美しく鍛え上げた背筋と、そこにできる悲しいシワ

さて前回に引き続き、今回も『ブラック・スワン』。

あるバレエ団を舞台に、プリマになったナタリー・ポートマン演じる主人公ニナのさまざまな精神的抑圧を描いたこの作品は、血のにじむ指のささくれを剥いたら指まで剥けたとか、トウシューズでグキッとやって脱いだら爪もげてるとか痛い描写満載の、ほとんどホラーのような作品です。

でもそういう描写には意外と慣れてしまうもの。それよりも私の胸に刺さったのは、ナタポに個人レッスンをつける年配女性の先生、その背中です。おそらく本物のバレリーナなのでしょう、筋肉の形すらわかるような鍛えぬいた背中なのですが、肩甲骨が動くたび、その下の肉がひとかけらもない皮膚が寄り集まり、「シワッ」となります。

私は思いました。「バレエってなんて残酷な世界なんだろう」と。こんなに鍛え上げていても年がいけば舞台には立てません。ニナの妊娠で28歳でキャリアを諦めたと語る母親を、ニナは「ただ年齢的に限界だっただけ」と思っているし、ニナの前のプリマ、ベスはせいぜい30代なのに「更年期の人はさっさと引退して」と陰口を叩かれます。でもそう言う若いバレリーナは、技術も精神力も彼女に追いつきません。

鍛錬を怠らず、最高の技術も持ち合わせ、精神的にも肉体的にもタフで、若くて美しくて、それでもプリマになれない人も当然います。多くのプリマが完璧主義と言われるのは、完璧主義じゃないとプリマになんてなれないからに違いありません。

さてプリマを勝ち取ったニナもそんな完璧主義者で、そのことがこの映画をよりホラーにしています。

壊れたプリマを演じるウィノラ・ライダーも、ナタポに負けない怪演pinterest
Splash//Aflo

完璧な"完璧"は、唯一無二のもの?

幼いころは3日に1度は髪の毛が寝起きのまんまこんがらがり、スイミングスクールでは常に一人だけ明後日の方向を見て好き勝手にチャプチャプやり、忘れ物グラフをつければ私のところだけ紙を足さなければいけないほどダントツで、中学高校という多感な時期の写真は気づけばほとんど変顔、という私は生まれながらのダメダメなタイプです。

ですから、仕事はバリバリで妻で母、いつ見てもキレイでおしゃれでリア充、この人は本当は23人いるに違いないと思わせるほどエネルギッシュな活躍の人を見ると、完璧主義なんだろうなあと、いつも感心してしまいます。でもそれと同時に「でもでも完璧ってどういうこと?」と考えたりもします。

例えば「完璧でありたい」と切望するニナは、常に鍛錬し、身体のラインを崩さないために食事は小鳥かと思うほど少量で、友達も作らず遊びもせず、バレエの正確性に影響しかねない感情は常に抑えています。演出家のトマは、そんな彼女に言います。「抑制だけでは完璧にはならない。解き放ってこそすべてを越えられる」。彼が「正確ではないが官能的」とベタ褒めするのは、ニナの代役リリーの演技です。

完璧って何?完璧って何?完璧って何?という悶々が極まったニナは、答えを探して、彼女が考える「完璧なバレリーナ=ベス」に尋ねます。ベスの答えはこうです。「私は完璧なんかじゃない。ただのクズよ」。

改めて、「完璧」ってどういうことでしょう。これは巷にもよくある問題です。技術的にミスのないニナか、誰もが魅了されるリリーか。一分の狂いもない均整のとれた整形美人か、不均衡だから魅力的な天然美人か。真新しいピカピカな最高級品か、名もないアンティークの経年変化が作る味わいか。でも自分が「これで完璧」と思っていても、周囲がそれを「完璧」とみなすかどうかはわからないし、周囲が「完璧」とみなす人が「完璧になれない」と悶々としているかもしれません。

そうなると結局のところ世の中の「完璧」は、「これが私の完璧」という単なる「落としどころ」でしかなくなってしまいます。ニナのような完璧主義者は思うでしょう。「それは完璧な"完璧"ではないのでは?完璧って唯一無二なものでは?」。もはや出口のない完全な迷宮入り。

迷宮の入り口にすら立ったことのない私は、それゆれ冷静に思うのです。

まあとりあえず、それ全部「完璧」ってことでいいんじゃないのかな。

♥ 【女子の悶々】記事一覧はこちらでチェック