失ってしまいます。

この結婚の悲劇に私が思うのは、エイプリルとフランクの間にある埋めがたい感覚の差です。エイプリルの自由さと強さは、「2016Ver.」の女子にすら共通するものです。男が働き女が家庭を守るなんて決めなくていい、子供が生まれても人生を諦める必要はない、子育てに縛られるなら子供は産みたくない、たとえ失敗しても自分の思うように生きたい――だってルールなんてないんだから。そうした発想は、実のところ骨の髄まで「1955Ver.」の男であるフランクにとっては「狂気の沙汰」です。「2016Ver.の女子」と「1955Ver.の男」の結婚が、うまくいくはずがありません。

翻って2016年。日本の女子は少なくとも3分の1くらいはきっと「2016Ver.」、残りだって「30歳までに結婚」が一般的感覚となった「1995Ver.」くらいにはなっているはずです。50年前どころかローマ時代からあらゆる権利や自由が当たり前でここまできた2016年の男たちは、いったい「何年Ver.」くらいまでバージョンアップしてるんでしょうか。

「私が働くから、あなたは仕事を辞めて、やりたいことを探すっていうのは?(もちろん家事と子育てはしてもらうけど)」

それでも自分を肯定しながら生きられる男だったら、意外と拾い物かもしれません。

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