第3回

マリリン・モンロー Marilyn Monroe

華やかに見えるけど、意外と苦労人

ウェーブのかかった輝くブロンド、口元のセクシーなホクロ、バストとヒップを強調した魅惑の曲線美。ジョー・ディマジオや、アーサー・ミラー、ケネディ兄弟ら、大物たちとの結婚・恋愛・スキャンダルに事欠かず、寝る時の服装を尋ねられて、「シャネルの5番よ」との名言を残すなど、世紀のセックスシンボルだったマリリン・モンロー。

これまでさまざまな映画やドキュメンタリーで知られざる素顔を描かれてきたので、マリリンをただのセクシーブロンドだと思っている人は今では少ないとは思うけれど、華やかな陰で彼女がどれだけの苦労をして、努力を怠らない人だったのかを振り返ってみたい。

工場で撮られた写真がきっかけ

マリリン・モンロー、本名ノーマ・ジーン・ベイカー。父親は行方知らず、母親も祖母も精神を病み、里親のもとを渡り歩いた不幸な生い立ちをもつ。ろくな教育を受けないまま、16歳で自立のために最初の結婚をし、その後、工場で働いているところを写真に撮られたことをきっかけにハリウッドでモデル活動することになる。

こうしてモデルから女優になろうと決意したノーマ・ジーンは離婚。その後、20世紀フォックスと契約して「マリリン・モンロー」が誕生する。しかし最初の数年は鳴かず飛ばず。20世紀フォックスはたった1年だけで契約を打ち切り、マリリンは女優に憧れるただの女の子としてハリウッドでヌードモデルや時々はコールガールをしながら生活していたと言われている。

彼女にとって人生で最も貧しく困難だった時代だったにも関わらず、それでも俳優養成所学校に通うお金だけは残し、演技にひたむきな情熱を傾けていたマリリン。しかも、自らの大きな魅力であるボディをさらに魅惑的に見せるため、ウェイトリフティングや毎朝のジョギングを欠かさず、さらに『人体解剖学』という書物まで読み、骨格、筋肉、ポージングまで研究を重ねていたというのだから、その人知れない努力たるや、頭が下がる。

マリリン・モンローpinterest
Michael Ochs Archives
ニューヨークのアンバサダーホテルにてシャネルの5番を手にするマリリン・モンロー

演技への尽きない探究心

その後、『イヴの総て』や『紳士は金髪がお好き』、"モンローウォーク"が有名になった『ナイアガラ』、地下鉄の通風口の上で白いスカートがふわりとひるがえる『七年目の浮気』などで大スターの地位に上り詰めたのは広く知られるところ。だが、彼女は成功してもなお、演技の勉強をするため、ニューヨークの名門演技学校アクターズ・スタジオの門をたたき、メソッド演技法の確立者リー・ストラスバーグのもとでトレーニング続けていた。マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、ポール・ニューマン、ロバート・デニーロら錚々たる演技派を育ててきたストラスバーグは、後に「何百人もの役者を育ててきたけど、特別だったのはマーロン・ブランドとマリリン・モンローだけ」と語っており、いかに彼女が非凡だったかがわかる。

短く太く生きた、36年の生涯

その後、ジョン・F・ケネディとのスキャンダルにも巻き込まれ、人生の晩年は精神不安定でクスリとアルコールに頼り、悲劇的な最期を遂げることとなった。後にアンディ・ウォーホルの作品のモチーフになったこともあり、今もなおポップ・アイコンであり続けているけれど……。

スポットライトを浴びた陰では、常に「教養」と「演技力」を追い求めていた努力家だった。その努力が彼女を成功に導いたのは間違いない。