vs魚屋の「鰯スプラッタ事件」

ある梅雨の初めの土曜日、スーパーで旬の安くて新鮮なイワシ(大好物)を見つけた私は、「これをマリネにして冷製パスタに!」とちょっと洒落たことを思いつき、ホクホクな気持ちで2パックを手に取りました。魚を捌くのはイヤじゃないんですが、この時期ですからさっさと処理がよろしいと思い、鮮魚コーナーに「頭と内臓だけ取り除いてください」とお願いすることに。数分後、戻ってきたイワシは、裂かれた腹のジャッキジャキぶりといい、捌いた腹の中を水洗いしていない血まみれぶりといい、かけなおしたラップのぐちゃぐちゃ加減といい、さっきまでピッカピカだった姿が全くの別人、というか別イワシな、それはもうスプラッタな状態でした。

「ちょっとこれひどすぎませんか。いくらスーパーとはいえ、初歩的なイワシのはらわた除くこともできないで魚屋名乗るわけ?できないなら最初から言えっつうの!頭ついたままでいいから、新しいのと取り替えろやコラ!」

あまりに頭にきた私は、魚屋の胸ぐらをつかんでそんなふうに――言うことができなかったんですね、はい。

私は、どちらかといえば、っていうより、明確に「ああ言えばこう言う」タイプですし、インタビュアーとしても「聞き上手型」というより「突っ込み型」。そんな私が、別にいい顔したかったわけでもなんでもない魚屋のおっさん相手に、「仕方ないな」的な感じも皆無だったにもかかわらず、ただ茫然としながら、なぜなの、何も言わずに引き下がってしまったのです。

結局のところ内臓も全然きれいに取り除かれていなかったイワシの腹を洗いながら、私は悶々と「なんで言ってやらなかったのか」と自問を繰り返しました。

こんな私を見て、多くの人が言うでしょう。

「その場で言えばよかったじゃん」

「それで済んだってことは、それほどの問題じゃなかったんじゃないの」

「本当にイヤだったら、絶対に文句言うんじゃないのかなあ」

ええ、そうです、ほんと、おっしゃる通り。後から考えれば「ああも言えた、こうも言えた!」と腹立たしく思い出すし、その場で言うことができなかった自分も情けない。イワシごときだから大事にはなりませんが、こうした態度が余計なトラブルを招くことだってあるわけです。

本当になんでそうなのか、生理前で頭が回らなかった、水星逆行の影響、想定外の事態に呆然とした、なんとなくタイミングを逸した、その場の空気を壊したくなかった、その時々であるのでしょうが、「そうか水星逆行だからか!」と理由が分かったところで何も変えられはしません。ただ唯一の真実は、そういう状況をつい飲み込んでしまった(飲み込まされてしまった)からといって、それを了承したわけでは決してないということです。

確かに私は愚かですが、それがそんなに罪ですか?

さて今回のネタは『ラブレース』。70年代に『タイタニック』級の大ヒットを飛ばした伝説的ポルノ『ディープスロート』の主演女優、リンダ・ラブレースの半生を描いた作品です。彼女は「何が悲しくて」という最低な男と結婚し、これでもかこれでもかと丸め込まれてポルノ女優になってしまった人です。大スターになるまでを描く前半、リンダはどこかポカーンと無邪気に夫の言うことに従い、「こんな男のすべて言いなりか!」とジリジリするのですが、そこまでの過程を6年後の彼女の視点から描く後半で、観客はその真実を知ることになります。

「きっぱりと言えばよかった」

「言わなかったんだからOKと思われても仕方ない」

「本当は自分も望んでたのでは」

いやいや、そんなことないんですって。程度の差こそあれ誰にでもこういうことはあるものだし、できなかった理由は本人にもわからず、分かっていてもどうにもできず、いくら他人が「それでも何かできたはず」と言っても、きっとアナタならね、って話でしかありません。確かに彼女は愚かかもしれないけれど、それはまた別の問題。「どんな目にあっても文句は言えない」という理由にはなりません。

ちなみに冗談みたいな話ですが、前回の屈辱を受けて「同じ轍は二度と踏むまい」と心に誓ったはずの私は、覚えていたはずなのに2週間後に再び同じスーパーで美味しそうなイワシを魚屋にスプラッタにされ、また文句を言えずに呆然と立ちすくんでしまったことをご報告しておきます。人間なんて、そんなもんなんですから。

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