"優しいお母さん"が大好きだけど、軽蔑もしている

さて前回 に引き続き『わたしに会うまでの1600キロ』。

主人公は、母親ボビーの死をきっかけに荒れまくるシェリル・ストレイド。ドラッグに溺れ結婚生活を破たんさせ、手あたり次第に男と関係して妊娠し中絶し、とにかくすべてがズタボロな日々から立ち直るために、アメリカ西部を縦断するパシフィク・クレスト・トレイルの1600キロを歩き始めます。

ボビーはシェリルとその弟が幼いころに暴力夫の元から逃げ出し、以来、家族は3人暮らし。ボビーは学も生活力もなく貧しい生活を強いられていますが、悲壮感はまったくありません。子供たちを愛し、貧しさの中にも楽しさや美しさを見出し、暴力夫と出会ったことにすら「2人の子供を与えてくれた」と感謝を口にします。彼女の唯一の後悔は、自分に教養があれば何か違ったのではないかということ。だからこそシェリルをどうにか大学に通わせます。

でもそのおかげで優秀に育ったシェリルは、一方で母親の無邪気さと優しさと愚かさを愛しながら、他方ではそのすべてを蔑んでいます。母娘の間で大きいのは世代差。1968年に生まれアメリカの女性解放運動とともに成長したシェリルは、「女も男と同等の自由と手にすべき。家庭で男に尽くすだけなんて人生の浪費」と考える頭でっかちな大学生になり、まるで「愚かな妹」に接するように、母親に接しているんですね。

ところが。この母親の急死で、シェリルは坂を転げ落ちるように最悪のダメ女になってゆきます。

娘は誰だって「母親に褒められるのが好きな子」

全然関係ない話ですが、子供の勉強には「リビング派」と「自室派」があるそうです。私は完全なリビング派。ほかの人がどうかは知りませんが、誰の目もない静かな場所では完全にサボってしまいます。『ガラスの仮面』全巻制覇とか、ここぞとばかりに朝まで熟睡とかしちゃうわけですね。

でもリビングには母親の目があり、「母親への"勉強してます"アピール」という別の意図によって、勉強がけっこうはかどります。母親は私のことを「勉強好きな子」と思っていたかもしれないけれど、私は単に「母親に褒められるのが好きな子」で、褒められるために勉強をしていただけです。

母親を失ったシェリルが完全に無軌道化するのを見て、思い出したのはこのことです。

「母親のようになりたくない」と考える娘シェリルは、母親よりも上位に思えますが、実はボビーがその優しさと愛情で完全にシェリルを支配しています。母を軽んじるシェリルの言動は、絶対に怒らない飼い主に子犬がやる「甘噛み」みたいなもので、もっと言えばそういう状況さえも、「母親よりも頭のいいしっかり者の娘」を望んだボビーの計画通りの展開です。

母親を演じるのはローラ・ダーン。素晴らしい演技!pinterest
Everett Collection

でもシェリルの望みは「学のあるしっかり者になること」ではなく「母親に褒められること」ですから、褒めてくれる母親がいなくなったときに目的を喪失し、何が何だか分かんなくなっちゃうのは当然のこと。でもってここから、「母なしで」何者かになるための1600キロ踏破という、壮大な親離れが始まります。

この映画がすごくいいのは、読書家のシェリルが旅の合間に読む本の文言が、様々な場面で彼女に勇気と気づきを与えることです。私が一番好きなのは、映画の最初のほうに登場する、詩人エイドリアン・リッチのこの言葉。

彼女は、自分の傷を認めなかった。 その傷が、自分の力と同根であることを認めなかった。

それは、体中に負った傷を前向きな力に変えて生きた母の強さと、たったひとつの傷を力に変えられないシェリルの弱さ、両方を言いえたものに思えます。

敬うこと、蔑むこと。支配すること、逃れること。愛すること、憎むこと。『ブラック・スワン 』や『ピアニスト 』のような毒母であれ、ボビーのような母であれ、いずれにしても、娘に傷を残す母親の愛は、だからこそ力の源であるのかもしれません。

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