松田聖子が生み出した、全方位型「愛され」テク

前回書いた女子の男に対する「可愛さ売り」、日本でのその発生源をたどれば80年代アイドルに行き当たります。象徴たるトップアイドルは松田聖子。涙の出ない泣き顔、半開きの唇、歌っている時の肩の入り方など、「可愛い系媚び」を記号化したさまざまな仕草を作り出し、「ブリッ子」という名人芸を作り上げた人です。ものまね芸人のホリの方法論で誰もがキムタクの真似をしやすくなったのと同様に、聖子のそうした芸は、無数のアマチュアの「アイドル」を生み出す結果となりました。

私の人生で最強のブリッ子に出会ったのもこの時代です。彼女は決して悪い子ではありませんでしたが、学校で誰もが知るブリッ子でした。その反応たるや、今の今までブータレていても男子や先生が来るとすべてが豹変、声は1トーン高くなるわ、はにかみ顔で「うふっ❤」とかやるわ、小首かしげるわで、男の体臭エキスに反応する高感度センサーでもついとんのかと、彼女の背中のあたりをまさぐりたくなったものです。

でも私にとって何より不思議だったのは、彼女が自分の嫌いな相手にさえいい顔をせずにはいられないことでした。例えば、彼女を気に入っていちいちちょっかいを出してくる面倒くさいブ男、みたいな相手が、「これ先生のとこに届けといて」とか頼んできたとしましょう。「え~」「いいじゃん、お願い」とかいう無意味にネチャネチャしたやりとりの末に結局彼女は引き受けるのですが、そいつがいなくなると「つうか、なんで私があんな奴のために!」とぷりぷり怒ります。

「つうか、なんで引き受けんの?」と思っていた私は幼くも単細胞で、彼女のことを全然理解していなかったのだなあと、今にして思います。彼女が「ブリッ子」していたのは、男の気を引くことが目的だからではなく、アイドルよろしく誰からも「愛され」る存在であるため。それが当時の彼女のアイデンティティだったからだと思うのです。

愛されてると、なんか得する――その「なんか」って何?

さて今回のネタはオスカー受賞で話題のレオナルド・ディカプリオ主演の『華麗なるギャッツビー』。初恋の女性を手に入れるために全人生を賭けた男の物語なのですが、私を悶々とさせるのはその初恋の女性、ギャツビーを翻弄するヒロイン、デイジー・ブキャナンです。

上流階級のお嬢さまとして蝶よ花よと育てられたデイジーは地域でも評判の美少女で、十代の頃から自分に熱を上げる男たちに囲まれて生きてきた(そしてその中で一番の大富豪と結婚した)、生まれながらのアイドルです。彼女は何の目的もなくフワフワと生きてきた女子ですが、今までも「可愛さ売り」で「愛され」て「なんか得」してきたので、「とりあえず愛されるために可愛さ売っとく」のが習い性になっています。粉かけても意味のない男にも、これっぽっちもその気がない男にも、「私に恋をしているの?」とか「キスしたくなったらいつでも言って」とか言うわけです。私の感覚では「子持ちの大富豪夫人」というよりは「頭が心配な人」な感じがするのですが、同時にそのデイジーからこーんなセリフが飛び出しちゃうわけです。

「女の子はきれいなオバカさんが一番」

その昔、原作の小説『グレート・ギャツビー』にあるこのセリフを初めて知った時の悶々は、なんというかほんと、上手く表現できません。こういう風に言うと妙な説得力が漂っちゃうのが困りものですが、これの"言い換えバージョン"――「女が知恵をつけると碌なことがない」「女はきれいにして職場の花でいてくれりゃ十分」「黙って言うことを聞く女が一番。頭のいい女は可愛げがない」とか――を、様々な場所でよく聞いていたからです。

もちろん今の時代、こうした"言い換えバージョン"を女子に浴びせる人はそう多くはいませんが、完全な過去かといえばそうとも言えません。最近、ある超有名作詞家が自分とこのアイドルに歌わせ大炎上した歌詞には、デイジーのこのセリフに「愛されなきゃ意味がない」という文言をプラスした代物で「うわああああ」となりました。

むしろ「きれいなオバカさん」は「愛され」という言葉に変換され、より巧妙に女子たちを呪縛している気がします。かつては女子から総スカンだった「ブリッ子」の在り方は、女性誌のページにもインターネットにも「愛され仕草」とか「男の理想の愛され女子」とかに名前を変えて、頭上で舞飛ぶ小虫の様な鬱陶しさで大量発生しています

もちろん誰かに嫌われることの恐怖は、全女子最大の泣きどころ。でもふと考えたりしませんか? 嫌なことを断らず嫌いな人にも「愛され」ることで手に入る「なんか得」って、一体何でしょう。そしてそれ、あなたの望んだものですか?

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